夜を導く光、それは赤い極道でした。
【第2話】見えない不安
校舎の一階。購買部のそのカウンター。そこで品出しをしていた倖が顔を上げた。
「朝からなんて珍しいね。どうしたの澪ちゃん。お腹でも空いた?チョコ不足?」
「朝ごはんを食べたのでバッチリです。チョコは欲しいですけど、そうではなくて」
生徒はまだ誰もいない。澪は倖の目を見て、少し躊躇いがちに声を漏らす。
「なんか……ちょっとだけ、話したくて、ですね」
そう言って、澪はいつもの場所──カウンター越しの倖の向かいに立つ。
静けさの中、空気は澄んでいたが、妙に落ち着かなかった。
倖は黙ったまま、品物を横に置いた。
「……変な夢でも見た?」
「それが、夢じゃなくて、現実で……」
笑い交じりに言いながらも、澪の声にはどこか芯がなかった。
松野の沈黙、久我山の短い問いかけ、霧に包まれた朝。すべてが、胸の奥でざわざわと重なっていた。
「実はですね、仮面パーティーの時、会場で──なんか、刺さるような視線?怖いってほどじゃないんですけど……なんでしょうね、なんか気になりまして。いや、何があったとかではないんですよ?ただ、なんだか……」
澪はいつもの雰囲気を醸し出せず、ぎこちない笑みを浮かべた。
「今日、屋敷の皆さんがいつもと違っていたような気がしたので……つい」
澪の気がかりは、ただの稀有かもしれない。それでも、松野の、久我山の態度が頭から離れない。
「……やっぱり、見られてたか」
倖の声が、いつもより一段低く落ちた。
珍しく、眉が寄っている。
「……あれ、ヤバい奴だよ」
澪が目を見開いたまま黙ると、倖は軽く息を吐いた。
「名前まではまだ掴めてない。でも、敵対組織の幹部。しかも、かなり上。表には滅多に出てこない。パーティーにいたのも異例らしい。……何か、探してる」
「何か、って……私ですか?」
澪の声が思わず震えた。
倖は首を振らなかった。
ただ、視線を落として、ゆっくりと口を開いた。
「今すぐ逃げろとは言わない。でも──“自分の味方が誰か”、ちゃんと見極めといたほうがいい」
飄々さが剥がれて、一瞬、目が冷たく光る。
それは警告というより、祈りに近かった。
澪はしばらく黙ったまま、足元の影を見つめていたが、やがて、苦笑いを浮かべた。
「……なんだか、映画のかっこいいセリフみたいですね」
「俺は、今、真面目だよ」
「……いや、そうですよね。なんでもないです。冗談、冗談」
でも倖は、首を横に振っただけだった。
その顔から、いつもの飄々とした空気は消えていた。
「澪ちゃん。あの男に、見つかったってだけで充分やばい。どれだけ護りがあっても、狙われたら──そう簡単には逃げられない」
「……でも、私は逃げませんよ。だって、怖がっても仕方ありませんし。何も起きてはいませんから……起きてないと思いたいんですけどね」
澪の笑顔は明るかった。
でも、それが“強がり”に見えるほど、倖の顔は冴えなかった。
「……そういうところ、嫌いじゃないけどさ。──あんまり、無茶しないでよ。本当に」
購買部の目の前、昇降口から見える空は、まだ白く濁っていた。
その向こうで、なにかが静かに蠢いていることを、ふたりとも感じていた。
******
授業を受けている間も、休み時間も、澪は背後からの視線を強く感じていた。誰かがずっと自分を見つめているようで、何度も振り返ろうとしたが、教室には誰もいなかった。
教室のざわめきや机の音が一瞬ふっと消え、まるで時間が止まったように静まる。
その時、窓際のカーテンが風もないのにひらりと揺れ、時計の秒針の針が規則正しく刻む音だけが異様に響いた。
「気のせい……」
そう言い聞かせてみるものの、澪の心はざわついたままだった。
