夜を導く光、それは赤い極道でした。
【第5話】悪役の条件
真次郎の顔が、わずかに動いた。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、どうしようもないほどの──葛藤があった。
「……ああ、わかってるよ」
ぽつりと、吐くように。
「わかってんだよ、最初から。……俺がどんな人間で、あいつがどこに生きてるかなんてさ」
声は低い。けれど、抑えても抑えきれない熱がにじむ。
「だから、ずっと線を引いてきた。……好かれてるって、気づいた時だって……」
一瞬、唇を噛んだ。
倖は何も言わない。ただ、黙って見つめている。
「手を、伸ばさなかった。……それが、あいつの未来を守ることだって、そう思ってたから」
真次郎は顔を上げる。
その瞳に宿っていたのは、怒り、悔しさ、そして──揺るがぬ意志だった。
「でも、おまえは……その気持ちを、“利用”した」
バン、と。
カウンターに拳が落ちる音が、薄暗い空間に響く。
「守りたかった? 救いたかった?……だからって、裏に引きずり込んで、命張らせて──」
一瞬、言葉が詰まる。
それでも、ねじ伏せるように続けた。
「それでも“正しかった”って、言えんのかよ……!」
「──結果的に、助かっただろ」
倖は冷たく言った。
事実として、感情を削ったように。
だが、真次郎の声は、それを跳ね返すように熱を帯びる。
「……そういうとこだよ、おまえは。助けたって言えりゃ、それでいいのか?」
倖は表情を崩さない。
だが、その目がわずかに細められた。
「……理想だけじゃ、生きていけない。過程がどうであれ、最後がハッピーなら──それでいいだろ」
「“それでいい”なんて、誰が決めた」
真次郎は低く呟いた。
それは、自分に言い聞かせるようでもあった。
「……俺は、もう十分にわかってんだ。俺みたいな奴が関わると、人生がどう狂うかくらい──16のときに、全部見た」
沈黙。
倖の視線が、ほんのわずかに動く。
けれど、言葉は挟まない。
「母親が死んで、誰も助けちゃくれなくて……」
その声音には、静かな苦さがあった。
「……非行に走って、行き着いたのが面影庵。裏の世界しかなかった俺と違って、あいつには……まだ、選べる道がある」
だから、と。
真次郎は拳を強く握りしめる。
「引きずり込むような真似、絶対にしてたまるかよ」
言いながら、真次郎の目に一瞬だけ、記憶の残像がよぎる。
──冷えきった台所。コンロの上に残された鍋の蓋が、かすかに揺れていた。
呼んでも、返事は来なかった。
脳裏に霞む思い出の中に、少しだけ風が吹いたような沈黙。
「……あいつのため、って気持ちも。恩返しも。……わからないわけじゃねえよ」
一呼吸、置いて。
「でもな──」
真次郎の声が、決定的に変わった。
「“おまえと同じやり方”じゃ、俺は守らない。……その選択肢だけは、絶対に取らない」
言い終えた瞬間、空気が静かに沈んだ。
何かが、確かに決壊していた。
「……あいつの人生に影を落とすのが、“俺”じゃ、いけないんだよ」
言葉のあと、校舎の外でカラスが一声鳴いた。
倖は目を細める。その声が、まるで別れを告げるように空へ溶けていった。
そして黙ったまま、真次郎の顔を見つめていた。その背が、わずかに震えているのに気づいても──何も言わなかった。
……そして。
「……で、どうすんの。これから先」
呟くように、問いを投げた。
真次郎は一歩だけ、足を止める。
けれど、振り返らない。
背中越しに、空気だけが震えていた。
「おまえが言う通り、澪は守らなきゃいけない存在だ。……でもな」
一拍置いて、息をひとつ、落とす。
その声音は、冷えて、鋼のように硬かった。
「“守る”ってのは、自分の手を汚してでも──そいつの“自由”を護るってことだろ」
倖のまぶたが、ほんの一瞬だけ伏せられた。
「……誰かの“ために”なんて、綺麗事で済む世界じゃねぇ。俺たちは、もう知ってんだよ……そんなこと」
その背に、決意が宿る。
「だからこそ……俺が、あいつの前から消してやらなきゃいけないもんは、全部、消す」
倖の口元が、皮肉げに歪んだ。
けれど、その目だけは、真っ直ぐだった。
「……その“全部”に、彼女の気持ちも含めるつもり? 彼女は、きみを──」
「……知ってる」
遮るように、真次郎の声。
その一言が、何より痛かった。
倖は、黙ってその姿を見ていた。
そして、
ゆっくりと。
真次郎は振り返る。
差し込んだ夕陽が、その瞳に赤を灯した。
照らされた横顔は、どこまでも真っ直ぐで──愚かしいほど、真っ直ぐで。
「“幸せ”なんかじゃなくていい」
ぽつりと、落ちるように言った。
「……ただ、誰にも怯えずに目を覚まして、何気なく笑って、当たり前の夜に『おかえり』って言われるような──そんな日々に……」
……ほんの、少しだけ。
その目が、滲んだ気がした。
「あいつが戻れるんだったら……俺は、“悪役”でかまわねぇ」
沈黙。
長く、長く──続いた沈黙。
倖は、その瞳を、正面から受け止めた。
どこか、痛みを帯びたような顔で。
けれど、笑った。
誰に向けるでもない、かすかな笑み。
「……そのうち、きみのその“正義”が、誰かを壊すよ。ジロくん」
静かな忠告だった。
それに、真次郎は──
「……上等だ」
たった一言で、切り返す。
そして、背を向けた。
もう、誰の手にも届かない覚悟を背負って。
その足音が、夕闇の中へ消えていく。
倖は、その場から動かなかった。
ただ、静かに名簿を胸元へとしまい──
誰にも聞こえない声で、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、きみは“英雄《ヒーロー》”には向いてないね」
その手が、かすかに震えていた。
「……だからこそ、誰かを救えるんだろうけどね」
────
正しさは いつだって
誰かの涙の上に成り立っていた。
それでも
嘘にしないために 手を汚す人がいる。
誰かの光になるために
自分だけが闇を引き受ける。
──それを、人は “悪役” と呼ぶのかもしれない。
Fin