堅物マジメな御曹司は契約妻にひたすら隠した溺愛を解き放つ~円満離婚はもう無理だ~
第二章 ②
白藤家の目がどこで光っているかわからないため、翌日から私は左手に結婚指輪を嵌めて出勤した。
手袋を嵌めて仕事したい欲求を堪えていたら、出勤早々に隣に座る後輩、梅本さんが目敏く指輪に気づく。
「結婚指輪⁉」
「……っ!」
朝の挨拶よりもそれ?
心臓が跳ねたと同時に、出勤済みの同僚たちがざわつきだした。わらわらと私の周りに人が集まってくる。
「ちょっと蓮水先輩、まさか推しの指輪を外し忘れたんですかぁ? 痛々しいから早く外した方がいいですよ!」
それ、推し活をしている人を敵に回す発言では?
世の中には推しをイメージした指輪というものが売られており、一定の人気があるらしい。
私は推し活をしたことがないからわからないけれど、需要はあるのだろう。
微妙な空気が流れてしまった。
真相はどっちなのだと、同僚たちの目が問いかけている。
これは覚悟を決めて報告するしかない……。
「私事で恐縮ですが、先日入籍しました。まだ人事と柿澤さんにも報告ができていないのですが」
そう言ったところで拍手された。ちなみに柿澤さんとは私の直属の上司である。
「おめでとう!」と同僚にお祝いされると、なんだか非常に照れくさい。
罪悪感に似た感情もこみ上げてくるけれど、一般的には結婚っておめでたいことなんだった。
「へ、へえ……おめでとうございます」
梅本さんも一緒に拍手をしているけれど、目の奥が笑っていない。
化粧気もない、地味で冴えない女が私よりも早く結婚って! と思っているのがありありと伝わってくる。
でも私の相手は気になるらしい。
「旦那さんはどんな方なんですか? 出会いは? 名前はどうするんですか?」
すごくグイグイ来る!
面倒くさいので無難に公務員ってことにしておこう。出会いは知人の紹介で、名前は旧姓のまま仕事をすると告げる。
そういえば昨晩、清雅さんから名刺を受け取っていた。白藤グループの御三家とも呼ばれる白藤重工の専務だった。
就職先はくじ引きだったと言われたときは、冗談だよね? と思ったけれど。清雅さんが冗談を言うようには思えない。
『子供の頃はパイロットに憧れていたから、ジェットエンジンも扱う重工がいいと思っていた。我ながらいいくじ運だった』と、はにかみながら笑っていた。
孫の就職先をくじで引かせるって、清雅さんのおじい様である白藤の当主もなかなかすごい人である。うちの祖父と似たものを感じる。
「名前は? 蓮水さんがお相手の名前に変えられたんですか?」
同僚に尋ねられて一瞬考えたけれど、余計な嘘をつく方がややこしい。
「そうです。白藤になりました」
「素敵なお名前ですね」
「あれ? 白藤って、白藤グループと同じ名前ね」
余計なことに気づいたのは私の先輩の谷口さん。
梅本さんの目が光る前に否定する。
「ええ、偶然にも。遠い親戚だったら面白いのですが、残念ながら違うみたいで」
しれっと嘘をついて、皆さんに礼を言った。
後から来た上司の柿澤さんにも流れで報告すると、「先に言ってよ~! 僕だけ最後って!」って言われたけれど、すみません。こんなことになるとは想定していませんでした。
仕事を辞めるつもりがないことと、住所の変更があることを告げる。
これから運転免許証や銀行など、諸々の手続きを考えると気が遠くなりそう。
清雅さんは、そういう手続きは一緒にやると言ってくれたけれど、忙しい彼の手を煩わせたくはない。
十四日以内にすべての申請を終わらせるとなると、どこかで一日有給を使った方がいいかもしれない。
結婚って大変だわ……幸せいっぱいだけではないらしい。
仕事をして、帰宅したら引っ越し前の不用品を選別していたらあっという間に週末を迎えた。
大手の引っ越し業者まで白藤グループの傘下だった。私が知らないだけで、白藤グループの系列会社は多そうだ。
できればまったく関係ないところがよかったけれど、幸い私が清雅さんの妻とまでは知られていない。
貴重品は自分でまとめておいて、残りをすべて業者にお願いしたら驚くほど早く引っ越しが終わった。
そして清雅さんとの同居が開始した。
「今日からよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
てっきりタワーマンションの上層階に住んでいるのかと思っていたけれど、高級住宅街にある低層マンションにお住まいだった。
セキュリティ重視でコンシェルジュ付き。一階のラウンジには無料で利用できるカフェもあり、軽食を注文することも可能らしい。
大きな窓からは手入れが行き届いた緑が見えて、敷地内には薔薇も育てられているそう。プール付きのジムとサウナもあるとか。
ここ、賃貸だとひと月いくらするんだろう……私には犬小屋のようなスペースですら借りられないだろう。
「本当は蓮水邸のような日本家屋が好きなんだけど、一人暮らしで戸建てはいろいろと難しくて」
清雅さんはマンションを案内しながら呟いた。
確かに彼は神社仏閣がよく似合うし、蓮水の日本庭園もじっくり眺めていた。
「戸建ては管理が大変ですよね。セキュリティ面でもマンションの方がしっかりしているでしょうから」
一般人ならまだしも、白藤家のご長男という立場ではいろいろとまずいだろう。むしろこの人、よくひとり暮らしが許されているね? とも感じる。
そういえばこのマンション自体が清雅さんの不動産だっけ? お金持ちって次元が違いすぎてもうよくわからない……。
案内されたのは最上階のフロアだった。
居住している階にしかエレベーターが止まれないようになっているのはホテルみたいだ。
「扉はオートロックなので、部屋を出るときは鍵を忘れないように」
「あ、はい。承知しました」
「ところで紫緒さん。口調が他人行儀のままだ」
「……っ!」
なんとなく気づいていたけれど、清雅さんは宣言通り丁寧語をやめていた。
私はというと、まだ気恥ずかしいというか慣れないというか……。
「徐々に、とも言いましたよね?」
「うん、でも変化の兆しがないから」
じっと見下ろされると妙な威圧感がある。
綺麗なご尊顔を直視できないのですが……!
