堅物マジメな御曹司は契約妻にひたすら隠した溺愛を解き放つ~円満離婚はもう無理だ~

第一章 ①

 九月だというのに毎日暑い。一体いつになったら秋がやってくるのやら。

「暦の上では来週が秋って嘘じゃない? 全然秋の気配は感じませんけど」

 ガラガラとキャリーケースを引きながら、私は数年ぶりに父方の祖父宅へ向かっていた。
 東京駅から新幹線と在来線を乗り継いで、バスに乗ること三十分。
 さらにバス停から祖父宅まで歩いて二十分という、まあまあ田舎にまでやってきた。
 ジム通いもしていない運動不足の会社員には非常にシンドイ。荷物を引いて坂道を上るなんて登山と変わらない。
 片手に日傘とトートバッグ、もう片手でキャリーケースを引いて、ようやく目的地に到着する。

「いつ来ても無駄に立派というか、デカいわよね……さすが地主」

 趣のある日本家屋なんて外国人が喜びそう。観光スポットとして紹介したら結構人気になったりして。なんて、暑さのせいで余計なことを考える。
 定期的に庭師が剪定した日本庭園は、孫の私が見ても見事だと思う。
 池にはよく肥えた鯉が泳いでいて鮮やかな模様が美しい。あれって野生動物に狙われたりしないのかしら? と、少し心配になった。
 門をくぐってから母屋の玄関までまた少し歩く。土地があるってすごいけれど手入れが大変そうだ。
 今日は三連休の日曜日だ。
 大安吉日のこの日に、近くの神社で私の従妹の結婚式が行われる。
 なにも敬老の日に合わせて式を挙げなくても……と思ったけれど、これは曾祖父同士の約束に従った結婚なので、ある意味ぴったりとも言える。

「それにしても、七菜香(ななか)ったら本当に結婚するとはね」

 招待状が届いたときは「マジか」って呟いてしまった。生まれた時から許婚がいるのは知っていたけれど、本当に従うとは思わなかった。
 七菜香は私の三歳下の従妹で、今日の主役の花嫁である。
 蓮水家当主の長男の娘で、私が次男の娘だ。
 うちは普通のサラリーマンの家庭だけど、本家の跡取りである伯父は家業を継いで、この屋敷に住んでいる。
 曾祖父が興した事業が大きくなり、地元では名家と呼ばれている。今まで男児しか生まれてこなかったため、七菜香は本家の待望の女の子だった。
 というのも若かりし頃の曾祖父と親友が、「いつか親戚になろう」という約束を交わしたらしい。
 ひ孫の代まで双方の家には男児しか生まれてこず、七菜香が生まれたことでようやく数世代越しに約束が叶えられることになった。
 正直この話を聞いたときは、律儀に守らないと呪われるの? と本気で思ったくらい、私には理解不能である。

「許婚って、いつの時代なんだか」

 でもこの立派な日本家屋を見ていると、時間の流れが止まったような錯覚を覚える。静寂で広大で、俗世との関りが薄いというか。人の気配すらあまり感じられない。
 ぷらぷらと庭の散策をするが、今のところ誰とも遭遇していない。皆、式の準備で忙しいのだろう。

「私も早く一休みするか……麦茶とかあったらいいな」

 式は午後から開始予定なので、今日は朝早くにひとり暮らしをしているマンションを出た。
 本当は昨日のうちに両親と一緒に来る予定だったのだけど、なんと父がぎっくり腰になってしまったのだ。
 父の看病のため母も不参加となり、結局我が家を代表して私だけが七菜香の式に参列する。

「三連休とはいえ、中日に移動は疲れるわね」

 明日の朝には都内の自宅に戻る予定である。夕方には帰宅していないと、火曜日からの仕事が辛い。

「こんにちはー!」

 母屋の玄関を開けた。鍵がかかっていないのは、今日は人の出入りが多いからだと思いたい。

「あら! いらっしゃい、紫緒ちゃん! 待っていたわよ!」
「遠いところからよく来てくれたわね。お父さんぎっくり腰ですって? 急に大変だったわねぇ」
「疲れたでしょう? 冷たいお茶とアイスもあるわよ。さあ早く上がって!」