足早に校舎の廊下へ向かうと、昇降口の方から何か小さな物音がした気がした。人の気配はない。
それでも、何かが確かに、自分を見ている。
ゆっくりと振り返る澪の視線の先には、誰もいない。
ただ、目の端にほんの一瞬、黒い影が横切った気がした。
それは見間違いか、それとも──。
──気のせいだ。
そう言い聞かせながらも、澪の足取りは徐々に速くなった。
久我山の迎えがなければ、屋敷に帰ることなど無理だった。それほど澪は何かの視線を感じ、澪らしくないほどに怯えていた。
指先が冷えていく。
背中の汗がじっとりと滲む。
正体不明の不安が、倖から聞いた話が、澪の中で渦を巻く。
久我山が車を戻しに行く間、玄関の中に入ると、屋敷は静まり返っていた。
珍しい、組員の声も聞こえない。たまたまなのかもしれない。たまたまみんなが出払ってて……。
大広間に、千代子の姿はない。
台所に、松野の姿もない。
いつもならすぐに追いつく久我山も戻ってこない。
他も、すべて……
本当に偶然なのか?
誰にも会わず、ただ、奥へ奥へと歩く。
何かに追われるように、心臓の鼓動が速くなる。
──ジロ。ジロ、どこ……。
澪は迷わず、廊下を右へ折れた。彼の部屋を目指して。
扉が少し開いていて、かすかに煙草の匂いが流れてくる。
「……ジロっ」
声が出た瞬間、自分でも驚いた。震えていた。
真次郎が、椅子に座っていた。窓を背に、タバコを咥えたまま、こちらを見た。
彼の視線が、一拍遅れて、澪の顔を捉える。
何も言わずに、ただ、灰を落とす。
「……どうした。迷子か?」
冗談めかした言葉。でも、声は柔らかくなかった。
澪は笑えなかった。吸うんだなと、本当にそれだけ。かっこいいとか、絵になりますねとか……いつもならペラペラと出てくる言葉が音にならない。珍しいタバコ姿にも反応ができないまま、ただ、言葉を探すように唇を動かす。
「……今日、なんか、おかしいんです」
ぽつり、と零すように言った。
「まっつんも、くーちゃんも何か……隠してるみたいで。倖くんも……」
真次郎は何も言わない。ただ、じっと見ていた。
澪の肩が、かすかに震えているのに気づいていた。
「……それで、来たのか。俺のとこに」
「……はい」
澪は、真次郎の前まで来て立ち止まり、視線を落とした。
その手が、わずかに彼の袖を掴む。
「……ジロが、いてくれたら、なんか、安心できる気がして」
かすれる声。
普段の、飄々とした彼女からは想像もつかない、頼るような声音。
「お願いですから。……今だけ、でいいから」
真次郎は、ゆっくりと煙を吐いた。
そして、澪の手を──掴んだままの指先を、そっと外す。
「……甘えるな。俺はそういう立場じゃない」
その言葉に、澪は顔を上げた。
涙はない。でも、目の奥が濡れていた。
指が、ジロの袖を握ったまま止まる。
拒まれる言葉の温度が、胸に沈んだ。
「……はい。すみません」
澪は一歩下がって、頭を下げる。
その背中を、真次郎は見送った。動かず、追わず、ただ見ていた。
部屋の隅、真次郎の手元。折れたままのタバコが、静かに燃えて……誰も吸わなくなった煙が、空しく天井へ登っていった
外の空はまだ曇っている。
その色が不安を煽る。
空の向こうから何かがゆっくり忍び寄っているような……
まるでこの先の未来を隠すように──。
────
籠の鳥は歌う。
誰かのために。自分のために。
空を知らずとも、
その声は、きっと誰かの胸を打つから。
けれど鳥籠の影を知らぬ者は、
その歌に潜む痛みを知らない。
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