堅物マジメな御曹司は契約妻にひたすら隠した溺愛を解き放つ~円満離婚はもう無理だ~

第二章 ①

 私の三連休は嵐のように過ぎた。
 月曜日に都内に戻った私と清雅さんは、そのまま区役所で婚姻届を提出した。
 土日・祝日でも婚姻届は受理されるのを知っていたけれど、本当に時間外窓口で提出できるのをはじめて知った。
 しかも以前は戸籍謄本が必要だったけれど、戸籍法が改正されたおかげで余計な書類も省くことができた。
 つまり私にとっては時間稼ぎができなくなったわけで、あれよあれよと入籍してしまったのだ。スピード感に置いてけぼりである。
 それにしても敬老の日に婚姻届を出すなんて、祖父孝行すぎじゃない? 
 ひ孫たちが曾祖父同士の念願の夢を叶えてあげるとか、私たちは随分徳を積んだのではないか。
 ならばなにか目に見える形でご褒美がほしい。たとえば好き放題食べても脂肪になりにくい体質に変化したとか、毎日快眠でストレスを受けにくいとか。
 紙一枚を提出しただけで結婚した実感はまったくわかず、その後私は四年間住んでいるマンションに帰宅した。
 たった一日不在にしていただけなのに、自分の城が懐かしく感じた。
八畳の1Kだけど、駅が近くてセキュリティ重視の築浅の角部屋だ。大きなクローゼットが決め手で、住み心地はとてもいい。
 でもこれから引っ越し考えなきゃいけないのか……。
 タイミングがいいというか、十一月にマンションの更新がある。退去予定ならひと月前に連絡をしなければいけない。

「急にやることが多い……! でもそうだ。今日中にメール送っておこう」

 寝る前に両親に結婚の報告を入れておく。彼らにとっても青天の霹靂ではあるが、果たしてどんな返事がくるやら。

「会社に報告は……扶養に入るわけじゃないならすぐにしなくてもいいのかな?」

 その辺も調べておかなくては。
 考えごとで頭がパンクしそうになりながら、私は電池が切れたように眠りに落ちた。
 そして翌日の火曜日。
 スマホから奏でられるアラームの音を苦々しく思いながら、のっそりとベッドから起き上がった。

「なんで今日は休みじゃないの……三連休なんて全然足りない」

 長い休み明けは早くも次のお休みが恋しくなる。
 四日仕事をすれば週末! を呪文のように唱えながら、朝の身支度をした。

「今日はこれでいいか」

 会社用の服は数パターンを着まわしている。
 本当は制服化がしたいところだけれど、毎日同じ服で出勤する度胸はない。
 でも基本となるパンツにブラウスかカットソーと、上に羽織るものを一枚でコーディネートしていた。
 色味は黒、白、紺など無難で地味な色ばかりだけど、目立ちに行くわけではないのであえて派手な色を選ばない。
 ワックスをつけたダークブラウンの髪をひとつにまとめて、伊達眼鏡をかける。
 化粧はとにかくナチュラルで、なんなら色付きの下地とコンシーラーにパウダーのみだ。薄くアイシャドウを塗って眉を整えて、リップの色もなし。
 姿見に映る自分の姿はものすごくテンションが上がらない。

「よし、完璧な擬態だわ」

 地味で目立たない会社員。
 これが私の平日の武装、いわゆるONの姿だ。
 休日のOFFの姿はきちんと化粧をしてオシャレを楽しむようにしているが、会社では清潔感と身だしなみに気を付けてシンプルな装いをしている。アクセサリー類もつけていないので、華やかさとは無縁だ。

「結婚指輪は……不要よね」

 ジュエリーボックスにしまっておこう。
 パタン、と箱の蓋を閉じたところで、スマホが着信音を奏でた。

「はい、もしも……」
『紫緒! 結婚したってどういうことなの! もうお母さんたちびっくりして!』
「お母さん、落ち着いて」

 びっくりしているのは私もだよ。
 昨晩のうちに結婚相手も報告しているから、余計興奮しているのだろう。

『お父さんもびっくりしたけど、でも玉の輿ってやつだな! まさか七菜香ちゃんが駆け落ちするとは思わなかったが、でもどちらもめでたいじゃないか』

 まだ腰が万全ではないはずの父が電話越しで笑っていた。まさしく祖父の血を引いている。

『玉の輿って言うけど、無理やりじゃないのよね? あなたは昔から納得のいかないことには抵抗するから大丈夫だと思うけど』
「大丈夫。自分で納得して受け入れたから安心して」