 分家のおば様方に出迎えられた。いつになく大分歓迎ムードである。

「お邪魔します」

 忙しいから早く手伝えって言われる覚悟で来たんだけど、もう式の準備は滞りなく終わっているのだろうか。
 屋敷のすぐ近くの由緒ある神社で神前式をする予定なのだが、その前に親戚一同が集まることになっている。恐らくお相手の家族も勢ぞろいするだろう。
 案内された応接間にて手土産のお菓子を渡していると、目の前に私の好きなアイスクリームと麦茶を出してくれた。

「ありがとうございます。あ、うれしい。ラムレーズン味」
「紫緒ちゃん、お酒が入ってるお菓子が好きでしょう? 用意していたのよ」

 聞き方によっては酒豪みたいだけど、お酒はほどほどにしか飲まない。でもおば様が言うようにリキュール入りのチョコレートやケーキは大好物だ。
 冷たいお茶を飲みつつアイスクリームを食べる。身体の火照りが少しずつ引いていく。
 いつもこの屋敷に来たときは実家のように寛ぐこともできず、ピリッとした緊張感を味わっていたけれど。今日は皆さんお祝いムードだからか、いつになく和やかというかテンションが高いというか。

「ねえ、紫緒ちゃんもそろそろいい人は?」
「いませんね」
「作る気は?」
「ありませんね」
「そうなの……相変わらずね」

 この場にいる三人のおば様方は残念そうに呟きつつも、どこかほっとしているように見えた。
 私は次男の娘だから、跡取りを作るような重責はない。
 両親から「早く結婚しろ」とせっつかれることもなくて、従妹の七菜香にしてみたら自由で羨ましく見えたかもしれない。
 でも、まさかこのときの会話が、私の未来を決める決定打になるとは思ってもいなかった。

「おいしかった、ごちそうさまでした! ところで神社で式を挙げた後はここで宴会? 披露宴? が行われるんですよね。ご飯の準備とかって必要ですか?」
「ええ、大丈夫よ。仕出し屋さんに依頼しているから。飲み物も用意してあるし、紫緒ちゃんは気にしなくていいのよ」
「ああ、そうだわ。紫緒ちゃん、汗かいたでしょう。シャワー浴びてらっしゃい」
「え? ええ?」

 アイスを食べ終えた後、何故か私は浴室へ追いやられていた。
「はい、着替え」と渡されたのは旅館で見るような浴衣である。

「このタイミングでシャワーって……もしかして私、臭ってた?」

 汗をかいていた自覚はあるけれど。だって日傘をさしていても外は三十度近くあったし、バス停から坂道を上るだけで結構な運動になる。
 従妹の晴れ舞台に汗臭い女は出席させられないと思ったのかもしれない。そうだとしたら嫌な気を遣わせてしまった。

「シャワー浴びておこう。化粧も落ちてたし、お祝い事の前だしね」

 母屋の浴室はふたつある。祖父自慢の立派な檜風呂と、ホテルようなユニットバスだ。
 今はシャワーだけなので手早く汗を流して、用意されていたアメニティを遠慮なく使わせてもらった。
 着替えは浴衣だけかと思いきや、何故か新品の下着まで用意されている。

「荷物を持ってくれば着替えはあるけれど」

 この場にキャリーケースはない。汗を吸収したものをもう一回身に着けるのもあれだし……と、遠慮なく使わせてもらった。
 髪を乾かした後、化粧ポーチがないことに気づく。
 いくら親戚とはいえ、すっぴんを見られるのは気恥ずかしいと思っていたら、脱衣所の扉をノックされた。

