夜を導く光、それは赤い極道でした。
Lux19:静寂
【第1話】霧隠れ
光と影のあわいで
彼らは、彼女を見つめる。
炎のようなまなざし。
風のようなやさしさ。
そして、氷の奥に潜むぬくもり。
ひとつの心に、
それぞれの温度がふれるたび、
澪の世界は色を変えてゆく。
彼らの想いは交わらない。
けれど、その視線は
確かに同じ場所を映している。
──すべては、
彼女を“守りたい”という願いのもとに。
────
朝の光が、障子越しに淡く射し込んでいた。
──眠れなかった。
昨夜の松野の言葉も、真次郎の無言も、久我山の警告も。
全部が胸の中で、しんと重たい。
でも澪は、ちゃんと起きた。顔を洗って、身なりを整えて、部屋を出る。
「見られてる」ことはわかってる。BIGのコインが首元で微かに揺れた。
──じゃあ、ちゃんと見せないと。
この胸にある“何か”が折れないことを。
******
朝の台所は、窓の外より少しだけあたたかかった。
松野は黙々と包丁を動かしていた。柔らかいトマトを滑らせるように切り、オムレツ用の具材を手際よく整えていく。その動作に、いつもの柔和な笑顔はなかった。
黒いシャツの袖を折り返し、首元のエプロンの紐だけが、やけに丁寧に結ばれている。
トントン、カタン。
静かな音だけが、部屋の中に続いていた。
「おはようございます、まっつん」
その静けさを破ったのは、制服姿で現れた澪だった。
いつも通りの真顔で、けれど口元だけは笑っている。彼女の声に、松野はふと顔を上げた。
「おはよう、澪。今日は早いね」
「空腹にまっつんの作るご飯のいい匂いで誘われるまま……毎日ありがとうございます」
澪が椅子に腰を下ろすと、松野はふわりと微笑んだ。
「朝は、ちゃんと食べないとダメだからね」
フライパンの上で、卵液がじゅわっと音を立てる。
その音に紛れるように、松野の動きがほんのわずか止まったことを──澪は、見なかったふりをした。
そういう朝だった。
気を抜けば、ほころんでしまいそうな空気。
だから、お互いにいつも通りを演じていた。
「……昨日のこと、あれこれ言われました?栞さんとか、きっとめちゃくちゃツンツンしていたのでは?」
「……まあ、少しだけね」
「すみません。私が、ちゃんと普通でいればよかったんですけど」
その言葉に、松野はフライパンを火から下ろし、ゆっくりと澪のほうを見た。
「澪。きみは、きみでいていい。何も悪いことなんて、してない」
「そう言ってくれるのは、まっつんだけです。ジロもアホとかバカと言いますし。くーちゃんもふざけんなと言います」
「……そうだね。きっと、俺だけなんだろうね」
微笑むその目に、わずかに沈んだ影が宿っている。
澪は、一瞬だけ言葉に詰まった。
優しさは、こんなにも静かに人を追いつめるんだと──なぜか、そんなことを思った。
けれど、気づかないふりをして、澪は小さく笑った。
「なので、まっつんはやっぱり優しいですね。ジロやくーちゃんにも見習ってもらいたいものです」
オムレツとトーストと、果物。
温かな朝ごはんが運ばれ、いつもの食卓が整えられる。
それでも、その背後には確かに何かが忍び寄っていた。
松野の指先は、微かに震えていた。
外の景色は、どんよりとした霧に包まれていた。
何も見えないその白さが、かえって不安を掻き立てる。
まるでこの朝が、長い嵐の前触れであるかのように──
食事が終わる頃、澪はマグカップに残った温かい紅茶を両手で包みながら、ふと窓の外を見た。
「……霧が、すごいですね」
声のトーンは平静そのものだったが、その眼差しは、どこか遠くを見つめていた。
濃い白が街を包み、屋敷の庭も、通りも、何もかもがその中に沈んでいた。
その“見えなさ”が、逆に胸の奥をざわつかせる。
──なにかが、来る。
そんな気配を、肌が感じていた。
と、そのとき。
「おい、遅刻すんぞ」
背後から聞き慣れた声がした。
振り返ると、久我山が霧の中から現れたように、廊下の奥に立っていた。
「うわっ、出た……忍者かと思いましたよ。煙の中からドロン、ですね」
澪は珍しく驚いた。だからこそ、笑ってごまかすように言うと、久我山はため息混じりに短く言った。
「早く、支度済ませろ」
その声も、どこか硬かった。
澪が立ち上がると、松野と目が合った。
彼はなにかを言いかけたように口を開き──けれど、結局、何も言わなかった。
代わりに、澪のネクタイを手に取る。
「……風邪、ひかないようにね」
それだけを、優しく言った。
