夜を導く光、それは赤い極道でした。
【第3話】それでも、選んだこと
その日、澪の意識は朝からどこか遠くにあった。
授業中も先生の声はかすんで、ノートはほとんど白紙。
頭の中には、真次郎のあの冷たい瞳だけが繰り返し浮かんでいた。
それでも時間は進んでいく。
チャイムの音に流されるように教室を出て、気がつけば足は自然とあの場所へ向かっていた。
──購買部のカウンター。
その奥にある、知る人ぞ知る「秘密の部屋」。倖の居場所。
遠くからでも、彼の目がこちらに気づいたことがわかる。
視線が絡み、ふっと口角が上がる。近づいていくと、いつもと変わらぬ軽薄そうな笑みが迎えてくれた。
「おやおや、澪ちゃん。今日は何かな? 焼きそばパン? チョココロネ? それとも──秘密の部屋のお客様?」
いつもどおりの、からかうような口調。
でも、その声の端に、ほんの少しだけ柔らかさが混じっていた。
澪は小さく笑って、目を伏せながら答える。
「……秘密の部屋でも、叶うかどうか……わかりませんけど」
倖は少しだけ視線を落とし、それから無言でカウンター横の扉を指し示した。
「……じゃあまずは入って。何が“叶うかどうか”か、聞かせてもらおうか」
澪が扉をくぐり抜けると、倖が後ろ手にそれを閉める。
カチリという音とともに、喧騒がすっと遠のいて、部屋は静寂に包まれた。
紅茶の香りがほのかに漂う、時間の止まったような空間。
倖が椅子に腰かけ、まっすぐな目でこちらを見る。
「それで? きみの願いは、なに?」
湯気の立つティーカップを前に、澪はしばらく黙っていた。
そして、ぽつりぽつりと言葉をこぼし始める。
──倖からもらった情報で、敵の襲撃を止められたこと。
──仮面の夜、Mr.BIGに気に入られ、金のコインを受け取ったこと。
──それを真次郎に伝えたときの、あの無表情な顔。冷たい瞳。
「……自分なりに考えて、動いたつもりでした。ジロが……もう、傷つかなくていいように。……なのに、どうしてあんな顔をされたのか、わからなくて」
言葉にした瞬間、胸の奥でくすぶっていた“違和感”が、明確な輪郭を持ちはじめる。
澪はまっすぐな人間だ。
いつだってブレずに、自分の頭で考えて動いてきた。
それでも今、真次郎との関係が音を立てて崩れたことで──心のどこかが揺れている。らしくないほどに。
倖はしばらく何も言わず、その言葉の重さを静かに受け止めていた。
そして、言葉を選ぶようにして口を開く。
「なるほどね。澪ちゃんが“選んだこと”を、ジロくんは否定した。そんなとこか」
「……はい。でも、後悔はしてません。モヤモヤはしますけど。だって……ジロが傷つくことはなくなりましたから」
その言葉に、倖はわずかに目を細める。
「──それ、たぶん無理だよ」
「……どうして?」
「きみはこれからも巻き込まれる。敵組織に顔も割れてるし、Ωのコインを持ってる。きみが“何か”である限り、静かには生きられない」
淡々とした現実の言葉だった。けれど冷たくはなかった。
倖の声には、どこか痛みのようなものがにじんでいた。
彼は冷めかけた紅茶を一口すすり、ふと笑う。
「……きみの“幸運”が、ちゃんと運命になればいいね」
「……つまり、自分で切り開けってことですか?」
「それが“幸運”の本質なら、ね」
「本質……」
倖の言葉に澪は眉をひそめた。それに対して倖は変わらない表情のまま。
「“幸運”ってそういものでしよ?転がってきたものを拾うだけじゃ、本当の意味では手に入らない」
言葉は静かに落ち着き、対話はそれで終わった。
澪はすでにわかっている。
この先の道が平坦ではないことも。
それでも、自分で選んだことだから──進む。どんなに笑われても、何を言われても。
******
──そして夜。
面影庵の一室。照明もつけず、真次郎はひとり座り込んでいた。
壁にもたれ、黙ったまま、何度も思い返していた。
澪が自分を守ろうとしたこと。
それを、自分はあの言葉で突き放したこと。
彼女がどれほど自分にとって大切な存在か。
それをはっきりと自覚したのは、皮肉にも──あのときだった。
けれど、選んだのは“悪役になる”という役回り。
驚いたような顔。
名前を呼ぶ必死な声。
全部、自分が傷つけた。
感情が渦を巻く。怒りにも似たそれが、何に向けられているのかはわからない。
自分自身か。彼女を守れなかった無力さか。あるいは──あの夜すらも守りきれなかった“過去”か。
拳を強く握る。関節が鳴る音が、静寂に溶けた。
──……これでいい。おまえが、俺なんかに縛られずにすむなら。
そう思ったはずなのに、胸が軋んだ。
──俺が、おまえの“幸運”になれなくてもいい。……けど
歯を食いしばる。
──せめて、もう二度と危険な目には遭わせねぇ。絶対に。
それがたとえ、誰にも気づかれないやり方だとしても。
彼はまだ知らない。
その“幸運”が、これから新たな波紋を広げていくことを──
────
たったひとつの選択が、
すべてを変える鍵になる。
誰かを守るために、
誰かの想いを斬り捨てるなら──
それでも、選んだその手は、
もう戻れない場所を知っていく。
運命を信じた少女と、
運命に抗う少年の、
次なる一歩は、
《仮面》の奥に潜む真実へ。
Fin