「紫緒ちゃん、出たかしら?」
「はい、ちょうど髪を乾かし終えたところです」
「そう、タイミングよかったわ。じゃあこっちへいらっしゃい」

 さあ、さあ! と、おば様方に手首を引かれてどこかへ連れて行かれる。
 そういえば今日の主役はどこにいるのだろう。

「あの、七菜香の準備はもう終わってるんですか? 私に構うよりも七菜香の方を」
「大丈夫よ! 奈穂子さんが一緒にいるから」

 奈穂子さんとは七菜香の母で、私の義伯母だ。おっとりした優しい女性で、本家の嫁でもある。
 ちゃきちゃきしている分家のおば様方とそりが合うのかは不明だけど、旅館の若女将のように案外うまく渡り合っているのだろう。
 悠長に他人のことを考えられていたのはここまでだった。

「さあ浴衣を脱いで。これを着ましょうね」
「え? はい?」

 肌襦袢を着せられて、あれよあれよという間に私は見事な白無垢姿になっていた。まるで花嫁衣装……というか、これってまぎれもなく七菜香用の婚礼衣装では⁉

「ちょっと待ってください。一体なんですか、これ⁉ どうして私がこんな姿になってるんですか!」
「落ち着いて、紫緒ちゃん。化粧が崩れちゃうわ」

 私の顔にメイクをしているのは、美容室とエステを経営しているおば様だ。祖父の弟の息子のお嫁さんなので、私と血のつながりはない。
 手際よく全身が豪華に彩られていく。状況を説明されたのは、一通り準備が整った後だった。

「まあ、綺麗よ! すっごく美しいわ」
「純白のウエディングドレスも今度着てみたらいいんじゃないかしら。紫緒ちゃんのお顔にはドレスの方が似合うと思っていたけれど、和装も品があっていいわねぇ」

 私は化粧をしていなくても目鼻立ちがくっきりした派手顔である。そのため少し化粧を濃くしただけでけばい印象になるのだけど、プロが施したメイクは上品で美しかった。

「さすがプロのメイク……って、待ってください。ウエディングドレスって? というかこの恰好ってなんなんですか? どうして私がこんな姿に……」
「七菜香さんが逃げたのよ」
「……え?」

 おば様方は重く息を吐いた。
 今日これから結婚式が執り行われるというのに、肝心の花嫁が不在らしい。

「冗談ですよね? 一体どういうことですか? あの七菜香が逃げるなんて……」

 生まれたときから許婚がいたことを、彼女は平然と受け入れていた。
 私だったら暴れてでも抵抗して家出する! と両親を脅しただろうけど、七菜香は名家の令嬢らしくそんなことはしない。
『考えてもみて。あの白藤家の御曹司との縁談よ? 断る理由がないじゃない』なんて言っていたのは嘘だったのだろうか。

 許婚の白藤(しらふじ)清雅(せいが)は、白藤グループの跡取り息子だ。
 確か年齢は私の二個上で、三十歳。七菜香とは五歳差で、季節の文のやり取りをする仲だと言っていた。
 今時手紙って、古風だな……と思いつつも、時代錯誤のような許婚がいる時点で古風だなんだと言うだけ無駄である。
 そして彼の曾祖父が、うちの曾祖父の親友だった。互いに親戚になることを約束して、ひ孫の代で叶えようとしている。
 とはいえ、ふたりとももう故人なので、私としてはそんな約束も無効でいいのではと思っているけれど。

「七菜香が逃げたっていつですか? 理由は?」
「今朝、置手紙を残して居なくなっちゃったのよ。七菜香さん、恋人がいるんですって」
「か、駆け落ち⁉」

 すごい! やるじゃない!
 思わず賞賛しそうなったけれど、場の空気を読んで口をつぐんだ。
 それにしても少女漫画の主人公みたいな女だわ。
 まさかあの子が結婚式の前夜に許婚を捨てて駆け落ちをするなんて……社会人としては無計画で責任放棄なんて迷惑極まりないけれど。仕事はどうしたんだろう。