 それに期間限定だし、というのは黙っておく。
 母は私の話を聞いてほっとしていたようだけど、それでも心配は消えないらしい。

『お金があって地位もあって、しかも目が覚めるような美形だなんて。絶対浮気するわよ、気を付けなさいね!』
「……うん、ご心配ありがとう」

 浮気までは気が回らなかった。
 契約関係を結んでいる間は、自由恋愛はリスクが高いから避けてもらうように伝えてみよう。外聞を気にする人ならやらないと思うけど。
 それによほどうまくやらない限りバレる可能性の方が高い。
 最終的に両親は、独身主義だった娘が玉の輿に乗ったことを喜んでいた。
 失踪した七菜香のことを責める気はない。『本心では我慢していたのよ』と憐れんでいる。
 両親も親戚も、みんな七菜香は清雅さんとの結婚を心待ちにしていると思っていた。何度か彼女の意思を確認する機会はあったのだ。
 そのたびに七菜香自身も結婚を受け入れていたため、一体どのような心境の変化があったのかはわからない。

「あ、いけない。会社行かないと。じゃあ切るね!」

 通話を切って、通勤バッグを持って慌てて玄関に向かった。

 満員電車に揺られながらひたすら無の境地を味わって、いつも通り朝九時に出勤した。

「おはようございます」

 朝の挨拶をして、デスクの引き出しにバッグをしまった。
 私が勤めているのは家具や寝具、インテリア雑貨を販売する会社だ。日本国内と海外に店舗があり、ECサイトにも力を入れている。
 二、三十代の女性を中心としたインテリアブランドと、ナチュラルな北欧系がメインのブランドで、その他の事業部は海外アートの輸入と和食器など。わりとなんでもござれな、インテリア専門店とも言える。
 私は学生時代に一目惚れした椅子がきっかけで、インテリアに興味を抱いた。
 アルバイトで貯めたお金で購入した椅子はちゃんと実家から持ってきて、今も愛用している。
 大学でデザインを学んで、偶然にも白藤グループ系列の子会社に新卒で入社して今に至る。
 仕事は楽しくてやりがいもあるし、働きやすい環境でもあるけれど。人間関係は少し面倒くさい。

「おはようございます、蓮水先輩」
「おはようございます、梅本さん」

 今日も完璧にヘアメイクを決めてきた後輩、梅本萌南(うめもともな)だ。頭から指先まで隙がないのは素直に感心する。
 が、この後輩、私に対する当たりが少しきつい。

「三連休どうでしたか? 私は金沢旅行に行ってきたんです。先輩はいつも通り自宅に引きこもっていたんですよね? お土産のお菓子どうぞ」

 にこにことした笑顔でお土産を渡してくれるのはありがたいけれど、どことなく口調がとげとげしい。どうでしたかと訊いておいて決めつけるのは何故なの。

「ありがとう。遠慮なくいただきます」

 連休でも予定のない寂しいアラサー女に恵んでやるとでも思われていたりして。
 そう考えるのは私の性格が悪いからかもしれないけど、彼女の場合はそれに近いことを思ってそう。
 地味で化粧気もなくて冴えない女に、今時のオシャレのなにがわかるのだとは確実に考えているだろう。
 私が新しいプロジェクトのリーダーになったときは、わかりやすくぶすくれて裏で愚痴を言っていたのを知っている。

「先輩、ちゃんと休みの日は外に出ないとあっという間に枯れちゃいますよ? 今日もなんだかPTAのママさんみたい。あ、いい意味で」
「そうかな。でもPTAに出席しているママさんの方がオシャレに気を遣っていると思うわね」

