夜を導く光、それは赤い極道でした。

【第3話】静謀の檻


 屋敷の奥、薄暗い応接室。

 重厚なカーテンは閉ざされ、照明は半端に落とされている。壁際に立つ久我山(くがやま)は、背筋を伸ばしたまま微動だにしない。時計の針だけが、静かに時を刻んでいた。

 やがて、足音。

 扉がゆっくりと開き、空気が一段冷たくなる。

「久我ちゃん、聞いてる〜?」

 軽やかに響く声。だが、その裏には張り詰めた刃が潜む。
 静かに、ゆっくりと歩を進めるその足取りは、まるで音すら殺すかのようだった。
 笑みを浮かべたままの目は、温度を欠いた氷のように澄んでいる。

 久我山は顔を上げる。
 その眼差しは伏し目がちに、だが覚悟を含んでいた。

「……はい」

(みお)ちゃんに何かあったら、どうするつもり?」

 唐突な問い。

 久我山は一瞬、答えを探すように唇を動かしたが、声にならない。

「護衛だもん。守るよねえ? 面影庵(おもかげあん)の幹部が、護衛一つ務まらないなんて恥だし」

 皮肉めいた調子に、久我山の拳がわずかに震える。
 それを後ろ手に隠し、表情を崩さず、彼は口を開いた。

「……そのつもりです」

 信昭はくす、と笑った。

「でもさ、忘れないで。あの子は組の()()──囮になって、敵の手に落ちてもらうことで相手を動かす。それ以上の価値なんて、ないよ」

 その言葉に、久我山の目がわずかに動く。

「……」

「感情なんて持つだけ無駄。彼女に情を抱いて、それで動きが鈍るようなら──それこそうちの(いおり)の損失」

 信昭の声は、あくまでも淡々としていた。
 重ねて言葉を刺すでもなく、ただ当然の理として告げる。

「組は割り切ってる。……久我ちゃんも、そうでしょ?」

 長い沈黙が落ちる。

 まるで部屋の空気すら止まったかのようだった。

 やがて、久我山が目を伏せる。

「……はい。命令、承知しています」

 その声音に、迷いはない。
 だが、奥底に揺れる何かを、信昭は確かに見た。

「いい子」

 にやりと微笑んで、信昭は背を向けた。
 扉に手をかけ、去り際に、もう一度だけ告げる。

「……()()()()、なんて思ったら──次は、久我ちゃんが囮になる番だからね」

 ぴしゃり、と扉が閉まる。

 静寂。

 
 残された久我山は、ただ黙ってその場に立ち尽くしていた。息をするのさえ忘れるほどの圧迫感が、胸を押し潰すようにのしかかる。
 手のひらに爪が食い込むほど、拳を固く握ったまま──。

 ──……それでも

 その言葉が、心の中でだけ、そっと零れた。


******

 夜更けの屋敷。
 人の気配が消え、廊下には静寂だけが満ちていた。

 真次郎(しんじろう)は、音もなく歩いていた。
 目の奥にかすかな疲労を滲ませながら──
 けれど、その表情はどこか安堵している。

 今日も何も起きなかった。
 また、ひとつ芽を摘んだ。
 澪の名が巻き込まれる前に、火種を潰した。

 ──……今日も、おまえを巻き込まなかった。

 それが、今の彼の“勝ち”だった。

 真次郎は、ある部屋の前で足を止める。
 襖の持ち手には触れず、ただ静かに、その向こうを見つめる。

 やがて、ゆっくりと襖を開けた。

 月明かりが、静かに差し込む寝室。
 澪はすでに布団の中、規則正しい寝息を立てている。

 真次郎はその傍に膝をつく。
 頬はほんのり赤く、表情は穏やか──
 まるで、この場所が「安全」だと信じきっているかのような寝顔だった。

 ──……ったく、気持ちよさそうに寝てんな。

 ふっと、笑みが漏れそうになる。
 でも、すぐにそれは消えた。
 

  ……その“安全”は、自分が外で作ったものだ。
 自分は決して、この温かな世界の内側には入れない。
 そう悟りながら、そっとその顔を見つめていた。

 澪の眉が寄り、寝返りを打つ。
 小さな声で、なにかを言って──うなされている。

 真次郎は思わず、その手をとった。
 そっと、そっと。
 大きな掌が、彼女の小さな手を包み込む。

 “大丈夫。……ここにいる”

 そう言いかけて、声にはせず、喉元で止めた。
 代わりに、もう一方の手で彼女の頬をなぞる。

 やわらかく、あたたかくて、懐かしい感触。

 起きている時には、絶対にできないこと。

 ──……おまえが、ここから離れられるように。俺は、おまえの“味方”にはならないって決めた。

 それでも、心が勝手に願う。

 ほんの一瞬でいい。こうして、そばにいさせてほしいと。

 やがて澪の眉間がほどけ、静かな寝息に戻る。

 真次郎は、手を離した。すっと立ち上がり、扉の方へ歩いていく。

 振り返らない。もう、何も触れない。

 けれど彼の胸の奥には、ひとつの言葉だけが残っていた。

 ──……それでも、本当は、そばにいたい。

 
 扉が静かに閉まる。
 廊下の闇が静けさを包み込み、夜はただ──二人の距離を黙って見守っていた。


 ────

 静寂は、時に残酷だ。
 優しい声で囁かれる支配も、
 夜の闇に溶ける孤独も、
 すべてが、見えない檻の形をしている。

 それでも誰かは、
 その檻の外側で戦い続けている。
 


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