「今、奈穂子さんたちが捜し回っていて不在なのよ。一応あと一時間ほどで戻ってくることになっているけれど」

 まだ七菜香の消息はつかめないらしい。そもそも家族すら彼女に恋人がいたことも把握していなかったとか。

「まあ、許婚がいても恋人を作ってはいけないという法律はありませんからね……」

 二十五歳なら彼氏のひとりやふたりがいてもおかしくはない。
 私は残念ながら彼氏と呼べる男性は過去にひとりしかいなかったけれど。それもすぐに破局したので、恋愛に関しては初心者同然である。

「だからといって、どうして私がこんな姿になっているんですか! これじゃあまるで私が七菜香の身代わりに結婚なんてことに」
「そうなのよ。紫緒ちゃんが結婚したらいいんじゃないかって、当主様が判断したのよ」
「は……はい⁉」

 おじいちゃん……もうひとりの可愛い孫娘になんてことを!
 まさか自分が七菜香のスペアになるなんて考えてもいなかった。でも祖父が考えそうなことではある。

「どう考えても馬鹿げてますって! 白藤家を怒らせるつもりですか⁉」

 蓮水も地元では名家と言われていて、地主で不動産もあって大きな会社を経営しているけれど、あくまでも地方の話だ。白藤家と釣り合いが取れるほどではない。
 なにせ白藤と言えば重工、銀行、商社、ホテル、リゾート開発に航空会社まで、あらゆる分野に白藤の名前がついている。
 間接的に白藤家に関わっている人は大勢いるだろう。私だって今勤めている会社は白藤グループの子会社だ。
 そんな一流グループの御曹司との縁談を結婚式直前で蹴った七菜香は大物なのか特大の馬鹿だったのか……一体どんな報復をされるかを考えると、ブルッと寒気がしそうだ。

「冷静に考えてみてください。私に七菜香の代わりが務まると思いますか? 今まで白藤清雅さんが親交を深めていたのは七菜香なんですよ?」
「それを言われるとね……私たちも不安はあるのだけど」

 しみじみ納得されるのも少し複雑なんですが。
 幼少期から英才教育を受けてきて、才色兼備の名を表したかのような七菜香は一族自慢のお姫様だろう。
 着物姿がよく似合う和風美女で、楚々とした立ち居振る舞いも完璧だった。なにせ趣味は日本舞踊、特技は華道という女である。

「本音を言うと私たちもこんなことはどうかと思っているのよ。だってだまし討ちみたいな真似でしょう」

 その自覚はあったんですね。
 頷き合っているおば様方にも同情する気持ちはあるらしい。
 それなら押せば味方になってくれるのでは?
 泣き落としを使いたいところだけれど、綺麗にメイクしてもらった手前、そこまでする気にはなれない。それにアラサーの泣き落としが通用するとも思えない。

「とにかく私は七菜香の代わりにはなれませんので。急に結婚だなんて無茶です。一旦この縁談は白紙に戻しましょう」
「そうは言っても当主様の命令なのよ? おじい様が乗り気なのだからねぇ……」
「それに白藤家との縁談が破談になったら、どれだけの賠償金を要求されるか……」

 賠償金? 嫌な単語を聞いて肩がビクッとする。

「破談にしたらお金がかかるんですか?」

 急に話の矛先が生々しくなってきた。
 曾祖父同士が交わした約束にはいろいろと続きがあったらしい。

「ひいおじい様が事業を興したお金は白藤家に出してもらっていたのよ。白藤の援助で蓮水はここまで大きくなったわけ」
「そのお金はいずれ親戚になるのだからと、返金しなくていいという約束だったそうよ。借用書にもその一文が書かれているんだとか」

 きちんと借用書は残しているらしい。
 そしてもしも縁談が破談になった場合は、蓮水は多額の借金を背負う羽目になるそうだ。

「あの当時のお金を今の金額にしたら、不動産を手放して山を売っても足りない額らしいわね。会社にも影響が出るんじゃないかしら」
「ええ……っ!」

 思わず驚愕の声が漏れる。一体どれだけ資金援助をされていたの、ひいおじいちゃん!
 顔を見た記憶は幼い頃しか覚えていないけれど、ある意味ひ孫を売ったのではないか。

「じゃあ、もしも私がここで逃げ出したら……」
「蓮水は路頭に迷うわね」

 おば様方はしみじみと息を零した。
 本家だけならまだしも、分家も他人事ではない。もちろん蓮水の会社も倒産の危機である。
 つまり私のわがままでどれだけの人を路頭に迷わせるのか? って、脅されているのではないか。顔から血の気が引きそうなのですが。