 適当に流しつつ仕事のメールをチェックする。いい意味でって、便利なフレーズだけど普通に貶したよね?
 二十代前半の彼女にしてみたら、二十八で保守的な服装だなんておばさんみたいだと言いたいのだろう。デザイン系の仕事をしているのにオシャレ気がないなんてという不満も伝わってくる。
 私だってオシャレは好きだし明るい色合いのメイクも大好きだ。
 でも私の顔は母によく似て、目鼻立ちがくっきりした派手な顔をしている。
 そのおかげで少し化粧をしただけでけばい印象になるし、過去には遊んでいるという噂をたてられたこともあった。それに異性関係のトラブルも増える。
 平穏に過ごすなら地味で目立たないのが一番いい。会社には仕事をしに来ていて、私的な会話も最低限に留めておきたい。

「梅本さん、メールチェックしたら確認したいことがあるのだけど」
「はーい、あとで見ておきます。あ、秋川さん~! お菓子どうぞ!」

 彼女はパソコンを立ち上げることもせずお菓子を配りはじめた。
 最初に私に声をかけたのは隣のデスクだから無視できず、渋々ということかもしれない。
 本当は真っ先に社内でも人気の若手イケメンだと言われている秋川君に声をかけたかったんだろうな。独身で、彼女なしという噂もある。
 社内恋愛は面倒くさそうだからやめておいた方がいいと、心の中でアドバイスした。直接言うつもりはない。
 小さく息を吐いたと同時に、すぐ近くの会議室の扉が開いた。

「相変わらず舐められてるみたいだな」
「若松……いたの? 朝から会議?」
「ああ、三十分だけ電話で。この会議室って一応防音対策はされてるけど、まあまあ外の声も聞こえてくるんだよ」

 彼は私の同期の若松慶(わかまつけい)。笑いながら盗み聞きをしているのはどうかと思うけれど、気心が知れたいい奴でもある。
 私が女性向けのインテリア雑貨部門で彼は北欧家具の部署にいる。
 将来的には私も若松と同じ北欧家具の部署に異動したいところだけど、今は自分ができる仕事で経験を積みたい。

「で、次のターゲットは秋川? 相変わらずガッツがあるね」
「あんたも一瞬だけターゲットにされたっけ。彼女がいるって知ってからすぐにフェードアウトしたのは面白かったわね」

 梅本さんの、人のものには興味がないというところは評価している。これが逆に人のものだからほしくなるタイプだったら手に負えない。

「まあ考えようによっては、わかりやすいところは長所でもある。笑顔の裏で敵対心を持たれている方が嫌だしな」

 それはそう。人間不信になりそう。

「それで連休は? 本当に家から一歩も出なかったのか」
「え……と、まあね。いつも通りよ」

 三連休といえば、溜まっている家事をして作り置き用の総菜を作って、映画やドラマの配信を観てゴロゴロする。わざわざ混雑するような時期に旅行に行くことはしない。
 が、さすがに若松も梅本さんも、男性と浮いた話がひとつもない私が結婚したとは思わないだろう。両親にだって今朝報告したばかりで、正直私も結婚の実感は湧いていない。
 上司には報告しないとダメだよね……こういうのっていつするべきなんだろう。

「それ食うの? 勝手に憐れまれて恵まれた土産の菓子」
「もちろん食べるでしょう。加賀棒茶のフィナンシェだよ? 絶対おいしいじゃない」

 もらったお菓子の封を切った。食べ物はありがたくいただきます。

「蓮水はそういうやつだよな。まあ、なんか吐き出したくなったらいつでも聞いてやるよ」

 若松は面倒見がいいので後輩からも慕われているようだ。爽やかで仕事も的確で口が堅くて、女性社員の人気も高い。

「じゃあ今日のお昼さ、予定なかったらプチ同期会しよう」
 いつもお昼を一緒に食べているもうひとりの同期とのランチに誘う。若松は笑顔で頷いて、デスクに戻っていく。

「あ、おいしい」

 封を開けたお菓子を早速一口齧った。
 溜まっているメールに返信して慌ただしく仕事をこなし、気づけばお昼時間だ。
 約束の時間に集合して、オフィスの近所にある洋食屋に向かう。