彼の手が澪のネクタイを整える。その指先は、微かに震えていた。
けれどそれは寒さのせいではない──澪には、そう思えてならなかった。
優しさの奥にある焦燥や迷いが、その震えとなって滲み出ているようで、胸が締めつけられる。
久我山の黒い車に乗り込むと、静かなエンジン音と曇った車窓が澪を包み込んだ。
車内の空気は、守られているようで、同時に閉じ込められているようでもあった。
久我山の気配が籠の中の鍵のように、澪の周りを固めている──そんな感覚がした。
街はまだ朝靄に沈んでいて、街灯もぼやけて見える。
走る車の窓から見える景色は、どこか現実感に乏しく、白昼夢のようだった。
「……昨日のこと、気にしてるか?」
久我山の声が、ふいに落ちてきた。
ハンドルを握る指は無骨で、しかし力がこもっている。
視線は正面を向いたまま──それでも、その言葉には、確かに“情”があった。
「いえ。私は、平気です」
澪は窓の外を見たまま、少し微笑んで答えた。
久我山が信号待ちでほんのわずかこちらに目を向けたが、すぐに前を向き直す。
「……それなら、いい」
短く返した声の奥に、何かを呑み込んだ気配があった。
澪はわかっていた。
皆が、それぞれのかたちで、自分を気にしてくれている。でもそれは同時に──何かが近づいているという証でもあった。
車がゆっくりと霧の中を進んでいく。
窓の外は白一色で、見慣れた街の輪郭すらも呑み込まれていた。
信号も標識も、遠くからではほとんど見えない。
まるで世界そのものが、誰かの意志で隠されているかのようだった。
ふと、背中に冷たいものが這う感覚がした。
見えないはずの視線が、どこかから確かにこちらを追っている──そんな錯覚に、澪は思わず首元のコインを握った。
その小さな重みだけが、現実と自分をつなぎとめる唯一の証のように思えた。
霧は深まり、朝の街は白い迷路に変わっていく。
その中を走る黒い車は、どこかへ向かうはずなのに、まるで終わりのない道をさまよっているかのようだった。
────
霧がすべてを隠していく。
輪郭を奪い、道を閉ざし、
世界はただ白に沈む。
それでも、
その胸の奥の小さな炎は消えない。
折れないものを、
折らせはしないと──
誰も知らない場所で、
静かに息をしている。
next
彼らは、彼女を見つめる。
炎のようなまなざし。
風のようなやさしさ。
そして、氷の奥に潜むぬくもり。
ひとつの心に、
それぞれの温度がふれるたび、
澪の世界は色を変えてゆく。
彼らの想いは交わらない。
けれど、その視線は
確かに同じ場所を映している。
──すべては、
彼女を“守りたい”という願いのもとに。
────
朝の光が、障子越しに淡く射し込んでいた。
──眠れなかった。
昨夜の松野の言葉も、真次郎の無言も、久我山の警告も。
全部が胸の中で、しんと重たい。
でも澪は、ちゃんと起きた。顔を洗って、身なりを整えて、部屋を出る。
「見られてる」ことはわかってる。BIGのコインが首元で微かに揺れた。
──じゃあ、ちゃんと見せないと。
この胸にある“何か”が折れないことを。
******
朝の台所は、窓の外より少しだけあたたかかった。
松野は黙々と包丁を動かしていた。柔らかいトマトを滑らせるように切り、オムレツ用の具材を手際よく整えていく。その動作に、いつもの柔和な笑顔はなかった。
黒いシャツの袖を折り返し、首元のエプロンの紐だけが、やけに丁寧に結ばれている。
トントン、カタン。
静かな音だけが、部屋の中に続いていた。
「おはようございます、まっつん」
その静けさを破ったのは、制服姿で現れた澪だった。
いつも通りの真顔で、けれど口元だけは笑っている。彼女の声に、松野はふと顔を上げた。
「おはよう、澪。今日は早いね」
「空腹にまっつんの作るご飯のいい匂いで誘われるまま……毎日ありがとうございます」
澪が椅子に腰を下ろすと、松野はふわりと微笑んだ。
「朝は、ちゃんと食べないとダメだからね」
フライパンの上で、卵液がじゅわっと音を立てる。
その音に紛れるように、松野の動きがほんのわずか止まったことを──澪は、見なかったふりをした。
そういう朝だった。
気を抜けば、ほころんでしまいそうな空気。
だから、お互いにいつも通りを演じていた。
「……昨日のこと、あれこれ言われました?栞さんとか、きっとめちゃくちゃツンツンしていたのでは?」
「……まあ、少しだけね」
「すみません。私が、ちゃんと普通でいればよかったんですけど」
その言葉に、松野はフライパンを火から下ろし、ゆっくりと澪のほうを見た。
