夜を導く光、それは赤い極道でした。
【第6話】声なき返事
襖が静かに閉まる。
残された澪は、部屋の中でひとり──それでも、じっとしていられなかった。
松野の言葉が、久我山の警告が、胸の奥でざらざらと響き続ける。
だから、歩き出した。
向かったのは──屋敷の奥。真次郎の部屋だった。
彼の居場所だけは、ずっと覚えている。何度も無意識にでも通い続けたから。
廊下の灯がぼんやりと足元を照らす中、澪はふと足を止め、深呼吸した。
そして、襖の前に立ち、声をかけることなく──そっと一回だけ“コツン”とノックした。
返事はない。
けれど、真次郎が中にいることは、澪には分かっていた。気配がある。息遣いすら、わかるような気がした。
だから、話し始めた。
扉の向こうに向かって、まっすぐな声で。
「──今日のこと、ご報告に来ました」
廊下の灯が、澪の背にだけ、ぽつりと当たっている。
返事はない。けれど澪は、もう話すと決めていた。
「交渉は、保留です……」
ゆっくりと思い出しながら、紡いでいく。
「栞さんのお兄さんは、なにやら感情ジェットコースターな感じでしたけど、今すぐどうこうは……ないと思います。たぶん」
澪らしい話し方。反応がなくても、ペラペラと一人で喋り続ける。
「でも、たくさんの人が“私のせい”で、迷惑を被ってるんですよね」
今日のあの場で見た光景。
「それでも、“誰のせい”って言うのは、苦手で」
みんなの視線と言葉を思い出す。
「……きっと、運命っていうのは、誰かのせいにするためにある言葉なんでしょうけど」
襖の向こうは、ずっと静かなまま。
でも澪は、話すのを止めなかった。
「ジロ、あの……」
澪は躊躇いがちに、声をかけた。
「“私、何か間違えましたか?”って、聞いてもいいですか?」
もう返事がないことは、分かっている。
けれど、訊かずにはいられなかった。
だから澪は、もう一度だけ言った。
「──おやすみなさい。ちゃんと、寝てくださいね」
そう言って、澪は静かに去っていく。
真次郎は全てそれを、聞いていた。
──“ご報告に来ました”
その声が、あまりにあっけらかんとしていて。
けれど妙に、胸の奥に刺さる。
襖越しの澪の言葉を、真次郎は一言も漏らさず聞いていた。返事をすればよかった、と何度も思った。でも声が出なかった。何も言ってやれなかった。
──間違えだらけだよ。危険な駆け引きすんなよっ……
そう心の中で答えても、彼女には届かない。
届かないようにしてるのは、自分のほうだ。
分かってる。だから、苦しい。
「──おやすみなさい。ちゃんと、寝てくださいね」
その一言が、耳の奥で何度も響く。
まるで、子どもみたいに。
優しくて、無防備で。……それが、いちばん怖い。
──澪……
目の前にはいないその名を心で唱えて真次郎は、天井を見上げたまま、眠れぬ夜を迎えた。
夜が明けきらぬ薄明の時間。真次郎はスマホを手にとって、誰かの番号を押した。
「……起きてた?久我ちゃん」
『珍しいな、おまえから』
「ちょっと、聞きたいことがあって。……澪が、今後、巻き込まれそうな動き。全部、洗いざらい教えてよ」
『……あいつを、守るつもりか?』
「違うよ」
少しの間。
呼吸の音さえも遠ざかる。
「……守れるうちは、まだ巻き込まれてないってことだろ」
澪の名を呼ぶ代わりに、そう言うしかなかった。
──そう言い切れるのが、せめてもの願いだった。
それは、澪をこれ以上深入りさせないように。そう、自分が盾になれるなら……
たとえ、澪には伝わらなくても。
『……あいつは、もう。俺たちの予想の範疇を超えてる。おまえがいくら、遠ざけようが無駄だ。今回のことだって、おまえの代わりに松野があいつを守ってた』
「まっつんは、優しいからね」
『本当は、おまえが守りたいんだろ。なんで躊躇う。おまえあいつのこと……』
「久我ちゃん。だからだよ」
真次郎の声音は、低く、落ち着いていた。
「澪が平和な世界に戻れるように、それだけを……俺は願ってんだよ」
沈黙のまま、久我山は息を吐いた。
そしてただ一言。
『……バカが、ほんと』
久我山はそれ以上、何も言わない。
真次郎の乾いた笑いが、ただ、小さく響いた。
────
名前を呼ばなくても
声をかけなくても
それでも、私たちは
すれ違わずにいられただろうか
片方だけが知っている温度は
時に、残酷で
時に、救いになる。
Fin