「若松君がいるなんて珍しいね。なんか報告でもあるの?」

 インテリアコーディネート部門にいる同期の渋谷(しぶや)万穂(まほ)が、届いたばかりのアイスティーを半分ほど飲み干した。九月でも連日気温が三十度近い。

「いや、俺は特には」
「あれ、そういえばこの間、彼女と同棲するって言ってたよね。うまくいってる話でも聞けるのかと思ったわ」

 若松は大学時代から交際している彼女がいるらしい。結婚まで秒読みかと思っていたけれど、なんだか雲行きが怪しい。

「あ~それな。同棲前に別れたんだ。価値観の不一致で」

 急に空気がぎこちなくなったが、若松は気にした様子はない。

「ま、まあ、同棲前に気づけてよかったじゃない」

 万穂がフォローを入れる。
 そうだよね。同棲前に気づけてよかった……と頷きながら、はたと気づいた。
 私は大丈夫かしら?
 これから同棲……ではなくて、同居が待っているというのに。
 もしもうまくいかなくなった場合を想定して、今住んでいるマンションは解約しない方がいいのでは……。
 アイスコーヒーを飲みながら価値観の不一致とやらを尋ねると、彼は金銭面が大きかったと答えた。

「ふたりともマンションの更新時期が近いから新しいところを探していたんだけど。駅近で角部屋は譲れない、デザイナーズマンションがいい。家具家電は全部買い直したい、家賃と光熱費は俺持ち。食費は彼女が払うけど外食は俺の奢りで、二人暮らしならペットも飼いたいと」

 家具を買い直したい気持ちはわかるけれど、家電もとなるとなかなかの出費だ。
 元彼女はうちの自社ブランドなら社割で安く買えると思っていたそうだ。それにしても若松の負担の方がかなり大きい。

「なるほど、金銭面のすり合わせは大事よね。あと衛生観念とか」

 清雅さんは見るからにきっちりしていそうだから、汚部屋に住んでいるイメージはないけれど。私が彼の合格点を維持できるかどうかも心配だ。
 生活レベルや価値観が同等じゃないと互いにストレスが溜まるよね。きちんと事前に話し合いをした方が良さそう。

「若松君が同期の中で一番に結婚すると思っていたんだけどね」

 万穂は届いたオムハヤシを食べながらしみじみと呟いた。
 一瞬ナイフでハンバーグを切る手が一瞬止まった。

「蓮水、どうかした?」

 若松は人の動きに目敏い。私の微妙な様子になにか勘付いたらしい。

「あ、いや……うん」

 どうしよう。遅かれ早かれ、結婚した報告は会社にもしないといけない。
 ならば先にこのふたりに言っておいた方がいいのでは……。
 じっと見つめてくる圧に負けて、私は食べる手を止めた。

「まだ会社にも報告してないし、内緒にしててほしいんだけど……昨日入籍したの」
「……え?」
「は?」

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔というのをはじめて目の当たりにしたかもしれない。
 驚く気持ちは非常にわかる。私だってまだ夢なんじゃないかって思うもの。

「彼氏いたっけ?」
「ううん」
「実は俺たちには言わなかっただけで婚約者がいたとか」
「ううん、それも違う」

 最初から説明を求められた。私はなるべく簡潔に、ややこしい詳細を端折ってこの二日間に起きた出来事を話す。

「ドラマみたいな話をリアルで聞けるとはね……」
「お前、自分の人生なのにそんなんでいいのかよ?」
「一応自分でも考えて、納得した上で受け入れたんだけどね。結婚といっても、互いに同居人という感じで、無理なく過ごそうと思っているから」