「澪。きみは、きみでいていい。何も悪いことなんて、してない」
「そう言ってくれるのは、まっつんだけです。ジロもアホとかバカと言いますし。くーちゃんもふざけんなと言います」
「……そうだね。きっと、俺だけなんだろうね」
微笑むその目に、わずかに沈んだ影が宿っている。
澪は、一瞬だけ言葉に詰まった。
優しさは、こんなにも静かに人を追いつめるんだと──なぜか、そんなことを思った。
けれど、気づかないふりをして、澪は小さく笑った。
「なので、まっつんはやっぱり優しいですね。ジロやくーちゃんにも見習ってもらいたいものです」
オムレツとトーストと、果物。
温かな朝ごはんが運ばれ、いつもの食卓が整えられる。
それでも、その背後には確かに何かが忍び寄っていた。
松野の指先は、微かに震えていた。
外の景色は、どんよりとした霧に包まれていた。
何も見えないその白さが、かえって不安を掻き立てる。
まるでこの朝が、長い嵐の前触れであるかのように──
食事が終わる頃、澪はマグカップに残った温かい紅茶を両手で包みながら、ふと窓の外を見た。
「……霧が、すごいですね」
声のトーンは平静そのものだったが、その眼差しは、どこか遠くを見つめていた。
濃い白が街を包み、屋敷の庭も、通りも、何もかもがその中に沈んでいた。
その“見えなさ”が、逆に胸の奥をざわつかせる。
──なにかが、来る。
そんな気配を、肌が感じていた。
と、そのとき。
「おい、遅刻すんぞ」
背後から聞き慣れた声がした。
振り返ると、久我山が霧の中から現れたように、廊下の奥に立っていた。
「うわっ、出た……忍者かと思いましたよ。煙の中からドロン、ですね」
澪は珍しく驚いた。だからこそ、笑ってごまかすように言うと、久我山はため息混じりに短く言った。
「早く、支度済ませろ」
その声も、どこか硬かった。
澪が立ち上がると、松野と目が合った。
彼はなにかを言いかけたように口を開き──けれど、結局、何も言わなかった。
代わりに、澪のネクタイを手に取る。
「……風邪、ひかないようにね」
それだけを、優しく言った。
彼の手が澪のネクタイを整える。その指先は、微かに震えていた。
けれどそれは寒さのせいではない──澪には、そう思えてならなかった。
優しさの奥にある焦燥や迷いが、その震えとなって滲み出ているようで、胸が締めつけられる。
久我山の黒い車に乗り込むと、静かなエンジン音と曇った車窓が澪を包み込んだ。
車内の空気は、守られているようで、同時に閉じ込められているようでもあった。
久我山の気配が籠の中の鍵のように、澪の周りを固めている──そんな感覚がした。
街はまだ朝靄に沈んでいて、街灯もぼやけて見える。
走る車の窓から見える景色は、どこか現実感に乏しく、白昼夢のようだった。
「……昨日のこと、気にしてるか?」
久我山の声が、ふいに落ちてきた。
ハンドルを握る指は無骨で、しかし力がこもっている。
視線は正面を向いたまま──それでも、その言葉には、確かに“情”があった。
「いえ。私は、平気です」
澪は窓の外を見たまま、少し微笑んで答えた。
久我山が信号待ちでほんのわずかこちらに目を向けたが、すぐに前を向き直す。
「……それなら、いい」
短く返した声の奥に、何かを呑み込んだ気配があった。
澪はわかっていた。
皆が、それぞれのかたちで、自分を気にしてくれている。でもそれは同時に──何かが近づいているという証でもあった。
車がゆっくりと霧の中を進んでいく。
窓の外は白一色で、見慣れた街の輪郭すらも呑み込まれていた。
信号も標識も、遠くからではほとんど見えない。
まるで世界そのものが、誰かの意志で隠されているかのようだった。
ふと、背中に冷たいものが這う感覚がした。
見えないはずの視線が、どこかから確かにこちらを追っている──そんな錯覚に、澪は思わず首元のコインを握った。
その小さな重みだけが、現実と自分をつなぎとめる唯一の証のように思えた。
霧は深まり、朝の街は白い迷路に変わっていく。
その中を走る黒い車は、どこかへ向かうはずなのに、まるで終わりのない道をさまよっているかのようだった。
────
霧がすべてを隠していく。
輪郭を奪い、道を閉ざし、
世界はただ白に沈む。
それでも、
その胸の奥の小さな炎は消えない。
折れないものを、
折らせはしないと──
誰も知らない場所で、
静かに息をしている。
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