夜を導く光、それは赤い極道でした。

【第2話】しょっぱい朝



 真次郎の姿が消えてから、どれくらいそうしていたんだろう。
 澪は、手の中の包みを見下ろした。松野が朝、にこにこしながら渡してくれたおにぎり──「真次郎と一緒に食べてね」と、穏やかに笑って。

 でももう、その人の姿はどこにもない。
 声も、体温も、影すら見えない。

 澪はそっと、縁側の端に腰を下ろした。
 さっきまで真次郎が座っていた場所に、静かに身体を沈める。
 朝の光が斜めに差し込み、空気は動かないままだった。

 膝の上に包みを広げると、ふわっと海苔の香りが立った。
 白いごはん、握られたぬくもり。どこか懐かしい匂い。

 ひとつ、手に取る。口に運ぶ。
 ──あたたかい。けれど。

「……今日の、なんか……しょっぱい、気がする」

 自分で言いながら、苦笑した。
 もう一口。
 そのとき、ぽたりと白い米の上に何かが落ちた。

 涙だ。
 ……え?

 澪は、自分の頬に触れる。濡れている。

「……なんで? 私、別に──」

 わかってた。たぶん、最初から。
 自分が傷ついてるってこと、もう気づいてた。
 でも認めたくなくて、強がってた。

 背後から、足音がして──。
 
「……澪?」

 振り返ると、松野が縁側の柱の陰からこちらを見ていた。
 驚いたように目を見開いて、慌てた様子で近づいてくる。

「どうしたの? 泣いてる……?」

「え、うそ……私……泣いてました?」

 澪はぽかんとした顔で、指先についた涙をじっと見つめた。

「なんか……勝手に……私、笑ってるつもりだったんですけど……」

 松野は何も言わず、そっと肩に手を添えた。
 その大きな手のあたたかさが、言葉よりもずっと澪を包んだ。

 笑うつもりだった。
 平気なふりをしていた。
 でも、心はぜんぜん、ついてきてくれなかった。

「……泣いていいんだよ、澪。無理して、笑わなくていい」

 その声が優しくて、緊張していた糸が、ふっと緩んだ。

 朝の光に照らされながら、澪は小さく鼻をすする。

 松野は、それ以上何も言わず、隣に腰を下ろした。
 ぽっかり空いた隙間を挟んで、ふたりで並んで座る。

 埋めようとしたわけじゃない。
 ただ、そこにいてくれるだけで、風景の色が少しだけ変わる。

「これ、まっつんが作ってくれたおにぎり……とても大きいですね」

 澪は包みのもうひとつを差し出す。

「ひとつで、私の胃袋の限界を突破してしまいそうです。……だから、一緒に食べてください。作り手の責任です」

 松野は少し驚いたように目を見開いて、それからやわらかく笑った。

「……うん、いただくよ」

 ふたりでひとつずつおにぎりを食べる。
 それだけのことが、少しだけ澪の心を温めてくれた。

「……やっぱり、今日のちょっとしょっぱいかも」

 澪がぽつりと言うと、松野がくすっと笑う。

「それ、たぶん涙の味だね」

「うわ……まっつん、それ……言います?」

 苦笑まじりに、澪が笑う。
 さっきまでの痛みが、ほんの少しだけ、やわらいだ気がした。

 けれど、松野にはわかっている。
 この笑顔の奥に、まだ癒えていない痛みがあることを。

 真次郎──

 松野は、心のなかでそっと問いかける。
 龍臣(りゅうしん)に命じられ、あのとき拾った少年が、今や誰かを傷つける側に立っている。
 あんなにも繊細な心を隠して、牙だけを見せて。

 澪といるようになって、ようやく笑えるようになったと思った。
 だから安心していたのに。

 ──なんで、おまえはそんな顔で、彼女を突き放すんだ。

 でも、責めきれない。
 真次郎が何を守ろうとしたのか、松野には痛いほどわかるから。

「……無理はしないでね」

 そう口にした声が、誰に向けられたのかは、自分でもわからなかった。
 澪か。真次郎か。それとも──あの頃の自分か。

 朝の光が、縁側を優しく包んでいた。

 ────

 しょっぱいのは、味だけじゃなかった。
 熱いはずのおにぎりが、どうしてこんなに遠いんだろう。

 だれかの優しさに触れるたび、
 さっきの言葉がもう一度、胸に落ちる。

 こころって、勝手に泣く。

 それでも、隣にいてくれる人がいる。
 それだけで、今日という朝は、
 少しだけ、まるくなった。

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