君だけの風景

もうひとつの朝

 翌朝、制服を着たわたしは、また駅へと向かった。
 出がけに母は、「何かあったらすぐに保健室に行くのよ。いつでも迎えに行けるからね」と言い、わたしに弁当を持たせた。
 それをリュックに入れながら、ほんの少し胸がちくりと痛んだ。
 けれど、罪悪感よりも、遥人と過ごした昨日の記憶の方が、ずっと強く心に残っていた。

 あの街の空気。
 無理に話さなくても良かった時間。
 “病気のわたし”ではなく、ただの東雪乃としてそこにいられたこと。

 それが、今のわたしには何よりも必要だった。





 電車のドアが開いたとき、昨日と同じベンチには、彼の姿があった。

 「やっぱり、来たんだね」

 彼はそう言って、コンビニの袋を差し出した。
 中には、紙パックのミルクティーと、サンドイッチが入っていた。

 「朝ごはん、まだだったでしょ?」

 どうしてそんなことがわかるんだろうと思いながらも、わたしは素直にそれを受け取った。
 この人は、そういう風に誰かの状態を察するのが、上手なのかもしれない。
 それとも、わたしがそういう“察してほしい気持ち”を、無意識に見せていたのか。





 その日、わたしたちは川沿いのベンチに並んで座った。
 特別な会話はなかった。
 彼が読んでいた本の話を聞いたり、渡り鳥の群れを見たり、ただ静かな時間が流れていた。

 遥人は、わたしに「訊かれない自由」をくれた。

 「なんで制服でここにいるの?」
 「学校は?」
 「体、平気なの?」

 そういう問いは一切なかった。
 彼はただ、わたしが語るのを待つだけだった。
 そして、それがとても心地よかった。





 「ねえ、雪乃ってさ、旅の目的ってある?」

 夕方、ジュースを飲みながら駅へ向かう途中、遥人が不意に言った。

 「目的?」

 「うん。よく“自分探し”とか言う人いるけど、そういうんじゃなくてさ。
  たとえば“この景色を見に行きたい”とか、“ここに行くまで帰らない”とか。そういうやつ」

 わたしはしばらく考えてから、首を横に振った。

 「ない。わたし、逃げてきただけだから。
  目的も、計画も、行き先も……何も考えてなかった」

 遥人は少しだけ笑った。

 「じゃあ、途中でいいよ。
  全部途中で、寄り道で、目的地なんてなくてさ。
  それでも十分、旅だと思うけど」





 その言葉に、救われた気がした。
 “途中でいい”――それは、今のわたしにとって、最高の許しだった。





 その帰り道、電車の中でわたしはふと、あることを思った。

 ――この人に、名前を呼ばれるのが好きだ。
 昨日、彼が初めて「雪乃」と口にしたときの、あの声の響き。
 まるで、心の奥の凍っていた何かが、ふっと解けるような感覚だった。

 誰にも知られずにいたいはずだった。
 病気のことも、旅のことも、嘘で塗り固めておきたいはずだった。

 でも、彼にだけは、少しずつなら話してもいいかもしれない。
 そう、思い始めていた。
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