夜を導く光、それは赤い極道でした。
【第4話】傘とコイン
──そして、場面は変わる。
澪の高校。
部活動を終えた生徒たちの声が薄れ、夕暮れが校舎を静かに染めていく時間。
校舎の片隅。薄暗い購買部のカウンターに、ひとり、男が座っていた。
薄く笑った口元に、静かな影。
倖。その視線の先に──
「……これはまた、珍しいお客様だね」
いつもの軽口とは違う、低いトーン。
だが、カウンターの向こうに立つ影は、応じなかった。
真次郎は、何も言わず、ただ真っ直ぐに倖を見据えていた。
燃えるような瞳。
息を呑む空気の中、口を開く。
「“購買部のお兄さん”、か。……最後までふざけたままなんだな」
その声音には、怒気よりも、冷たい静けさが滲んでいた。
「……まあ、表の顔としては、ね。お望み通り、“裏の話”でもする?」
倖の声は柔らかい。けれど、それは氷のように冷たい柔らかさだった。
「おまえ、澪をどこに行かせた」
真次郎の拳が、カウンターを叩いた。
響いた音に、教室のどこかで風鈴のような音が返る。
「“秘密の部屋”なんて……あそこは、行っていい場所じゃねえんだぞ……!」
唇を噛むように、真次郎は言葉を吐き出す。
その声には怒りと──そして、恐れがあった。
倖は答えず、視線を一度だけ伏せる。
──記憶の底に、差し込む光。
夜。路地裏。
情報の誤り、裏切り、逃走。
全てを失って、濡れて、座り込んでいた。
声も出せなかった。ただ、冷たい雨が音を立てていた。
……その時、声がした。
「……だいじょうぶです?あの、はい──これ」
目の前に、傘が差し出された。
顔を上げると、少女が立っていた。まっすぐな目。静かな声。
血のついた頬を見ても怯えなかった。
「……この傘、貸します。ダッシュで駅まで行けるんで」
よく、声をかけてきたなと思った。
「……ケガしてます?顔に、血……?」
ああ、バレた。面倒だなとうんざりした。
「……って、あれ、ケチャップですか?」
けれど、傘の奥で小首を傾げたその顔を、倖は忘れられなかった。
差し出されたのは、ただの傘だった。
けれど、そのとき倖の世界にはなかった“もの”が、確かにそこにあった。
──優しさ。
──光。
“傘”一つで、世界が少しだけ明るく見えた。
──もう、3年も前のことだ。
「……返したかったんだ。恩も、あの光も──」
倖は、過去に語るように呟いた。
「秘密の部屋。そこは……どんな“願い”も叶う場所さ。対価さえ払えば、ね」
「……命でも差し出せってのかよ」
怒り。否、その奥にある“確信”が、声を震わせた。
倖はただ、静かに目を伏せた。
「何を差し出すかは人によるさ。でも……何もなしに得られるものは、ひとつもない。それが──あの部屋の流儀だ」
──“あの部屋”。
真次郎は思い出す。澪の笑顔。
無邪気にコインをいじるあの手元に、うっすらと漂っていたもの──
言葉にしがたい、微かな違和感。
「澪は……何を願ったんだ」
「それは、きみが聞くことじゃない」
倖の声が冷たく落ちた。
「彼女は、知らなかったんだよ。“そこ”が、どういう場所かを」
真次郎の拳がわなわなと震えた。
「おまえ……知ってて、連れて行ったのか」
「“秘密の部屋”は、ひとりじゃ辿り着けない。扉を開ける鍵が要るんだ」
「……鍵って、おまえが──」
「いや。鍵じゃないよ。俺は、“扉”そのものさ」
倖の口元に、ひとつ笑みが戻る。その笑みは、静かな絶望の形だった。
真次郎はすべてを悟った。
“購買部のお兄さん”なんて仮面の下に、どれだけの情報と取引が積み上がっているか。
澪が踏み込んだ場所──
それは、世界の“裏”でも最深部に近い場所だった。
「対価を支払えばなんでも望みは叶う。それは運命か、記憶か、命か。……そういう場所だよ。彼女は、それを超えてきた」
「それを、なんで……! なんで澪にやらせたんだよ……!」
「──俺がしたかったわけじゃない。彼女が選んだ」
倖は、真次郎の目を見て言う。
「でもね、きみがいるから、あの子は踏み込んだんだ」
「……は?」
「“助けたい”って気持ちで、彼女はきみに差し出した。自分の運を、命を、全部まとめて──それを“幸運”なんて言って、笑ってる」
真次郎の顔が歪む。
胸の奥で、痛むものがあった。
「──きみがいなければ、彼女はこんな世界には関わらなかった。きみが“助けた”と思ってるその瞬間から、彼女は“巻き込まれてる”」
倖の声音は冷たい。いつものように覆い隠す陽の部分はない。
「だから俺は、“おまえ”を、あの子の前から消したかった」
今見えているのは、陰の部分。
「きみが傷つけば、澪ちゃんは“もう嫌だ”って言うと思った」
止まらない声は、溢れる憤りのようで。
それは、倖が願っていたこと。
「怯えて、関わらなくなる。……普通の女の子に戻る。俺は、それでいいと思った」
「……最低だな」
「うん。知ってる」
倖は静かに笑う。その顔に、悔いも哀しみも、両方があった。
「……あの日、雨の中で差し出されたのは、ただの傘じゃなかった。“優しさ”だった。“光”だった。……俺の世界には、なかったものだよ」
真次郎は眉根を寄せる。
倖の声が、少しだけ掠れた。
「きみが、穢していい子じゃないんだよ」
「──黙れよ、それを言う資格、おまえにだけはない」
「でも、あの子はきみを選んだ。……笑ってそう言ったよ」
静寂が流れる。
どちらも言葉を発さず、ただ、夕暮れの影だけが伸びていく。
倖は真次郎を見据える。ただ、真っ直ぐに。諦めと、覚悟を滲ませて。
「あの日、澪ちゃんが差し出したのは、“命”なんかじゃない。そんな目に見えるものじゃ、測れない──きみを助けたいって気持ちそのものだった」
倖の言葉が空気を切り裂くように響いた。
「……きみもわかってるはずだ。俺たちは、彼女とは違う世界に生きてるって」
静かな声だった。けれど、その冷たさは突き刺さるほど鋭かった。
真次郎は、黙って……
拳を握ったまま、俯いていた。
────
傘を差した日、差し返せなかった心。
それを“恩”と呼べば、きみは赦すのか。
選ばれた“コイン”の先に、きみがいない未来を──
僕だけが、知っていた。
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