「……わかりました。それなら私が取るべき行動はひとつですね」
「紫緒ちゃん……! わかってくれたのね」
「ありがとう。あなたは蓮水の救世主だわ!」

 おば様方が涙ぐみはじめたけれど、悪いが結婚するつもりはない。

「我が家から破談にできないのであれば、白藤清雅さんに断ってもらいましょう。それが一番穏便に済む方法です!」

 相手から花嫁チェンジなど嫌だと拒絶してもらえばいい。
 常識的に考えて、式の直前で結婚相手が変わるなんてありえない。今日の結婚式はキャンセルで、この縁談は白紙に戻るはずだ。

「ちょっと、紫緒ちゃん?」

 戸惑うおば様方には申し訳ないけれど、私は往生際が悪い女である。あがけることはあがきたい。

「やれることはすべてやった上で最善の道を選ぶべきです!」

 誰かが犠牲になんて馬鹿げている。
 納得のいかない結婚なんてできるものですか! 
 ……とはいえお金の件は怖いので、ここは白藤家と穏便に交渉がしたい所存です。

「待ちなさい、着崩れるから!」
「誰か! 紫緒ちゃんを止めて!」

 襖を開けて玄関へ向かう。
 母屋の屋敷は増築と修繕を繰り返しているため無駄に広い。
 慣れない衣装では大股で歩くこともままならない。
 頭にかぶせられた文金高島田のかつらも重いし、白無垢の裾を捲ったら皺がつきそうだけどやむを得ない。

「ああ、もう! 近道しよう」

 どうせみんな七菜香捜しで出払っている。客間を使っている人はいないはずだ。
 スパン! と、勢いよく襖を開いた。
 が、無人だと思っていた部屋には、礼儀正しく正座をしていた男がいた。

「……え?」

 黒髪の美男子がいる。
 私と同年代で、理知的な目が涼やかで吸い込まれそうだ。冬の空気のような静謐さを感じる。
 その独特な雰囲気にも飲まれそうになるが、あまりにも顔が整っているビジュアルの良さに慄きそうになった。

「どちら様ですか……?」

 そう問いつつも、私の目は彼の衣装に釘付けだ。
 和装姿だと思っていたけれど少し違う。あれは黒い紋付羽織袴だ。
 この場で新郎の婚礼衣装を身に着けられる男はひとりしかいない。

「はじめまして。白藤清雅です」
「……っ」

 美形は声まで極上だった。
 その艶やかな美声にぞくっとするが、今は聞き惚れている場合ではない。

「は、はじめまして……」

 私はなんて名乗ったらいいのだろう。
 ここは「間違えました」とでも言って襖を閉めるべきかと考えるけれど、問題を先送りにするだけである。

「……!」

 パタパタと足音が聞こえてきた。
 慌てて中に入って襖を閉めるが、これで完全に逃げられなくなってしまった。

「……蓮水紫緒です。少しでいいのでお時間よろしいでしょうか」
「構いません」

 いきなり現れた女が婚礼衣装を身に着けていたら困惑を通り越して恐怖だろう。彼の表情に戸惑いは感じられないが、内心驚いているに違いない。
 私ははやる気持ちをなんとか落ち着かせる。まずは従妹の七菜香が家を出たことから説明した。

「――というわけでして、急遽私が代役に抜擢されてしまいました。おかしいですよね? 受け入れられませんよね? どうぞ存分に怒って蓮水に苦情を仰せ付けください。それでこの縁談はなかったことに」