 お相手は名家の出身だと濁してみたけれど、そのうち結婚後の苗字もいつかはバレるだろう。会社では旧姓のまま仕事を続けるつもりだ。

「結婚願望のなかった紫緒がまさかの玉の輿って……なにが起きるかわからないわね」
「玉から落ちないようにしろよ。お金は大事だ」

 よくわからない助言をいただいたけど、確かにお金は大事です。でも、私はほしいものは自分で買いたい人だ。

 今度ゆっくり飲みに行くぞと言われて解散し、仕事に戻った。
 休憩時間にスマホを確認したら、清雅さんからメールが届いていた。契約書のドラフトの確認依頼と、今夜の夕食のお誘いだ。
 ご丁寧にレストランのリンクまで送られてきている。三つの候補から好きな店を選ぶようにということだろう。

「仕事が速いし丁寧だし、配慮と気配りもあってすごいわね」

 清雅さんの欠点はどこだろう。
 逆に隙がないところが欠点と言えるかもしれない。
 恐らく私が一晩冷静に考えたらなにか思うところが出て来てもおかしくないと思っているのだろう。契約内容だけでなく、他にもすり合わせがしたいところもあると思っているに違いない。
 コーヒーを飲みつつ添付されたPDFに目を通す。私がふわっと考えていた以上にしっかりした契約書だった。
 これ、まさかお抱えの弁護士が作成していたりして……? 離婚後の財産分与まで書かれていると、さすがにドキッとする。
 お礼を告げて、夕食時に契約書を一緒に確認したいと返事をした。
 夕食はドレスコードのないカジュアルな店が希望とも伝えて、一番気楽に食べられそうなイタリアンを選択する。
 和食の懐石料理やお寿司も魅力的だったけれど、ふらっと平日の夜に行くには敷居が高すぎる。あと靴を脱ぐお店もちょっと遠慮しておきたい。

「待ち合わせは七時か……仕事頑張ろう」

 飲み終わったカップを捨てて、残業しないように残りの仕事に集中した。

 ◆ ◆ ◆

 オフィスまで車で迎えに来ると言われたけれど丁重にお断りをして、レストランの前で集合にさせてもらった。
 職場の付近なんて誰が見ているかわからない。
 特に後輩の梅本さんのような女性社員に見られたら、明日からどんな噂が流れるやら。考えただけで厄介なので、現地集合が一番安全だ。
 清雅さんは遠目からでも人目を惹きつけるオーラを放っている。一本芯が入ったかのように姿勢がいいし、凛とした表情にも隙がない。
 冷静沈着、眉目秀麗、清廉潔白という四字熟語がここまで似合う男性と出会ったことがないわ……きっと学生時代は頭脳明晰や品行方正とも囁かれていそう。
 一般人とはどこか違う。見るからに清らかな空気を放つ人が自分の書類上の夫だなんて未だに夢を視ているのでは? と思いながら、待ち合わせの十分前に彼の元へ向かった。

「お待たせしてすみません。先にお店に入っていてもよかったのに」
「……紫緒さん?」
「はい」

 何故疑問形? って思ったけれど、今日が平日だったのを思い出した。

「ああ、ごめんなさい。仕事帰りなんで、ONのままでした」

 かけっぱなしだった伊達眼鏡を外す。パウダーはつけ直したけれど、色の濃いリップくらいはしておけばよかったかもしれない。

「ONのままとは? 仕事着のことでしょうか」
「ええ、そうです。地味でしょう?」

 昨日までは明るい色の服を着て髪もふわっと巻いていただけに、印象が異なるのだろう。今の恰好は大勢の中に溶け込んで存在感を消せそうである。

「地味とは思いませんが、随分雰囲気が異なりますね。お化粧もされていないのですか」
「ナチュラルメイクはしていますよ。限りなく自然に見えるように。職場で面倒ごとは避けたいので、できるだけ目立たないようにしてるんです」

 清雅さんは特に追求することなく、納得したように頷いた。そういう価値観なのかと思ったのだろう。
 送られてきたリンクではカジュアルなイタリアンレストランの印象だったが、案内されたのは奥にある個室だった。
 内装もどことなくグレードアップしているように見える。

「コース料理を予約しましたが、他に食べたいものがあれば仰ってください。飲み物はなにがいいですか?」
「わざわざありがとうございます……飲み物はソフトドリンクにしておきます」