私が内心慌てていることなんてこの人は気づいていないだろう。なんとなく清雅さんは自分の顔がいいことに疎いというか、無自覚な気がする。
「頑張るので……! あまり見つめないでもらえたらと……!」
「何故? 今日の紫緒さんは、やはり平日とは印象が異なるんだなと思っていたのだけど」
「え、変ですか?」
週末なので髪は簡単に巻いて、ひとつにまとめている。
ONの日はアイライナーとマスカラを封印しているけれど、今日はOFFなのでしっかりまつ毛を上げて上下にマスカラを塗っていた。
「いいえ、華やかな化粧の方が紫緒さんらしくて素敵だと思う」
「……あ、ありがとうございます?」
真顔で褒められた?
じわじわと顔に熱が上がりそうだ。
褒めた自覚あがるのかわからない男は、平然と部屋の案内を始めた。
「シューズクローゼットの右側が空いているので、こちらをどうぞ。女性は靴が多いと思うので、足りなければ遠慮なく教えてほしい」
「お気遣いありがとうございます。この二段くらいで大丈夫かなと」
靴の断捨離を行っていてよかった……! 履き潰した靴とか、汚れた靴を清雅さんのピカピカに磨かれた靴と一緒に並べられない。
すでに玄関で心臓がドキドキしている。しかも入った瞬間から天井が高い。
「リビング、ダイニングとキッチンで、ここはパントリーエリア。飲み物類は常温で保管しているので、好きに飲んでほしい」
「ありがとうございます」
全体的に和を感じるインテリアだった。和モダンかつ北欧ミックスのジャパンディなインテリアはめちゃくちゃ落ち着く。
ダイニングテーブルの照明は数十万するブランドのものだし、この一枚板のテーブルは艶といい照りといい、とても味がある。
「ご実家から持ってきたのですか? このテーブル」
「それは祖父の愛用品だったテーブルで、この家に引っ越したと同時に譲られたもののひとつかな」
年季が入っていると思ったのは間違いなかった。手入れがきちんとされていて、部屋の顔になっている。
「それで紫緒さんの部屋はこっち。ゲストルームはふたつあるのだけど、水回りが併設されている方が気兼ねがないかと」
「ありがとうございます……って広い!」
十五畳くらいありそう。白い壁紙で統一された普通の部屋だけど、ペンダントライトはシンプルながらもオシャレだ。
ウォークインクローゼットもあって、トイレとユニットバスもついている。
「もうホテルですね?」
「冷蔵庫とかは置いてないけど。他に必要なものがあれば」
「いいえ、まったく問題ないです。ありがとうございます」
本当に気兼ねなく同居ができる環境が整っていた。自分専用の水回りがあるというのは大変ありがたい。
「壁紙やカーテンとか、好きに弄って大丈夫。紫緒さんはインテリアにこだわりがあるだろうから」
私、会社のことって話したっけ?
きっと言わなくても筒抜けなのだろう。私がどこの会社でなにをしているだけでなく、それこそもっと遡って出身地から学校のことと、交友関係まで。
セレブの名家と結婚することってこういうことでもあるんだろうな……そう心の中で呟きつつ、「簡単に張り直せる壁紙をアクセントで使うかもしれません」と伝えておいた。もちろんそれも自社ブランドだ。
家のツアーはまだ続く。
シアタールームと茶室まであったことに驚きだったけれど、なんだかもうよくわからない気持ちになっていた。
「一人暮らしですよね? 実は他の人が住んでいても気づかない可能性があるんじゃ」
「急に怖い話はやめてもらっていいですか」
だってめちゃくちゃ広いからつい。
この家は一体何平米あるんだろう。
「あらゆる可能性は考えておいた方がいいとは思いますけど、まあそれは置いておいて。お隣さんとはどこの壁が隣接してますか? 生活音って響きます?」
高級マンションなのだから防音対策もしっかりしているだろう。小型犬などのペットも飼育可能らしい。
「隣はいません」
「なるほど、空室なんですね」
「いいえ、このフロアは俺たちだけなので」
「……はい?」
まさかワンフロアが丸ごと私たちだけだとは思わなかった……急に身体が震えてくるんですが。
「ここ、賃貸だったらおいくらくらいで……」
「さあ? そんなことよりも、昼はお蕎麦にしましょうか。蕎麦アレルギーはないですよね?」
「ないですが、まさか清雅さんが作ってくれるんですか?」
「お蕎麦を茹でるくらいはできますよ。それか出前か、外に食べに行くのもいいですが」
引っ越し後にお蕎麦を勧めてくれるとは、なんというか律儀な人だわ。
そして先ほどから気になっていることがひとつ。
「清雅さん、口調が戻ってますよ」
それにさっき一人称が俺でしたね。
ずっと丁寧語というわけではなくて、ちゃんと親しい相手の前では砕けた口調で話せるみたいだ。
「……紫緒さんに釣られただけだ」
ふいっと視線を逸らされてしまったけど、気のせいじゃなければ少し照れていたように見えた。
◆ ◆ ◆
新生活がはじまって早くも十日が過ぎた。
一日有給を取得して、各種の名前と住所の変更手続きを終わらせた。パスポートは旧姓のままだけど、直近で海外に行く予定はないので余裕ができたときに対応したい。
正直、誰かと住むなんて十年ぶりくらいかもしれない。
家族以外と住むことははじめてなので、自分のストレス耐性がどの程度かもわからないでいた。家主にストレスを与えたくないので、私はなるべく完璧を貫くようになっていた。
基本的に家事は外部に委託しているという話で、清雅さんの服はクリーニングに出しているし、週に二回は掃除のプロが入ってくれる。そして普段から床はお掃除ロボットが徘徊しているので、掃除機をかける必要はない。
でもこれだけ綺麗な状態が保たれていると、少し汚れただけで気になるようになってしまった。
自分の髪の毛が落ちていたらすぐに拾って、床を汚さないように気を付ける癖ができていた。
他にもリビングやダイニングなどには私物を置かず、寝る前は必ず綺麗にリセットする。
毎日同じ光景になるように気を配り、観葉植物の土の渇き具合にまで気になるようになっていた。
本来の私は怠惰な人間だ。
家ではのんびり過ごしたいし、楽な部屋着でだらだらしたい。
でもきっちりしている清雅さんと住む以上、気に障ることはしたくないしだらしないスウェット姿は封印している。
見られても恥ずかしくない室内着用のワンピースを着用して、身だしなみをきちんと整えてから部屋を出る。もちろんメイクもした状態で、スッピンを晒すことはしない。
全部当たり前と言えば当たり前なのだけど、これでは常に緊張状態だ。職場と同じように振る舞うなんて神経が休まらないかもしれない。
清雅さんは多分本気で「部屋の汚れは心の乱れ」と思っていそうなので、彼はどんなときでも完璧である。
彼は週末関係なく毎日五時起きだ。
トイレと玄関掃除は欠かさないし、空気の入れ替えもきちんとしている。
「あの……私も、五時に起きた方が……?」と、同居二日目で確認したら、ただの日課なので気にしないでほしいと言われた。
でも正直めちゃくちゃ気になるんですが!
