君だけの風景

届かない手紙

 風が強い朝だった。
 海辺の町に、ひとしきり冬の名残が降りてきていた。

 投函口のないポストのように、
 わたしは、どこへも出せない手紙を、毎日書き続けていた。

 

 最初の一通には、名前を書けなかった。
 「遥人へ」と綴ってしまった瞬間、なにかを失う気がしたから。
 代わりに、“きみ”という二文字で始めた。

 

 『きみが、どこかで笑っているといいと思う。
  わたしが今いるこの町には、小さな図書館があって、
  毎日、高校生たちが椅子を並べて勉強している。
  そこにきみが混じっていたら、どんなにいいだろうと思ってしまう。
  今日の空は、淡く曇っていて、光の輪郭がやわらかかった。
  それを、伝えたくて書いています。』

 

 そんな手紙を、一冊のノートに綴っていく。
 罫線のあいだに、わたしは確かに息をしていた。
 ことばを書くことでしか、“いまのわたし”を形にできなかった。

 

 ある日、北陸の小さな町を訪れた。
 雪がぱらぱらと舞いはじめていて、コートの袖に降った結晶が、すぐに溶けた。

 駅前の通りを歩いていたとき、ふと、古本屋の看板が目に入った。
 濃い藍色の木板に、白い字で書かれていた“青鞄書房”。

 

 小さな引き戸を開けると、鈴が鳴った。
 店内は静かで、本の香りが、どこか懐かしい湿度を運んできた。

 詩集の棚に、見覚えのある背表紙を見つけた。
 それは、遥人と最初に一緒に読んだ詩人の名前だった。
 開いてみると、ページの端に、柔らかい文字で書かれた走り書きがあった。

 

“読んでる君の横顔を、いつかまた思い出す未来があるように“

 

 わたしはその一行を見た瞬間、胸の奥で何かが脈打つのを感じた。
 文字の癖。言葉の選び方。
 それらすべてが、遥人の声に限りなく近かった。

 

 けれど確証はない。
 ただの偶然かもしれない。
 でも、偶然が重なると、人はそれを“縁”と呼びたくなる。

 

 わたしはその詩集を、何も言わずに購入した。
 小さな紙袋のなかで、言葉たちは震えていた。
 雪が少し強くなってきて、駅へ向かう途中、空を仰いだ。

 

 ー
 君が書いたかどうかわからない文字に、
 わたしの想いが溶けていく。

 でも、
 わたしはもう、“確かさ”よりも、“願い”を信じている。

 どこかで君が、
 わたしと同じ空を仰いでいるなら、
 それで充分だと、思えるようになってきた。
 ー

 

 その夜、宿の机に座って、また一通、手紙を書いた。


 『今日、君の声のような文字を見ました。
  本当は違う人かもしれない。
  でも、そうだったらいいなと思って、
  わたしは一日を乗り切れました。』

 

 灯りを消して、窓辺に立った。
 遠くの山の向こうで、月が浮かんでいた。

 “また、会えるだろうか”
 その問いはもう、わたしのなかで切実ではなくなっていた。
 “想うこと”が、“居る”ということと同義になりつつあった。

 

 そうして、わたしは眠りについた。
 心のなかで、遥人の名前を静かに唱えながら。
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