夜を導く光、それは赤い極道でした。
【第3話】全部取り返せ
夕刻、松野は面影庵の屋敷に戻る。
広間には、栞がいた。椅子に浅く腰かけ、長い脚を組んでいる。
手には茶。だが口をつける気配はない。瞳だけが松野を捉えていた。
「おかえりなさい。処理は済んだみたいね」
「ただいま戻りました。珍しいですね、栞さん。自室から出るなんて」
「報告書、出す前に聞いておきたくて。……あの子、何をされたの?」
「直接的な危害はありません。でも、事実上の“引き渡し準備”だった。……人身売買のプロセスと、ほぼ同じです」
栞は目を伏せ、静かに茶を置いた。
「最低ね。……で、あなた、ずいぶん入れ込んでるのね。あの子に」
松野は、ほんの一瞬だけ黙った。
だが次の瞬間、すっと目を細め、笑った。
「栞さんが攫われたら、俺は──“世界ごと焼いてます”よ」
その声には冗談のような軽さがあった。
けれど、その目は、一切笑っていなかった。
栞は、口元を吊り上げて笑った。だが──その瞳もまた、笑っていない。
「……ほんと、たちが悪い」
「お互いに、ですね」
二人の間にあった静寂は、
刃物よりも冷たく、火よりも熱を帯びていた。
******
屋敷のある一室。久我山はそこにきていた。
報告の声は淡々と。けれど、含んだものは少なくなかった。
「──松野からの連絡が入りました。“例の小室”は始末済み。ついでに、あの件についても──“手を打った”と」
信昭は、うなずくだけだった。
「そうか」
一言、それだけ。
机の上には資料の束。澪の写真、彼女が関わった事件の記録。いずれも“駒”として見るための情報だ。
「これで、奴らが動く土台は整った。……囮としては、悪くないな」
久我山はその言葉に、一瞬だけ視線を伏せた。
だが何も言わず、敬礼に似た仕草でその場を離れた。
「お茶、淹れました」
そう言って静かに盆を置く、千代子。
信昭の横に腰を落とすでもなく、ただ少しだけ距離を空けて立つ。
「ありがとう、千代ちゃん。ご苦労さま」
茶を啜る信昭の視線は、遠く、資料の端に置かれた少女の顔に向けられていた。
どこか──妙に、目に焼き付く。
「……あの子、よく笑います」
ふと、千代子が呟いた。
「この屋敷に来た子たち、誰もあんな顔しませんでした」
信昭は黙ったまま。
茶をもう一口含み、やがて低く呟く。
「……笑ってるだけだよ」
「はい」
「意味はない。感情も、守る理由にもならない。俺たちが動くのは“正しさ”じゃない。“理”だけ」
「ええ、あなたの言葉に、間違いはありません」
千代子の声は柔らかい。否定でも、肯定でもない。ただ、従順。それが、信昭の“望む応答”であることを知っているのだ。
沈黙が落ちる。
秒針だけが、時間を刻む。
信昭は手にした茶を置き、写真の山を一枚手繰った。
笑っている澪の顔。
大勢の組員に囲まれ、何かを口にしている一瞬の表情。
それを指先でなぞる。
「……“あれ”が、武器になるなら──それも、いいか」
その呟きは、誰にも聞こえないほど小さかった。
******
執務室の空気は、今にも弾けそうな弦のように張りつめていた。
椅子に腰掛ける龍臣。その隣に、信昭。
真正面には久我山、松野、そして真次郎の3人が、まるで起立した兵のように立つ。
松野の報告が終わった直後。
誰もが言葉を失い、時計の針だけが「現実の時間」を刻んでいた。
……舌打ち一つ。
沈黙を断ち切るように、真次郎が踵を返す。
その足音が、場の静寂を切り裂いた。
「……どこへ行くつもり、真次郎」
信昭の低く、威圧を含んだ声。命令ではないが、拒絶も許さない口調。
真次郎は振り返らずに言った。苛立ちが混ざった声音で。
「……さぁね。舐められたまんまじゃ、かっこつかないじゃん」
そこにあるのは“怒り”ではない。
“好意”でも、“復讐心”でもない。
……ただ、極道としてのけじめ──それだけ。
信昭は、黙して見送るだけ。
その瞳には「止める気配」がなかった。
それを見た久我山が、わずかに視線を落とす。
──止めるなら信昭がするはず、だが今はしない。
なら──“動く”しかない
松野もまた、目で真次郎を追う。
口は出さない。だが、真次郎の一歩に、呼応するような動きを見せる。
しかし、まだ動けない。
トップの一言がないから。
真次郎も理解はしている。だからこそ駆け出さない。
けれど気持ちは逸る。
その時──
バァンッ!!!!!
まるで銃声のような轟音が、室内を撃ち抜いた。
ドアが真次郎の手によって開けられる直前、その扉が、向こう側から叩き返された。
その奥に立っていたのは——凛。
「何しとんねん、おまえらァアアアア!!!!!」
振り絞るような声、怒号、咆哮。
「うじうじしとる暇あったら、頭使わんかい!!」
ツカツカと部屋の中へ入り、龍臣の前まで行く。そして、龍臣を含め全員に聞かせるように喝を入れた。
「その足は飾りか!! 脳みそは玩具か!!」
雷鳴のような怒声が、天井を割るほど響いた。
静寂が打ち破られ、誰もが呼吸を取り戻しかけた瞬間。
……ギィ。
椅子がゆっくりと軋む音が、空気を切り裂いた。
龍臣が、顔を上げる。
灰色とも銀ともつかない、底の見えない眼差しが、全員を射抜いた。
まるで“それ”だけで、全員が言葉を失う。
「……誰がやった」
低い。
けれど、全員の鼓膜を揺らすほど、重い。
誰も答えない。
いや、答えられない。
その一言の裏に、何人分もの命の重さが詰まっていた。
龍臣は立ち上がる。
ゆっくりと、だが、否応なく空気を変えながら。
「全部取り返せ」
静かな、けれど確かな“命令”。
「……動け」
その瞬間、室内の全員が、反射のように姿勢を正す。
龍臣が最後に言った。
「ここは“俺の家”だ。家族に手ェ出した代償……払わせる」
信昭が動き出す。
久我山が続く。
松野が歩き出し、真次郎は黙って拳を握る。
凛はひとつ、深くうなずいた。
──その場にいた全員が、それぞれの“役割”を思い出したように。
面影庵が──今、怪物として目を覚ます。
────
叫びが割った沈黙を、
静かな声が支配する。
家族を傷つけた手に、
怪物は容赦をしない。
今、面影庵は──
誰よりも恐ろしい「家」として、歩き出す。
Fin