物音で起こされることはないけれど、週末でも早寝早起きって! 意識高すぎじゃない?
白藤家の方針か、清雅さんの性格によるものなのかはわからないけれど、彼はできるだけ自分でできる掃除は自分でしたい人らしい。それに「掃除は趣味なので」とも言い切った。
私、今まで生きてきて言ったことないよ……趣味が掃除だなんて。
五時に起きて日課の掃除をしたらランニングに行き、シャワーを浴びて身支度を整える。毎日分刻みで行動しているらしく、出勤前のタイムスケジュールが乱れたことはないらしい。
コーヒーを淹れるときは豆を丁寧に手動で挽いて、ゆっくり香りを堪能するところから始めるそうだ。インスタントのドリップコーヒーばかり飲んでいた私にはいろいろと眩しすぎた。
時間に追われてつい楽なものに手を出しがちなのは、単純に時間の使い方が下手だから。早起きすればいいだけなのかもしれない……。
綺麗好きな人と同居するということは、汚れに気を配るということである。
室内では髪の毛が落ちないようにクリップでまとめるようにして、キッチンのシンクに洗い物は溜めて置かずに片付ける。食洗器があるので楽ではあるけれど、ひとり暮らしの時以上に気を付けることが多い。
私、ずっと頑張れるだろうか……。
まだ同居がはじまったばかりだから神経を使っているかもしれない。
常にモデルルームのように部屋を完璧に保って、綺麗すぎて少し落ち着かない。
この日常に慣れなかったら、私は二年以内で別居しているかもしれない……部屋が散らかっているのは嫌だけど、物がなさすぎるのもソワソワする。
そして清雅さんの趣味は掃除だけではなかった。
彼は御曹司だけど料理もできて、朝ごはんは毎日七時に白米、お味噌汁と魚を必ず食べるのが日課だそうだ。
白米はブランドによって水に浸す時間を調整すると聞かされたときは、心の中でワーオ、と呟きそうになった。
もちろん引いているわけではないけれど、そこまでする? という純粋な驚きからである。
優しい彼は私の分も用意してくれるので、出勤には早いけど頑張って六時半には起床するようになっていた。
しっかりした朝食を作れる人は男女ともに尊敬する。
出汁が入ったふわふわの卵焼きをゆっくり味わいながら、すっかり見慣れてしまった契約書をチラ見した。
額縁に入ったそれは、まるでなにかの賞状みたいに棚の上にディスプレイされている。ドラフトの契約書を清書して、サインしたのが同居一日目のこと。
まさかそれがインテリアの一部になるとは考えたこともなかった。
「清雅さん、今夜の予定はありますか? 私は定時で上がれると思うので、もし家で食べられるようでしたらご一緒にいかがですか」
料理はレシピ通りに作れば失敗しないことを知っている。
私もやればできるのだけど、やる気スイッチが頻繁に迷子になるので自炊するときは気合が必要だ。
「ありがとう。今夜は会食もないから早く帰宅できるようにする」
こういう会話はちょっと新婚っぽい。甘い空気は流れていないけれど。
食器を食洗器にセットして、朝の支度を終えた。引っ越したおかげで通勤時間は短縮できて助かっている。
そして清雅さんは毎朝迎えの車に私を同乗させようとした。
「同じ方面に行くのだから乗って行ったらいい」
「いえ、私は電車で行くのでお構いなく」
「紫緒さんは変なところで頑固だな。昨日は俺が折れたのだから、今日は君が折れる番だと思う」
え? そういうルールだったの?
順番を主張されると断り辛い。
運転手であり、清雅さんの秘書をしている藤枝誠さんは、愉快そうに笑った。
「仲睦まじいようでなによりです。ところで若奥様、私は奥様におふたりの様子を報告するように命じられているのですが」
「藤枝さん、若奥様って呼び方は恥ずかしいのでやめてもらえますか……」
清雅さんの隣の後部座席に乗り込んだ。笑顔で脅されれば従うしかない。
ちなみに藤枝家は白藤の分家だそうだ。彼は清雅さんの親戚で、三十代前半のお兄さん。
清雅さんとは対照的に常に微笑んでいるので印象は柔らかいけれど、なにを考えているかはわからない人でもある。
「でも今だけですよ、若奥様って呼ばれるのも」
そうなの? そのうち奥様に昇格されるの?
