君だけの風景

名前を呼ぶ声

 翌日、わたしたちは再び旅に出た。

 遥人は「北へ行こう」と言った。
 なぜかと訊くと、「南はあたたかすぎるから、まだ君には似合わない気がして」と笑った。
 わたしはその理由がよくわからなかったけれど、否定する気にもなれなかった。

 電車を何本も乗り継ぎ、たどり着いたのは、東北の小さな港町だった。





 港の風は、潮の匂いと少しの寒さを運んでいた。
 わたしの髪がふわりと舞い、遥人の頬にも小さな冷たさが触れた。

 「寒いけど、空が高いね」
 「うん、全部がすっきりしてる」
 「息まで、透き通ってる気がする」

 わたしたちは、肩を並べて防波堤を歩いた。
 カモメの声が頭上で反響し、遠くでは漁船がエンジンの音を響かせていた。

 それは、都会では絶対に感じられない時間だった。
 言葉がなくても、そばにいることで共有できる“風景”が、ここにはあった。





 その町で出会ったのは、古い文房具屋の老夫婦だった。

 「君たち、観光かい?それとも……迷子かね?」

 老婆のその問いに、遥人は笑いながら「どっちかと言えば、迷子です」と答えた。
 わたしは思わず吹き出してしまった。

 「それなら、ちょうどいい。旅の人には、おまけがつくのよ」

 老夫婦は、わたしたちを小さな店の奥に招いてくれた。
 そこには、手作りの絵はがきと、色あせた万年筆が並んでいた。

 「この町の景色、持って帰れるのよ」
 「誰かに出すのも、自分に宛てるのも、どっちでもいいの」

 わたしは、一枚のはがきを選んだ。
 そこには、冬の海と、それを照らす夕焼けが描かれていた。

 遥人は黙って、わたしの隣に立っていた。
 「これ、誰に送る?」
 「……未来のわたしに」

 そう答えると、遥人は少し驚いたように笑った。





 駅に戻る途中、わたしはそのはがきにそっと書いた。

『きっとあなたはもう、この景色を忘れているかもしれないけれど、
この風の冷たさや、彼の隣で感じたあたたかさは、まだ体に残っているはず。』





 次の日も、また次の日も、旅をした。
 わたし達は、目的もなく、地図も見ず、ただ流れるように電車に乗った。

 降り立ったのは、信州の高原だった。

 新緑が萌え、空は抜けるように青く、湿気もなく風が心地よかった。

 駅から少し歩いた先に、広がる丘と一本の木。
 その足元で、風が草を撫で、まるで海のように揺らしていた。





 「こんなに何もない場所で、何を感じればいいんだろう」
 わたしがそう言うと、遥人は目を細めて空を見た。

 「何もないってことは、何にでもなれるってことだよ」

 わたしは遥人に、全てを打ち明けた。
 病気のことも、周囲の変化のことも。
 彼は時折言葉に詰まるわたしの肩を抱き、ゆっくりと聞いていてくれた。





 町の小さなカフェで、わたしたちはりんごのタルトを分け合った。
 店主の女性は元保育士だと話してくれて、わたしたちをまるで孫のように扱った。

 「君たち、付き合ってるの?」

 その問いに、わたしは言葉に詰まった。
 遥人は、紅茶を口に運びながら、こう言った。

 「まだ、旅の途中なんです」

 女性は笑った。
 「だったら、そのまま、ちゃんと辿り着くといいね」





 その夜、わたしたちは宿をとらず、駅のベンチに座った。
 星が降るような空の下で、肩が少しだけ触れた。

 「名前、呼んでくれる?」

 「……雪乃」

 彼がその声で名前を呼んだとき、涙が出そうになった。
 でも、泣かないと決めていた。

 この旅は、まだ終わらない。
 終わってほしくないと、初めて本気で思った。
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