夜を導く光、それは赤い極道でした。
【第6話】三年目のスプーン
「まっつん!私がきましたよ!」
バァンっと台所の扉を開けて開口一番のそのセリフ。松野は鍋をかき混ぜる手を止めて澪を見つめる。
「澪、どうしたの?」
「ん?いい匂いがしますね。これは……ポトフですか?」
「そうだよ、よくわかるね」
「大好物です」
澪はご機嫌で席につき、今か今かと出来上がるのを待つ。そこへ駆けてくる足音。
「ちょっと!!」
「え!栞、さん?」
「おや、どうされましたか。そんなに慌てて」
息を切らしている栞の登場に驚く松野の隣で呑気な澪は松野からポトフの皿を受け取りテーブルに置く。澪が余計な何かを言わないか心配で焦っていた栞は、この状況に顔を歪めた。
「何のつもり?」
「え?……ああ!そうでした!まっつん!こんなポトフで私は騙されませんよ!」
自分が何をしにきたのか思い出した澪は松野に物申す。
「聞きましたよ、まったく……もぐ、まっつんともあろう人が、もぐもぐっ……がっかりですよ、ごっくん」
「澪、食べるか喋るかどっちかにしようね」
「我慢できなくて、つい。まっつんのご飯は美味しいですからね」
マイペースな澪は話すことも食べることもやめない。行儀は悪いが、どちらも欲しくて、その結果の行動。どこまでも純粋に心のままに求めるその姿は、栞には考えもつかない。
「栞さんも一緒に食べましょうよ」
「だから、私はっ……」
「ずっと、そうしているんですか?」
栞の言葉を遮って、澪は唱える。
「あなたが言うように、この世界は外の世界すべてに比べれば窮屈なんでしょう。我慢や、マイナスな気持ちも絶対にないとは言い切れませんよね」
「……そうよ、ここは裏社会だもの。今までの自由は、もう……ないのよ」
悲痛そうに、苦しそうに声に出す栞。松野はそれを聞いて顔を曇らせる。傍から見れば、最悪に暗い状況。夫婦である2人の淀んだ空気。
その中で、異なる色を放つ光。
「では、その限られた中でどうして幸せになろうとしないんですか?」
澪はずっと思っていたことを紡ぎ出す。
「栞さん、まっつんが泣いている方がうれしいですか?」
「それは……」
「まっつんの“気持ち”を、踏みにじる方が、あなたは楽なんですか?」
「っ……」
「どちらも、きっと違いますよね?だって、あなたはずっと苦しそうだから。まっつんも、同じように」
澪の言葉で栞は松野に目を向ける。眉を下げて、泣きそうな顔の男がそこにはいた。まともに見たのは初めてなのかというように、栞は息を呑む。
「栞さん、あなたが何をすれば幸せになるのかは私にはわかりません。でも、あなたが取る行動によって、まっつんが幸せになれる方法は知ってます」
「なによ……」
「本当の気持ちを伝えてあげてください」
澪はニッと笑って、栞を見つめる。
「まっつんは、めちゃくちゃ喜びますよ」
「そんなの、私が何を伝えるかなんてわからないのに?よく言えるわね」
「栞さんも覚悟をもって、ここに……まっつんのお嫁さんになるって決めたんでしょう?なら、自信ありますよ私」
澪はポトフのスープをぐいっと飲み、その美味しさに息を吐いた。
「ウジウジと腐っていくのは、あなたには似合いませんから」
「な、によ……なんなのよ」
「澪です」
「そんなこと、聞いてないわよ!」
「まだ名乗っていなかったなと」
「……本当、まともに取り合ってるのが馬鹿らしいわね」
栞は鼻で笑う。それに対しても澪は顔色一つ変わらない。
「まあまあ、何はともあれ私の愛を受け入れてくださった記念に、食べてみてください」
「……」
「ね?ダメですか?」
「……はぁっ、もういいわよ」
「栞さん?」
「早くして」
「え……」
「だからっ、私の気が変わらない内にさっさと用意して」
栞は声を荒げながら、澪の隣へと座る。それはまさしく、松野がずっと望んでいたもの。慌てて皿にポトフをよそい、カトラリーと共に栞の前に出す。顔を顰めながら栞はスプーンを手に持ち、スープを一口。
「あの……どう、ですか?」
「……」
「熱くないですか?塩加減は大丈夫ですか?」
「あーもう、ごちゃごちゃ言わないで」
「すみません……」
「……なによ、もう。しつこいのよ、あなたたち……」
栞は一度深く息を吐き、スープをすする。
そして、ほんの少しだけ、声が震えた。
「────から」
「え、?」
「……おいしい、からっ」
表情は険しいまま。けれどその言葉がすべて。
松野は、栞の言葉にポカンと目を見開いた。
その一言が、どれほど遠かったか。
たった四文字が、三年もかかった。
震える手が、思わず鍋の柄を掴みそこねる。
「……え、っと……」
声がうまく出ない。けれどその目が、すべてを物語っていた。
「なに?」
「いえ、その……こんな風に俺の料理を食べてくださるなんて、思わなくてっ……」
松野は、堪えきれずに目尻を緩めた。
それは泣きそうな笑顔で、あまりにも優しい表情だった。
栞は、その顔をしばらくじっと見て──
「仕方なくよ。しかたなく。この子がうるさいから」
「でも美味しいでしょう?」
「……」
「はい、無言は肯定とはよく言いますね」
「っ……もう、本当に生意気」
「愛故にですよ」
────
“嫌い”は盾だった。
“無関心”は嘘だった。
塩気も、熱さも、
愛されていたことすらも。
──たった一口で、
拒んでいたすべてが、
溶けてしまいそうだった。
美味しいなんて、
言えるわけなかったのに。
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