名家の冗談なのかがわからず清雅さんに助けを求める。
「誠、紫緒さんは照れくさいんだそうだ。その呼び方は控えてあげるように」
「照れていたのですね。失礼しました。それでは私も紫緒さんとお呼びしても?」
「それはダメだ。別の呼び方を考えろ」
清雅さんの表情は変わらない。でも雰囲気で笑っている気がする。
「紫緒で構いませんので」と告げると、藤枝さんは私の名前を様付で呼んだ。
「様はちょっと……ぞわっとするのでやめていただけますか」
「難しい要望ですね。それでは、紫緒ちゃん」
「馴れ馴れしいからダメだ」
すかさず清雅さんが却下した。
私の呼び名は振り出しに戻り、無難に紫緒さんになった。
オフィスのすぐ近くの交差点で停めてもらい、人目を気にしながら車から降りた。ドアを閉める瞬間、タイミング悪く同期の若松と遭遇する。
「蓮水? お前、今日は車で出社?」
「っ! 誰かと思ったら若松か。おはよう」
扉を閉めて清雅さんたちに会釈をし、若松を車から引き離した。
「え、なに? まさかお前の旦那? ってか高級車じゃん」
「いいから、ちょっと見ないで」
普通の黒いセダンに見えるけど、新車のようにピカピカしている。有名なエンブレムも隠せない。
本当はもう少し手前で下ろしてもらおうと思っていたのに、完全に私のミスだ。
「旦那の顔、ちゃんと見損ねた」と何故か残念がっているが、そう簡単に清雅さんと会わせるつもりはない。
「あ、お前、後ろ振り向くなよ」
「なんで?」
「嫉妬深い後輩がこっち見てるぞ」
梅本さんか……まさか車から降りてくるところまで目撃されてないよね?
「あの子、早く彼氏作ってくれないかな……」
私を微妙に敵対視するのをやめてほしい。多分私生活が充実したら、私のことなんかどうでもよくなるタイプだろう。
さっきまでは気力が満タンだったのに、オフィスに到着するなりエネルギーが半減した気分になった。
◆ ◆ ◆
目に見える形で嫌がらせはされないけれど、微妙にとげとげしい視線を感じながら一日を終えた。職場の人間関係は、何故か仕事の取引先以上に気を遣う。
予定通り定時で仕事を終えて帰宅した。
スーパーの宅配サービスを利用しているため、自分で買い出しをする手間が省けるのは楽だ。冷蔵庫の食材は好きに使っていいと言われている。
「清雅さん、お昼はなにを食べたかな。多分和食だよね」
栄養管理は藤枝さんがきちんとしていそうだ。忙しいときはお弁当を注文しているとか。
十月に入ってもまだ秋の訪れは感じない。肌寒い季節に入ったら鍋料理もいいけれど、鍋の出番はもう少し先になりそうだ。
冷蔵庫に入っていた鶏ひき肉と海老を使って簡単なしゅうまいを作ることにした。レシピ通りの材料があったのと、せいろを使わなくても蒸し料理ができると知りやってみたくなった。
具材を細かく刻むまでが時間がかかるけれど、あとはまぜてこねて丸めて蒸すだけ。材料に干し椎茸と春雨も入れたので食感がよくなりそう。
蒸している間に玉子とわかめの中華風スープを作る。レタスと茹でたブロッコリーでサラダにして、冷やっこにはおろし生姜でさっぱりと。
「やればできる。頑張ったわ」
お米が焚きあがった頃、清雅さんが帰宅した。
「あ、お帰りなさい! ちょうどご飯ができましたよ」
「……ただいま」
いつも帰宅すると微妙に眉間に皺を刻んでいるのは照れている証拠らしい。私に出迎えられることがまだ慣れていないようだ。
着替えをしてもらっている間にテーブルセッティングをして、ふたり揃って食事をする。
「お口に合うかはわかりませんが」
「すごくおいしい」
よかった。食が進んでいるみたいでホッとした。
誰かに食べてもらえるとわかっていると、料理も苦ではないみたい。今までは自分だけのために作るから、あまり気が進まなかっただけのようだ。
最後まで完食してもらえると、なんだか達成感が出てくる。
「紫緒さんは料理が上手だな」と褒められたけれど、レシピのおかげです。
「そうだ、お茶淹れますね。この間もらった茶葉を仕舞ったような……」
同僚から結婚のお祝いにと、お茶のセットをいただいたのだ。かさばる箱に入っていたので、一旦吊戸棚に保管させてもらっていた。
踏み台に乗って取ろうとすると、清雅さんが心配そうに声をかける。
「それは俺が」
「え? 大丈夫ですって。ただの踏み台ですし……あっ」
使い慣れている踏み台なのに油断したらしい。不安定な体勢になり、身体がよろけそうになる。
「危ない!」
ぐらり、と身体が傾きかけた瞬間、逞しい胸に支えられた。
がっしりした腕と胸板の厚さが伝わってきて、私の心臓がドキッと跳ねる。
「油断するのは危険だ」
「……っ! すみません」
耳元で囁きを落とされた。心臓のドキドキが伝わってしまいそう。
……というか、本当に伝わっていないだろうか。
「あの、清雅さん。手が……」
むにゅ、と彼の片手が私の胸を掴んでいた。
男性に胸を触られたことは一度もなくて、心臓が大きく鼓動した。
さすがに予想外なトラブルには私も動揺する。
「……っ! す、すまない」
「わわっ」
彼が慌てて手を離した瞬間、身体はふたたびバランスを崩しそうになった。でもその前に清雅さんは素早く私を床に下ろしてくれた。
全身が熱い。急な接触は心臓に悪いし、顔が熱くて清雅さんの目を見られない。
清雅さんは土下座をしそうなほど声が沈んでいる。
「今のは痴漢行為だ。謝って許されるとは思っていない。申し訳ない」
「痴漢だなんて思っていませんからね! わざとじゃないですし全然嫌とか、不快だとか思ってないので。だから頭は下げないでください」
清雅さんはその場で正座をしたので、私も彼の真似をした。
何故かふたりしてキッチンの床に正座しているというのはシュールな光景かもしれない。
一緒に住んでいたらこのようなトラブルのひとつやふたつは起こり得るだろう。私の方は怪我をしなくて済んだので感謝しかない。
それに胸に触られたことの衝撃よりも、清雅さんが慌てる表情が珍しい。ついじっくり眺めたくなる。
眉根をギュッと寄せて羞恥を堪える美男子は、なんとも言えない色香を放っている。うっすら耳のてっぺんが赤い。
彼を見つめているだけで胸の奥がソワソワした気分になってきた。
「……紫緒さん」
「はい」
「踏み台と脚立は禁止にする」
「それは困ります」
「ひとりのときにうっかり転んで頭を打って帰らぬ人になったら俺が困る」
「考えすぎでは? 私は今までひとり暮らしでしたし、電球だって自分で交換していましたよ」
「これからは全部俺がやる。君がやる必要はない」
「でも、ほら、換気扇のフィルターの掃除とか」
「それこそ君がやる必要はないだろう」
掃除のプロに任せたらいいと言われたら、確かにその通りではある。
「家の中を見守りカメラでいっぱいにしたくないだろう?」と言われて、私は反射的に頷いていた。
「……しませんよね? そんなこと」
「俺もしたくはない。君のプライバシーは守りたいが不在中に倒れられる方が怖い」
「わかりました、乗りません。もう踏み台とか高いところには上らないので」
案外心配性なんだな、この人……と思いつつ、そろそろ足が痺れてきた。
「床は冷えるので、立ちませんか」と提案し、自主的な反省を終わらせることにした。
彼は立ち上がると、なにかを持って戻ってきた。
「これに好きな金額を記入してほしい」
「なにこれ? って、小切手⁉」
小切手なんか見たことがないんですが!
