一年だけの契約妻で、ほぼ放置されていたのに
私を見下ろす彼の頬が濡れていた。何度も嚙み殺して吞み込んで、なかったことにしてきた愛への渇望が堰を切って出たかのように。
なんて、愛おしいんだろう。
生きてきてこれほどこの感情を強く思ったことがない。首の後ろに手を回して彼との距離を詰める。濡れた頬に口づけた。チュッと音を立てて離れた後、唇を舐める。
「しょっぱい」
「……ふっ」
私の呟きに虚を突かれた後吹き出した。くつくつと笑いが抑えきれない様子で彼は私の上に落ちてくる。首筋で笑われると吐息がかかってこそばゆい。身じろぎしたら、彼が顔を上げた。まだ目が笑っている。
「こんな時に笑わせるんじゃない」
「だって」
「普通舐めない」
「鷹士さんのだからだよ」
「まぁ……それなら悪くないな」
そう言ってまんざらでもなさそうに口角を上げる。私は手で彼の頬を拭った。涙は止まったみたいでもう頬が濡れることはなかった。
「全部受け止めるから。泣いていいよ」
「もう全部出た。また出た時は頼む」
最後笑い涙が残った目尻を指で拭いながら言う。私は「任せてよ」と言おうとしたけど、その前に口を塞がれていた。
くぐもった声が口の端から漏れた後、その隙間を狙うように舌が侵入してきて、私の無防備な舌を絡め取る。呼吸も全部呑み込まれていくほど中を蹂躙されて、熱い唾液をこくりと飲んだ。
「そろそろ行くぞ」
息を上げる私にそう言う彼の目の奥はギラギラと光っていた。まるで、野生の肉食獣のような、交じり気のない本能がそこにあった。酸素不足と快楽で攻められた私はぼーっとした頭でも、美しいとさえ思ってしまう。
羞恥が情欲を超えて小さく頷く。彼の手から伝わる熱と感覚に目を閉じた。
セーターの裾から侵入してくる大きく武骨な男の手。肌を撫でながら、おへそから上へと滑っていく。ブラジャーが見えかけた時、あることに気づいて彼の手をガシッと掴んだ。彼はその手を見てから怪訝そうに私へと視線を向ける。
「何?」
「お、お風呂入らないと!」
「俺は気にしない」
「私は気にするの!」
鷹士さんはいい匂いだけと、私はオフでも出かけたりしていた。しかも、今日の下着はベージュのわりと使い古したもの。鷹士さんを萎えさせてしまったら、今後立ち直れない。
それなのに、彼は無言で抗議してくる。気持ちはわかる。場の雰囲気を壊している自覚もある。それでも……。
「鷹士さんの前では綺麗な状態でいたいもん」
ぽつりと本音を吐けば、鷹士さんはきょとんと目を丸くする。一拍後、崩れ落ちるようにまた私に覆いかぶさってきた。
「か……わい」
「え?なんて?」
耳元で声を拾ったけど、よく聞こえない。鷹士さんは勢いよく起き上がると、私の手を引いて身体を起こしてくれた。
「わかった。解決策がある」
「え、何?」
「一緒に入ればいい」
「へ?」
ソファーで向かいあう形に逆戻りになり、ひとまずストップしてくれたと安心したのも束の間。予想外の提案に今度は私がきょとんとする番だ。鷹士さんは冷静にプレゼンするような口調で続ける。
「俺はつぐみと離れたくない。つぐみは風呂に入りたい。ふたりの意見の間を取ったらそうなる」
「ちょちょちょっと!それは違う!一緒にとか、恥ずかしいっ!」
「大丈夫、最後は裸になるから」
「あ、そっか……いや、違う!やっぱり違うー!」
「昔、一緒に入っただろ」
「……え?」
一瞬何を言われたかわからなかった。高速で記憶を遡れば、おう君がうちに泊まった日、お母さんが帰るのが遅くなってふたりでお風呂に入った。私はひとりでお風呂に入るのも慣れっこだったけど、あの時は兄弟ができたみたいで楽しかった……。
その記憶が鮮明に頭に蘇った後、これでもかというくらい目を見開いた。
「わ、私のこと覚えて!?」
「さぁ、行こうか」
鷹士さんは私の膝の裏に腕を差し込むと、軽々持ち上げた。生まれて初めてのお姫様抱っこ。咄嗟に彼の首の後ろに腕を回す。
不安定な体勢のようで、鷹士さんがちゃんと支えてくれているから怖くない。
こんなに目線が高くなるんだ。
感動しているうちに、鷹士さんはすたすたと歩き出す。リビングから廊下に出ると、右手のドアが浴室だ。
「一年間ほったらかしにしてしまった分サービスしないとな」
「え、わっ、ちょっと!あ〜っ……」
私の悲鳴は脱衣所の扉が閉まると、あっけなく遮断された。





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