 今一瞬、水で大丈夫と言いそうになった。でもコース料理を注文しておきながら、お水というのはマナー違反だろう。

「お酒は召し上がらないのですか?」
「ええ、平日は我慢してるんです。お酒は一週間のご褒美として金曜日の夜と、週末の楽しみにとっておくようにしてて」

 家でも嗜む程度しか飲まないけれど、家系的にアルコールには強い方だ。

「私もソフトドリンクにします」

 特性ハーブティーというオシャレな飲み物があったので、それを二人分注文した。個室でふたりきりになると、なにやら緊張感がこみ上げてくる。
 やっぱりアルコールを入れておいた方がよかったかな……いや、これから契約書の確認があるんだし、正常な判断力が必要だわ。

「あの、契約書ありがとうございました。まだざっくりとしか目を通せていないのですが」
「ドラフトですので、これから話し合って詰めていきましょう。あまり細かくすると行動が制限されてストレスになると思いますので、なるべくシンプルにした方がいいかと」

 その提案に頷く。細かい誓約は覚えきれない。
 清雅さんはビジネスバッグからファイルを取り出し、私の前にプリントした契約書のドラフトを置いた。
 なんだか仕事みたいだけど、この方が私も気が楽である。

「まず期限は二年としていますが、離婚届の提出日は応相談でよろしいですか?」
「はい、もちろんです。二年後の九月末で考えておきましょうか」

 上の項目から順番に目を通す。
 家事に関しては外部に委託するので基本的に不要、食事の準備も各々がするなど、妻としての役割を求めないことが書かれていた。
 双方の親戚の付き合いや、仕事で夫婦の参加が必須のときは協力して、仲睦まじい姿を演じるとのこと。

「仲睦まじい姿って具体的にはどういう感じでしょうか。腕を組むとか?」

 前菜のサーモンとホタテのキャビア乗せを食べる。酸味が利いた絶妙なドレッシングがおいしい。

「そうですね。自然な笑顔を絶やさない、とかも有効でしょうか」

 清雅さんはあまり表情筋が豊かとは言えない。そんな彼が穏やかに微笑んだら、そりゃ周囲はざわつくし愛妻家とも思われそう。

「でも清雅さん、自然に微笑むってできますか? ちょっと笑ってみてください」
「……」

 不自然でぎこちない表情になった。恐らくかなり珍しい顔なんじゃないか。

「眉間に皺が入ってますよ」
「……すみません。努力します」

 謝らせてしまったのでフォローを入れる。
 徹底した合理主義に頷きながら、契約期間中の自由恋愛は控えるようにという項目を発見した。私には不要な項目だ。

「恋愛なんてしませんからね? 既婚者の自由恋愛を肯定できるような倫理観はないんですが……それに長年恋人もいませんし、作る気もありません」

 そんなことを言いながらハッとする。
 もしかしたら彼の方こそ、心の奥に忘れられない女性や想い人がいるのでは。

「清雅さん、七菜香がいたから実らなかった恋があったりしますか? 本当は結婚したかった女性がいたのではないですか?」

 昔風に言えば、私を名前だけの正妻にして、妾や愛人を囲いたいのではないか。
 もうすでに再婚相手がいるのだとしたら、私も一応挨拶をしておくべきなのかもしれない。
 が、私の心配をよそに彼はきっぱり否定した。

「そんな相手はいません」
「嘘はつかなくていいんですよ?」

 あ、契約書に「嘘をつかない」も追加しておこう。誠実さは大事だ。

「ですから、そのような相手はいませんのでご心配なく。許婚がいるのですから、他の女性に心を奪われるなど失礼でしょう」
「……そ、そうですね」

 チクチクと良心が痛む。
 これは七菜香が悪女だと責められても返す言葉がない。
「改めて従妹がすみません」と頭を下げたが、清雅さんは気にしていないと告げた。私と二歳しか変わらないのに、人間ができすぎている気がする。
 じゃあ今まで恋人は……と訊きたくなったけれど、さすがに踏み込み過ぎる質問は失礼だろう。