「いらない、いらないですよ! 受け取りませんからね!」
まさか慰謝料替わりの小切手を渡してくるなんて。この人は少々斜め上に暴走しがちではないか。
お金はいらないから、代わりに食後のお茶をお願いした。元々お茶を淹れようと思っていたのだ。
「わかった。紫緒さんは座って待ってて」
大人しくダイニングテーブルに着席して待っていたのだが……出てきたのは、立派な器に入ったお抹茶だった。
わざわざお茶を点ててくれたの?
これは上流階級のジョークでOK? 場を和ませるためにわざわざお茶を点てたとか……。
もしくは茶道の知識があるかを確かめられているのかもしれない。基本的な作法は白藤家では常識の可能性もある。
なにかを見極めるための試練だとしたら、清雅さんはなかなかに食わせ者では。
「わ、わあ……高そうな器ですね……」
「それは我が家に伝わる器のひとつだ」
そんな貴重なもので抹茶を点てないでください! 万が一割ったらと思うと肝が冷えそう!
私に茶道の知識はまったくない。器を右に回すのか、左に回すのかもわからない。
茶道は七菜香が点てるお茶を飲んだり、授業で少し齧った程度だ。目当ては和菓子だったので、作法はまったく覚えていない。
温くなる前に、私も適当に器を回して一口啜った。苦味の中に甘味もあって非常においしいけれど、緊張感の方が強い。
「おいしいです……結構なお手前で」
「よかった」
正直に言うと味はわからない。でも今ので大丈夫だったのだろうか。
抹茶を堪能するよりも緊張感の方が強くて、まったくリラックスできない……。
どうしよう。試練が多い。
私に二年間の同居はできるだろうか。
一緒に暮らし始めたばかりなのに、早くもめげそう。
とりあえず淹れたての抹茶は飲み干すべきだ。苦いけど。かなり苦いけど!
ちょびちょび飲んで、いい案を思いついた。
「清雅さん、アイス食べたくなりませんか?」
「アイス?」
「ええ、せっかく贅沢な抹茶があるので。ちょっと待っててください」
冷凍庫からバニラアイスを取り出した。疲れたときのご褒美スイーツとして、買いだめしておいてよかった。
カップの半分ほどをスプーンですくって、自分の器にアイスを入れた。
白藤家のご先祖様が見たら卒倒するかもしれなので、心の中で謝っておく。
「なるほど。抹茶アイスにするのか」
「もちろん清雅さんが点ててくれたお茶はおいしいけれど、少し甘味もほしいかなって」
もしも私が非常識な嫁で白藤家に相応しくないと判断されたら、それはそれで構わない。同居の解消が早まった方が双方のためになるかもしれない。
価値観の違いのひとつに抹茶アイスが入っていたら、ちょっと面白いかも……と思いつつ、彼に謝罪をする。
「でも先に清雅さんの許可を取るべきでしたね。すみません、せっかく私のためにお茶を点ててくれたのに、台無しにして」
「いや、構わない。ただ少し、驚いただけで」
上品なご令嬢としか接点がなかったら、私の行動は野蛮に見えただろう。
でも清雅さんは驚きつつも否定はしなかった。
彼は「斬新なアイディアだと思う」と呟いたので、彼にも抹茶アイスを勧めてみる。
「よかったらいかがですか? 甘いものが苦手じゃなければ」
すんなり頷いたので、溶けかけたアイスを未使用のスプーンですくって彼の器に入れてあげた。
「色合いが綺麗でしょう?」
「そうだな」
清雅さんは丁寧な所作で一口食べる。それを見守ってから、私も自分の抹茶アイスを味わった。
「想像通りすっごくおいしいです。苦味と甘味が絶妙」
「うん、おいしい」
よかった、気に入ったらしい。
無理やり私のペースに巻き込んで申し訳ないと思いつつ、食べやすくなった抹茶を平らげた。今度茶道のマナーを調べておこう。
そして今後の食後のお茶は私が担当することにしたのだった。
手袋を嵌めて仕事したい欲求を堪えていたら、出勤早々に隣に座る後輩、梅本さんが目敏く指輪に気づく。
「結婚指輪⁉」
「……っ!」
朝の挨拶よりもそれ?
心臓が跳ねたと同時に、出勤済みの同僚たちがざわつきだした。わらわらと私の周りに人が集まってくる。
「ちょっと蓮水先輩、まさか推しの指輪を外し忘れたんですかぁ? 痛々しいから早く外した方がいいですよ!」
それ、推し活をしている人を敵に回す発言では?