 身代わり花嫁が七菜香以上のお嬢様ならまだしも、私は一般のサラリーマンの家庭で育った平凡な女である。
 茶道は七菜香が点てたお茶を飲んだことくらいしかないし、華道といえば一度だけフラワーアレンジメントを体験したことがある程度。センスも才能もないことを自覚した。
 当然日本舞踊なんて見たこともやったこともないし、学校行事以外で踊ったこともない。特技と言えるようなものはすぐには思い浮かばない。
 白藤家に相応しくないことと、自分が釣り合わないことを丁寧に説明する。
 こんな状況は馬鹿げているとも告げたが、それまで大人しく聞いていた彼は予想外のことを口にした。

「苦情を言うつもりはありません」
「え……いえ、遠慮しなくていいんですよ? 私は今すぐにでも結婚自体を破談にしてほしいのですが」
「そのつもりもありません」
「は……い?」

 一体なにを言いだすんだ、この男は。
 静かな黒い瞳の奥にはどんな熱が潜んでいるのかわからない。彼を見ていると、風のない日の海を思わせる。夏じゃなくて冬の海だ。
 嫌な予感を抱きながら続きを待つ。
 白藤さんは静かに口を開いた。

「私と結婚しましょう」

 ヤバい。話が通じない人かもしれない。

「あの、正気ですか? まだ顔を合わせて五分も経っていませんよ?」
「はい、もちろんです」

 もしかしてこの男は家の言いなりになるお坊ちゃんだった……?
 話せばわかると思っていた私が大馬鹿だった。
 ありえないことばかりで眩暈がしそうだ。

「でもあなたが今まで親交を深めてきたのは、私の従妹の七菜香ですよね。そんな彼女だからこそ、曾祖父の約束を叶えてもいいと思ったのでは?」

 急に許婚が現れたら抵抗するだろうが、幼少期から親交を深めていたのなら別だ。そういうものだろうと納得しているかもしれない。
 ……まあ、七菜香も納得していたのに急に失踪してしまったが。

「親交を深めていたと言えるほど、私は彼女を知りません」
「え? 季節の手紙をやり取りしていたと聞いていますが」
「そうですね。年に一、二度手紙を送り合っていただけの関係です。彼女と対面したのは数えるほどですよ」

 ……思っていた以上に交流がなかったらしい。
 つまり白藤さんにしてみたら、結婚相手が七菜香だろうが私だろうが変わりはないのだろう。
 大事なのは曾祖父同士の約束を叶えたということだけ。恐らくうちの曾祖父のように、あちらの家も遺言書に彼らの願いが書かれていたのではないか。

「常識的にありえないんですけど……」

 どうしよう。立場の弱い蓮水からでは破談にできないから、白藤の方からなんとかしてもらおうと思ったのに、これでは望みが薄いのでは?

「家同士の結婚って、今時おかしいと思いませんか? 今は令和ですよ⁉」

 時代錯誤も甚だしいと、誰か反対する人はいないの?
 それにこれだけの美男子かつ有名グループの御曹司なら、縁談なんかに頼らなくても結婚相手など選り取り見取りだ。うちよりももっと条件のいい家柄の女性と縁談を結んだ方が断然いい。
 自由な身になってこれから好きなだけ恋愛を謳歌できるのに……と思いつつ、真面目そうな人なので自分に近づいてくる美女に警戒心を抱くかもしれない。
 彼は私をじっと見つめながら静かに問いかける。

「あなたには恋人がいるのですか?」
「え? いえ、いませんけど……」

 ついうっかり、馬鹿正直に答えてしまった。これでは結婚しても問題ないと判断されてしまう。

「でも、だからと言って結婚だなんて……!」
「では二年後に離婚しましょうか」
「は……はい?」

 私は一体なんど耳を疑う発言を聞いたらいいのだろう。
 まさかプロポーズと同時に離婚を切り出されるとは考えたこともなかった。

「その心は……?」
「結婚はしますが、離婚してはいけないとは言われていません。曾祖父同士の約束は私たちが親戚になること。でもその後のことは遺言書にも書かれていませんので」