 私だって恋愛経験はほとんどないので、訊かれたくないこともある。

「いろいろ言いましたが、仮面夫婦とは思われないように可能な範囲で努力していただければ問題ありません。引っ越しはなるべく早い方がいいですね。今週末で手配しておきましょうか」
「今週末⁉」

 今日は火曜日だ。引っ越しの準備をするには時間が足りない。

「いやいや、ちょっと急すぎません? 荷物の仕分けにも時間がかかりますし」
「すべて業者に任せたらいいですよ。紫緒さんは貴重品と数日分の荷物だけ持って来ていたらよろしいかと。費用は私が持ちますのでお気になさらず」
「え……と、よろしいんですか?」
「はい、妻の引っ越しですから」

 つ、妻……! なんて慣れない響き。
 改めて言われるとなんだか照れるし恥ずかしい。
 必要経費だと断言されたけど、普通の会社員である私には、業者に丸投げというのはちょっと贅沢だと感じる。

「大型の家具家電は処分でよろしいですか? 倉庫を借りることもできますが」
「あ……はい、学生時代から使っているので大分年季も入ってますし、処分して大丈夫です。持って行きたいのは思い入れのある椅子くらいですかね」

 その他は引っ越しと同時に家具の引き取りをお願いすることにした。

「離婚後の新居と家具家電など、新生活で必要なものは援助しますのでご心配なく」

 アフターフォローまで完璧すぎるなんて、ちょっともう隙がなさすぎて怖い。
 しかもそのことまで契約書に盛り込むらしい。万全すぎる。

「ところで紫緒さん」
「は、はい!」

 食事をする手を止めた。思わず背筋を伸ばす。

「どうして指輪を外しているのですか」
「え? あ、ああ……すみません。指輪をつける習慣がないのと、なくさないようにと思いまして」

 嘘じゃないけど本心でもない。
 だって結婚予定がなかったのに、いきなり指輪をして出勤って心理的にもハードルが高い。それになにより、社内でも根掘り葉掘り訊かれそう!
 でも清雅さんの左手にはきちんと指輪が嵌められていた。ふたたび私の良心がチクチク痛み出す。

「明日からは指輪をつけてくれますか?」
「あ、はい……もちろんです」

 私の覚悟を再度確認された気分だ。先延ばしせずに会社にも結婚の報告をしよう。住所変更も必要になるのだから報告はしなくてはいけない。
 清雅さんはサラッと、「どこで白藤の者が見ているかわかりませんので」と追加した。私の背筋に緊張が走る。

「え? 家の方に見られる可能性があるってことですか?」
「そうですね。恐らく我々の動向を監視していることでしょう」
「……っ!」
 
 新婚夫婦が仲良くできているのかを確認しておきたいらしい。
 私にいたっては、ぽっと出てきた女なのだから、そりゃあ白藤家にしてみたら心配で仕方ないに違いない。のんびり暮らしている間に身辺調査もされてそう。
 名家って恐ろしい……。
 私はつくづく、父親が次男でよかったと安堵した。
 普通のサラリーマン家庭でセレブではなかったけれど不自由さはなかったし、なによりわずらわしさが少ない。

「仮面夫婦と思われないように親密感は出しておく必要がありますね」
「それなら清雅さん、まずは口調を改めてみませんか。硬いと距離感があると思うので」

 そういえば清雅さん、ご両親にも丁寧語だった気がする。癖になっているのか、名家のしきたり的なものなのか。
 弟さんがいたようだけど、軽くしか挨拶はできていない。ちなみに私にも弟がいるが、遠方に住んでいるので結婚式には不参加だった。

「そうですね……紫緒さんに失礼がなければ」
「なりませんよ。それに一緒に住むならリラックスできた方がいいですから」

 気遣いばかりでは疲れてしまう。まずは口調から、と言いつつも、私もすぐに変えるのは少し気恥ずかしい。

「でも私は徐々に、でお願いします。少しずつ慣れるようにしますので」
「……わかった。気長に待とう」

 一瞬微笑んだ清雅さんは、次の瞬間には真顔に戻っていた。彼の表情筋はもう少し仕事をしてもいいように思えた。

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