世の中には推しをイメージした指輪というものが売られており、一定の人気があるらしい。
私は推し活をしたことがないからわからないけれど、需要はあるのだろう。
微妙な空気が流れてしまった。
真相はどっちなのだと、同僚たちの目が問いかけている。
これは覚悟を決めて報告するしかない……。
「私事で恐縮ですが、先日入籍しました。まだ人事と柿澤さんにも報告ができていないのですが」
そう言ったところで拍手された。ちなみに柿澤さんとは私の直属の上司である。
「おめでとう!」と同僚にお祝いされると、なんだか非常に照れくさい。
罪悪感に似た感情もこみ上げてくるけれど、一般的には結婚っておめでたいことなんだった。
「へ、へえ……おめでとうございます」
梅本さんも一緒に拍手をしているけれど、目の奥が笑っていない。
化粧気もない、地味で冴えない女が私よりも早く結婚って! と思っているのがありありと伝わってくる。
でも私の相手は気になるらしい。
「旦那さんはどんな方なんですか? 出会いは? 名前はどうするんですか?」
すごくグイグイ来る!
面倒くさいので無難に公務員ってことにしておこう。出会いは知人の紹介で、名前は旧姓のまま仕事をすると告げる。
そういえば昨晩、清雅さんから名刺を受け取っていた。白藤グループの御三家とも呼ばれる白藤重工の専務だった。
就職先はくじ引きだったと言われたときは、冗談だよね? と思ったけれど。清雅さんが冗談を言うようには思えない。
『子供の頃はパイロットに憧れていたから、ジェットエンジンも扱う重工がいいと思っていた。我ながらいいくじ運だった』と、はにかみながら笑っていた。
孫の就職先をくじで引かせるって、清雅さんのおじい様である白藤の当主もなかなかすごい人である。うちの祖父と似たものを感じる。
「名前は? 蓮水さんがお相手の名前に変えられたんですか?」
同僚に尋ねられて一瞬考えたけれど、余計な嘘をつく方がややこしい。
「そうです。白藤になりました」
「素敵なお名前ですね」
「あれ? 白藤って、白藤グループと同じ名前ね」
余計なことに気づいたのは私の先輩の谷口さん。
梅本さんの目が光る前に否定する。
「ええ、偶然にも。遠い親戚だったら面白いのですが、残念ながら違うみたいで」
しれっと嘘をついて、皆さんに礼を言った。
後から来た上司の柿澤さんにも流れで報告すると、「先に言ってよ~! 僕だけ最後って!」って言われたけれど、すみません。こんなことになるとは想定していませんでした。
仕事を辞めるつもりがないことと、住所の変更があることを告げる。
これから運転免許証や銀行など、諸々の手続きを考えると気が遠くなりそう。
清雅さんは、そういう手続きは一緒にやると言ってくれたけれど、忙しい彼の手を煩わせたくはない。
十四日以内にすべての申請を終わらせるとなると、どこかで一日有給を使った方がいいかもしれない。
結婚って大変だわ……幸せいっぱいだけではないらしい。
仕事をして、帰宅したら引っ越し前の不用品を選別していたらあっという間に週末を迎えた。
大手の引っ越し業者まで白藤グループの傘下だった。私が知らないだけで、白藤グループの系列会社は多そうだ。
できればまったく関係ないところがよかったけれど、幸い私が清雅さんの妻とまでは知られていない。
貴重品は自分でまとめておいて、残りをすべて業者にお願いしたら驚くほど早く引っ越しが終わった。
そして清雅さんとの同居が開始した。
「今日からよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
てっきりタワーマンションの上層階に住んでいるのかと思っていたけれど、高級住宅街にある低層マンションにお住まいだった。
セキュリティ重視でコンシェルジュ付き。一階のラウンジには無料で利用できるカフェもあり、軽食を注文することも可能らしい。
大きな窓からは手入れが行き届いた緑が見えて、敷地内には薔薇も育てられているそう。プール付きのジムとサウナもあるとか。
ここ、賃貸だとひと月いくらするんだろう……私には犬小屋のようなスペースですら借りられないだろう。
「本当は蓮水邸のような日本家屋が好きなんだけど、一人暮らしで戸建てはいろいろと難しくて」
清雅さんはマンションを案内しながら呟いた。
確かに彼は神社仏閣がよく似合うし、蓮水の日本庭園もじっくり眺めていた。
「戸建ては管理が大変ですよね。セキュリティ面でもマンションの方がしっかりしているでしょうから」
一般人ならまだしも、白藤家のご長男という立場ではいろいろとまずいだろう。むしろこの人、よくひとり暮らしが許されているね? とも感じる。
そういえばこのマンション自体が清雅さんの不動産だっけ? お金持ちって次元が違いすぎてもうよくわからない……。
案内されたのは最上階のフロアだった。
居住している階にしかエレベーターが止まれないようになっているのはホテルみたいだ。
「扉はオートロックなので、部屋を出るときは鍵を忘れないように」
「あ、はい。承知しました」
「ところで紫緒さん。口調が他人行儀のままだ」
「……っ!」
なんとなく気づいていたけれど、清雅さんは宣言通り丁寧語をやめていた。
私はというと、まだ気恥ずかしいというか慣れないというか……。
「徐々に、とも言いましたよね?」
「うん、でも変化の兆しがないから」
じっと見下ろされると妙な威圧感がある。
綺麗なご尊顔を直視できないのですが……!
私が内心慌てていることなんてこの人は気づいていないだろう。なんとなく清雅さんは自分の顔がいいことに疎いというか、無自覚な気がする。
「頑張るので……! あまり見つめないでもらえたらと……!」
「何故? 今日の紫緒さんは、やはり平日とは印象が異なるんだなと思っていたのだけど」
「え、変ですか?」
週末なので髪は簡単に巻いて、ひとつにまとめている。
ONの日はアイライナーとマスカラを封印しているけれど、今日はOFFなのでしっかりまつ毛を上げて上下にマスカラを塗っていた。
「いいえ、華やかな化粧の方が紫緒さんらしくて素敵だと思う」
「……あ、ありがとうございます?」
真顔で褒められた?