 一度願いを叶えた後は好きにしていいはずだ。そう言いだされて、思わず口を開けてしまった。
 わりとフレキシブルな考えをお持ちなのかもしれない……いや、でもそれなら最初から花嫁チェンジは約束が違うと断ってくれた方がいいのだけど。

「あの、ちなみに何故二年後なんですか? なにか理由があるのでしょうか」
「特には。さすがに一年だと短いかと。外聞もよろしくないですし、互いを知るには時間をかける必要もありますので」

 でも二年ならそれなりに時間をかけて見極めたことになるらしい。
 離婚の理由はありがちな価値観の不一致。
 長年交際していた男女が結婚後に価値観が原因で離婚するのも珍しくないので、無難と言えば無難だ。

「私も鬼ではありません。急に巻き込まれたあなたに同情する気持ちはあります」

 淡々と紡がれた言葉からはあまり温度を感じないが、きっとこれがデフォルトなのだろう。
 第一印象は目が覚めるような美男子で、冷静沈着な優等生タイプ。頭が固いわけではないと思うけれど、ちょっと常識からはズレていそう。

「結婚と離婚って……」

 私の人生には訪れないと思っていただけに、すぐに覚悟は決まらない。
 まさか従妹の結婚式に参列しに来ただけで、自分が花嫁の代打になるなんて思わないじゃない!
 いっそ夢であってほしいと思うのに、かつらの重みや白無垢の苦しさが私を現実だと実感させる。

「あの、ちょっと待ってください。メリットとデメリットを考えるので」
「どうぞ」

 彼は静かにお茶を啜った。おかしい、動揺しているのは私だけみたい。
 私が喚いても、どうすることもできない事案だということはわかっている。曾祖父同士の約束には多額のお金だって関わっているのだ。
 この縁談が破談になれば蓮水は金銭的にもとんでもない状況になるわけで、恐らくうちの両親だって無傷ではいられない。路頭に迷う人間が出ることを考えると、この縁談を破談させるのは良心が痛む。

「……」

 ちらり、と未来の旦那になるかもしれない夫の顔を盗み見る。
 容姿端麗で眉目秀麗。外見はめちゃくちゃいい。
 正直優等生タイプは好みではないけれど、見た目だけなら思わず見惚れてしまうくらいには好ましい。
 花嫁チェンジをすんなり受け入れるところは、宇宙人なの? と思いたくなったけれど、話が通じないわけではない。私を同情的に見ることもできて、二年後に離婚という柔軟な思考も持っている。

「確認ですが、つまりこれって期間限定の契約結婚みたいなものですよね?」
「そうとも考えられますね。後程契約書を作成しておきましょうか」

 双方の意見を反映させた契約書を作成してもいいと言われた。願ったり叶ったりである。
 となると……、あれ? この結婚のデメリットってなんだろう?
 戸籍にバツがつくくらい、私は特になんとも思わない。それに離婚なんて珍しくない時代だし、世間の目も厳しくはない。
 周囲からなんで結婚しないのかと根掘り葉掘り訊かれることもないし、面倒くさい出会いを紹介されることもない。
 各種の手続きだけが面倒くさいが、それさえ乗り越えれば悪くないのではないか。

「もうひとつ質問です。結婚後の別居婚はアリですか? 週末だけの通い婚みたいな」
「あなたの住まいが都内であれば一緒に住むことが望ましいですね。私のところに引っ越してもらうことになると思いますが、部屋は余っているのでプライバシーは確保できます」
「仕事は続けても問題ないですか?」
「それはもちろん。あなたの意思を尊重します」

