夜を導く光、それは赤い極道でした。
Lux20:交差
【第1話】優しさの裏側
金の証が揺れる夜。
誰も知らぬ場所で、盤面は静かに動き始める。
情と忠義のはざまで揺れる心。
その瞳の奥に映るものは──
狩人か、獲物か。
すべてを呑み込む闇が、
少女の運命に指先を伸ばす。
────
屋敷に帰り澪は自室までの廊下を歩く。
ふと、赤い後ろ姿を見つけて駆け寄った。
「ジロっ」
振り返った彼の顔は、どこか冷めていた。それは今までの“照れ隠しのぶっきらぼう”とは違う。
ここ最近、ずっと……こんな表情しか見ていない。
「……何してんだ、おまえ。さっさと部屋へいけよ」
「部屋へ行こうとしたところに、ジロがいたものですから。勝手に足があなたの方へ。あ、もちろん心もジロを向いてますよ」
笑って、そう……なんとか笑う澪に、真次郎は返事をしない。視線だけが一瞬、澪の首元──コインのネックレスをかすめた。
ほんの、わずかな間。
それは刹那。けれど、心臓が一拍遅れて脈打つほどの“重み”があった。
「……まだ、怒ってます?」
澪の声に、真次郎の眉がわずかに動く。
しかし彼は、苦い表情のまま、ぽつりと呟いた。
「別に。……早く戻れ」
そう言って、背を向けた。
澪は、その背中を見送る。首元のコインに注がれた視線。真次郎はまだ、これを持つことをよしとしていないから。
だから、ずっと冷たいのか……
「……なんで、こんなに……」
澪は呟く。
真次郎のボロボロになった姿を見た時、かつて自分がナイフを突きつけられていた時よりも大きな恐怖が澪の中に生まれた。
その理由が、自分の周りにいる変な人を探るためだと知った時、どうしようもない無力感に襲われた。
真次郎を失いたくない。そう、誓っていたのに。何もできないままの自分は嫌だから。だから、倖を頼った。
そして、偶然にもMr.BIGの後ろ盾を得ることができた。
これでもう、真次郎を傷つけさせない。自分も傷つく心配はない。そう、楽観的に考えて──。
澪は歯を食い縛る。心の中が真っ黒になりそうなほど、辛くて、抉られていく。
真次郎と一緒にいたい。ただ、それだけだったのに。
今、それが叶わない。
近くにいるのに、ずっと……心が遠い。
澪は首元のコインを握りしめる。爪が食い込むほど強く──まるで、この罪を自分で押し込めるように。
“代わりに覚えておけ。背中に力をつけるということは、時に刃となる。運をもつ者は、時に試される”
BIGの言葉が脳内で再生される。澪はただ、巨大な力を得ても呑気に構えていた自分が酷く愚かに思えた。
このせいで、栞の家とに亀裂が生じた。
このせいで、周りのみんなを悲しませる。
このせいで、“彼”の背中が……遠くなる。
澪は小さく息を吐いて、そのまま自室へと向かう。その足取りは、とても、重かった。
******
深夜、屋敷のキッチンに、小さな氷が落ちる音が響いた。
夜の空気に包まれたその空間は、昼間の喧騒が嘘のように静かで。澪はグラスを片手に、冷蔵庫の扉を閉じる。
「……水、飲みに来ただけなんですけど。ちょっと緊張しますね、ここ」
独り言のように呟いたその声に、別の足音が重なる。
「澪?どうしたの?お腹すいちゃた?」
振り返れば、そこに立っていたのは松野だった。
黒いシャツの袖をまくり、いつも通りの穏やかな顔。
けれどその雰囲気は、どこか──ほんの少しだけ、よそよそしい。
「いえいえ、喉が乾いたのでお水を飲みにきました。まっつんもです?」
「うん。でも、ちょうどよかった。……ちょっと、澪の顔も見たかったから」
そう言って微笑んだ松野に、澪は自然と頬を緩めた。
松野の言葉には、いつも“余計な角”がない。ただ優しくて、どこまでも真っ直ぐで。
だからこそ、彼の前では息がしやすいと思ってしまう。
「……なんか、今日ちょっとだけ、声が冷たいような気がしますが。私の思い込みすぎですかね?」
「そうかな?ごめん、そう感じさせたなら……俺、気づかないうちに、澪を不安にさせてたんだね」
「いえいえ、少し掠れてるとか、暗いだけでそう思ってしまっただけです。疲れている時とか、喉の調子が悪い時もそりゃありますよね。まっつんは普段が優しいから、こういう時に損するタイプですね、声が」
「ふふ、声で損得を言われたのは初めてかな」
松野はそう言って、冷蔵庫から静かにミネラルウォーターを取り出す。
「でも、俺は澪の声を聞くと、安心するんだよ。……やっぱり、澪はここにいていいと思う」
「……え?ここにいてはいけない話でも出てました?」
その言葉に、松野は一瞬だけ動きを止め。けれど、すぐにいつもの微笑みを浮かべる。
その笑みは優しいはずなのに、どこか張り付いた仮面のようで──澪の胸にひやりとした感覚が広がった。
「そんなことないよ。ただ、俺がそう思ってるだけ。澪のことが大切だからね」
「まっつんもなかなかにサラリと口説いてきますね。それは栞さんにされたらよろしいですよ」
「口説いてるつもりはないんだけどなぁ」
松野が目を細めて、おかしそうに笑う。
だけど──
その場に流れる空気は、不思議なくらい静かだった。
まるで呼吸の音すら邪魔になるような、張り詰めた空気。
松野の視線は、いつもと同じように優しい。
けれどその奥に、ふと、一瞬だけ“別の何か”が宿っているような気がした。
それが“警戒”か“覚悟”か、それとも……
「じゃあ、俺はこれで。……また、ね」
松野は軽く笑って、澪の頭を優しく撫でてから、ゆっくりとキッチンを後にした。
澪はその背を見送りながら、自分の胸のざわめきをなだめるように、グラスの水を一口含む。
「……気のせい、だよね」
口にした水は、ほんの少しだけ──ひやりと冷たすぎた。
キッチンから自室へと戻る松野の足取りは、静か。
けれどその胸のうちにある感情は、熱い。
それは今しがた別れた、澪に対して。
澪は知らないよね。
真次郎が、どれだけ澪を守りたかったか。
栞さんが、どれだけ怒ってるか。
そして俺が、どれだけ今の澪に何も言えないか。
あのとき、「澪はここにいていい」って言ったけど──
本当はずっと、震えるくらい怖かったんだよ。
この優しさが、澪の未来を曇らせてしまいそうで。
……でも、守るって決めた。
真次郎ができないなら、俺がやる。
それが、俺にできる、“責任の取り方”。
ただ、失わないように。戻さない。
それが、俺が澪に……真次郎にできる唯一のことだから。
松野は小さく笑って、窓から空を見上げる。雲に覆われた暗い夜空に、一瞬だけ、星が滲んだ気がした。
──それはきっと、気のせいだったのだろう。
────
夜の帳に沈む心音。
近くて、遠い背中。
優しさは刃になる。
守りたい想いは、
いつも胸を締めつける。
それでも──
触れられないまま見上げた空に、
星はただ、黙って彼らを見下ろしていた。
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