じわじわと顔に熱が上がりそうだ。
褒めた自覚あがるのかわからない男は、平然と部屋の案内を始めた。
「シューズクローゼットの右側が空いているので、こちらをどうぞ。女性は靴が多いと思うので、足りなければ遠慮なく教えてほしい」
「お気遣いありがとうございます。この二段くらいで大丈夫かなと」
靴の断捨離を行っていてよかった……! 履き潰した靴とか、汚れた靴を清雅さんのピカピカに磨かれた靴と一緒に並べられない。
すでに玄関で心臓がドキドキしている。しかも入った瞬間から天井が高い。
「リビング、ダイニングとキッチンで、ここはパントリーエリア。飲み物類は常温で保管しているので、好きに飲んでほしい」
「ありがとうございます」
全体的に和を感じるインテリアだった。和モダンかつ北欧ミックスのジャパンディなインテリアはめちゃくちゃ落ち着く。
ダイニングテーブルの照明は数十万するブランドのものだし、この一枚板のテーブルは艶といい照りといい、とても味がある。
「ご実家から持ってきたのですか? このテーブル」
「それは祖父の愛用品だったテーブルで、この家に引っ越したと同時に譲られたもののひとつかな」
年季が入っていると思ったのは間違いなかった。手入れがきちんとされていて、部屋の顔になっている。
「それで紫緒さんの部屋はこっち。ゲストルームはふたつあるのだけど、水回りが併設されている方が気兼ねがないかと」
「ありがとうございます……って広い!」
十五畳くらいありそう。白い壁紙で統一された普通の部屋だけど、ペンダントライトはシンプルながらもオシャレだ。
ウォークインクローゼットもあって、トイレとユニットバスもついている。
「もうホテルですね?」
「冷蔵庫とかは置いてないけど。他に必要なものがあれば」
「いいえ、まったく問題ないです。ありがとうございます」
本当に気兼ねなく同居ができる環境が整っていた。自分専用の水回りがあるというのは大変ありがたい。
「壁紙やカーテンとか、好きに弄って大丈夫。紫緒さんはインテリアにこだわりがあるだろうから」
私、会社のことって話したっけ?
きっと言わなくても筒抜けなのだろう。私がどこの会社でなにをしているだけでなく、それこそもっと遡って出身地から学校のことと、交友関係まで。
セレブの名家と結婚することってこういうことでもあるんだろうな……そう心の中で呟きつつ、「簡単に張り直せる壁紙をアクセントで使うかもしれません」と伝えておいた。もちろんそれも自社ブランドだ。
家のツアーはまだ続く。
シアタールームと茶室まであったことに驚きだったけれど、なんだかもうよくわからない気持ちになっていた。
「一人暮らしですよね? 実は他の人が住んでいても気づかない可能性があるんじゃ」
「急に怖い話はやめてもらっていいですか」
だってめちゃくちゃ広いからつい。
この家は一体何平米あるんだろう。
「あらゆる可能性は考えておいた方がいいとは思いますけど、まあそれは置いておいて。お隣さんとはどこの壁が隣接してますか? 生活音って響きます?」
高級マンションなのだから防音対策もしっかりしているだろう。小型犬などのペットも飼育可能らしい。
「隣はいません」
「なるほど、空室なんですね」
「いいえ、このフロアは俺たちだけなので」
「……はい?」
まさかワンフロアが丸ごと私たちだけだとは思わなかった……急に身体が震えてくるんですが。
「ここ、賃貸だったらおいくらくらいで……」
「さあ? そんなことよりも、昼はお蕎麦にしましょうか。蕎麦アレルギーはないですよね?」
「ないですが、まさか清雅さんが作ってくれるんですか?」
「お蕎麦を茹でるくらいはできますよ。それか出前か、外に食べに行くのもいいですが」
引っ越し後にお蕎麦を勧めてくれるとは、なんというか律儀な人だわ。
そして先ほどから気になっていることがひとつ。
「清雅さん、口調が戻ってますよ」
それにさっき一人称が俺でしたね。
ずっと丁寧語というわけではなくて、ちゃんと親しい相手の前では砕けた口調で話せるみたいだ。
「……紫緒さんに釣られただけだ」
ふいっと視線を逸らされてしまったけど、気のせいじゃなければ少し照れていたように見えた。
◆ ◆ ◆
新生活がはじまって早くも十日が過ぎた。
一日有給を取得して、各種の名前と住所の変更手続きを終わらせた。パスポートは旧姓のままだけど、直近で海外に行く予定はないので余裕ができたときに対応したい。
正直、誰かと住むなんて十年ぶりくらいかもしれない。
家族以外と住むことははじめてなので、自分のストレス耐性がどの程度かもわからないでいた。家主にストレスを与えたくないので、私はなるべく完璧を貫くようになっていた。
基本的に家事は外部に委託しているという話で、清雅さんの服はクリーニングに出しているし、週に二回は掃除のプロが入ってくれる。そして普段から床はお掃除ロボットが徘徊しているので、掃除機をかける必要はない。
でもこれだけ綺麗な状態が保たれていると、少し汚れただけで気になるようになってしまった。
自分の髪の毛が落ちていたらすぐに拾って、床を汚さないように気を付ける癖ができていた。
他にもリビングやダイニングなどには私物を置かず、寝る前は必ず綺麗にリセットする。
毎日同じ光景になるように気を配り、観葉植物の土の渇き具合にまで気になるようになっていた。
本来の私は怠惰な人間だ。
家ではのんびり過ごしたいし、楽な部屋着でだらだらしたい。
でもきっちりしている清雅さんと住む以上、気に障ることはしたくないしだらしないスウェット姿は封印している。
見られても恥ずかしくない室内着用のワンピースを着用して、身だしなみをきちんと整えてから部屋を出る。もちろんメイクもした状態で、スッピンを晒すことはしない。
全部当たり前と言えば当たり前なのだけど、これでは常に緊張状態だ。職場と同じように振る舞うなんて神経が休まらないかもしれない。
清雅さんは多分本気で「部屋の汚れは心の乱れ」と思っていそうなので、彼はどんなときでも完璧である。
彼は週末関係なく毎日五時起きだ。
トイレと玄関掃除は欠かさないし、空気の入れ替えもきちんとしている。
「あの……私も、五時に起きた方が……?」と、同居二日目で確認したら、ただの日課なので気にしないでほしいと言われた。
でも正直めちゃくちゃ気になるんですが!