 続けてもいいし辞めても構わないらしい。
 けれど離婚予定なのだから辞めるのはリスクが高い。白藤家は嫁が働くのを嫌がる人たちではないそうだ。

「契約結婚で二年後に離婚。それまでは同居するけれど、ルームメイトのような関係性ってことですよね」
「そうなりますね」

 ……それなら悪くないかもしれない。

「家賃、光熱費等はいりません。私の持ち家ですので、その分の負担は減ると思いますよ」

 それはすっごく魅力的な提案だった。
 ちゃんと自分の部屋があって、プライバシーは守られているのであれば、結婚しても同居人でいいってことよね? 二年間は貯金できて、異性関係のトラブルに巻き込まれる心配もない。
 女性の一人暮らしは物騒だ。セキュリティ重視のマンションに住んでいてもどんなトラブルに巻き込まれるかわからないのがストレスでもある。
 業者を部屋に招くのも嫌だし、できれば女性が来てくれたらいいのにって思うことも多い。

「あの、私にメリットはありますが、白藤さんにメリットはないですよね?」

 そうだ。自分のことばかり考えていたけれど、彼にはまったくメリットがないではないか。

「いいえ、そんなことはありません。許婚がいたおかげで煩わしい縁談も避けられましたし、名目上の妻がいたら女性除けになります。私にとって妻がいるというのは仕事上好都合です」

 自由恋愛を謳歌できると喜ぶタイプではないらしい。

「仕事優先なのですね。わかります」

 私も男女のトラブルに巻き込まれて余計なストレスを抱えたくはない。
 白藤さんほど育ちもよくて美形で社会的地位も高い人なら、取引先から持ち込まれる縁談もすごい数になりそう。ひとつずつ断るのってストレスでしかない。
 お互いメリットのある契約結婚であれば、断る理由は私の常識の問題だけ。でも常識なんてものは時と場合によるし、いつでも更新ができる。

「……わかりました。それなら結婚しましょう。その間、私が白藤さんの防波堤になります」

 家賃がタダで、二年間まるっと貯金ができるのは魅力的すぎる。
 私の中で契約結婚のメリットの方がデメリットを上回った。
 彼は私の意気込みに驚いたように目を丸くした。そんな表情をすると、冷たい印象が薄れて年下に見える。

「本気なのですね?」
「ええ、私に二言はありません」

 と言いつつも、迷いが完全に消えたわけではない。
 人生のターニングポイントをこんな短時間で決定していいのかと、内心ブルブル震える気持ちも大いにある。
 たとえ最初から私に断る選択はなくても、自分で納得して決めたことなら覚悟を持つことができる。
 他人に押し付けられたことには責任を持てないけれど、私が決めたことなら別だ。

「では、よろしくお願いいたします。紫緒さん」

 白藤さんはふっと表情を和らげた。

「……っ! よろしくお願いいたします」

 不意打ちの微笑みは春の息吹のようで、私の心臓が大きく鼓動した。
 もしかして自分で感じていた以上に、この顔に弱いかもしれない。

「ではそろそろ時間ですので、参りましょうか」
「あ、はい……」

 スン、と彼の表情が戻った。今の微笑は見間違いだったのだろうか。
 手を差し出されてじっと見つめる。これは私をエスコートするということで合ってる?

「転ばないようにですか?」
「そう思っていただいて構いません」

 目の前に立った白藤さんは予想外に大きかった。
 八頭身はあるモデル体型で、身長も一八〇を超えている。
 なんか急にドキドキしてきたんですが。和服姿が似合いすぎではないか。

「すみません、緊張して手が冷たいので遠慮しておきます」
「そうですか」

 サラッと受け入れられてホッとしたような残念なような……いや、ホッとした気持ちの方が大きい。
 襖を開けて大広前へ向かう。親戚一同が揃っている場は圧巻の一言。
 おば様方は私の姿を見つけると、ホッとしたように胸を撫でおろしていた。まさか七菜香のように失踪したとでも思ったのかもしれない。

「よかったわ、捜したのよ」
「あとで当主様にも挨拶をして」

 ええ、そうですね。
 祖父にも一言文句を言わせてもらわないと気が済みません。とはいえ、今は人の目もあるので大人の対応を優先する。
 最低限の挨拶を交わしてから、私たちは屋敷のすぐ近くにある神社へと向かうことにした。

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