物音で起こされることはないけれど、週末でも早寝早起きって! 意識高すぎじゃない?
白藤家の方針か、清雅さんの性格によるものなのかはわからないけれど、彼はできるだけ自分でできる掃除は自分でしたい人らしい。それに「掃除は趣味なので」とも言い切った。
私、今まで生きてきて言ったことないよ……趣味が掃除だなんて。
五時に起きて日課の掃除をしたらランニングに行き、シャワーを浴びて身支度を整える。毎日分刻みで行動しているらしく、出勤前のタイムスケジュールが乱れたことはないらしい。
コーヒーを淹れるときは豆を丁寧に手動で挽いて、ゆっくり香りを堪能するところから始めるそうだ。インスタントのドリップコーヒーばかり飲んでいた私にはいろいろと眩しすぎた。
時間に追われてつい楽なものに手を出しがちなのは、単純に時間の使い方が下手だから。早起きすればいいだけなのかもしれない……。
綺麗好きな人と同居するということは、汚れに気を配るということである。
室内では髪の毛が落ちないようにクリップでまとめるようにして、キッチンのシンクに洗い物は溜めて置かずに片付ける。食洗器があるので楽ではあるけれど、ひとり暮らしの時以上に気を付けることが多い。
私、ずっと頑張れるだろうか……。
まだ同居がはじまったばかりだから神経を使っているかもしれない。
常にモデルルームのように部屋を完璧に保って、綺麗すぎて少し落ち着かない。
この日常に慣れなかったら、私は二年以内で別居しているかもしれない……部屋が散らかっているのは嫌だけど、物がなさすぎるのもソワソワする。
そして清雅さんの趣味は掃除だけではなかった。
彼は御曹司だけど料理もできて、朝ごはんは毎日七時に白米、お味噌汁と魚を必ず食べるのが日課だそうだ。
白米はブランドによって水に浸す時間を調整すると聞かされたときは、心の中でワーオ、と呟きそうになった。
もちろん引いているわけではないけれど、そこまでする? という純粋な驚きからである。
優しい彼は私の分も用意してくれるので、出勤には早いけど頑張って六時半には起床するようになっていた。
しっかりした朝食を作れる人は男女ともに尊敬する。
出汁が入ったふわふわの卵焼きをゆっくり味わいながら、すっかり見慣れてしまった契約書をチラ見した。
額縁に入ったそれは、まるでなにかの賞状みたいに棚の上にディスプレイされている。ドラフトの契約書を清書して、サインしたのが同居一日目のこと。
まさかそれがインテリアの一部になるとは考えたこともなかった。
「清雅さん、今夜の予定はありますか? 私は定時で上がれると思うので、もし家で食べられるようでしたらご一緒にいかがですか」
料理はレシピ通りに作れば失敗しないことを知っている。
私もやればできるのだけど、やる気スイッチが頻繁に迷子になるので自炊するときは気合が必要だ。
「ありがとう。今夜は会食もないから早く帰宅できるようにする」
こういう会話はちょっと新婚っぽい。甘い空気は流れていないけれど。
食器を食洗器にセットして、朝の支度を終えた。引っ越したおかげで通勤時間は短縮できて助かっている。
そして清雅さんは毎朝迎えの車に私を同乗させようとした。
「同じ方面に行くのだから乗って行ったらいい」
「いえ、私は電車で行くのでお構いなく」
「紫緒さんは変なところで頑固だな。昨日は俺が折れたのだから、今日は君が折れる番だと思う」
え? そういうルールだったの?
順番を主張されると断り辛い。
運転手であり、清雅さんの秘書をしている藤枝誠さんは、愉快そうに笑った。
「仲睦まじいようでなによりです。ところで若奥様、私は奥様におふたりの様子を報告するように命じられているのですが」
「藤枝さん、若奥様って呼び方は恥ずかしいのでやめてもらえますか……」
清雅さんの隣の後部座席に乗り込んだ。笑顔で脅されれば従うしかない。
ちなみに藤枝家は白藤の分家だそうだ。彼は清雅さんの親戚で、三十代前半のお兄さん。
清雅さんとは対照的に常に微笑んでいるので印象は柔らかいけれど、なにを考えているかはわからない人でもある。
「でも今だけですよ、若奥様って呼ばれるのも」
そうなの? そのうち奥様に昇格されるの?
名家の冗談なのかがわからず清雅さんに助けを求める。
「誠、紫緒さんは照れくさいんだそうだ。その呼び方は控えてあげるように」
「照れていたのですね。失礼しました。それでは私も紫緒さんとお呼びしても?」
「それはダメだ。別の呼び方を考えろ」
清雅さんの表情は変わらない。でも雰囲気で笑っている気がする。
「紫緒で構いませんので」と告げると、藤枝さんは私の名前を様付で呼んだ。
「様はちょっと……ぞわっとするのでやめていただけますか」
「難しい要望ですね。それでは、紫緒ちゃん」
「馴れ馴れしいからダメだ」
すかさず清雅さんが却下した。
私の呼び名は振り出しに戻り、無難に紫緒さんになった。
オフィスのすぐ近くの交差点で停めてもらい、人目を気にしながら車から降りた。ドアを閉める瞬間、タイミング悪く同期の若松と遭遇する。
「蓮水? お前、今日は車で出社?」
「っ! 誰かと思ったら若松か。おはよう」
扉を閉めて清雅さんたちに会釈をし、若松を車から引き離した。
「え、なに? まさかお前の旦那? ってか高級車じゃん」
「いいから、ちょっと見ないで」
普通の黒いセダンに見えるけど、新車のようにピカピカしている。有名なエンブレムも隠せない。
本当はもう少し手前で下ろしてもらおうと思っていたのに、完全に私のミスだ。
「旦那の顔、ちゃんと見損ねた」と何故か残念がっているが、そう簡単に清雅さんと会わせるつもりはない。
「あ、お前、後ろ振り向くなよ」
「なんで?」
「嫉妬深い後輩がこっち見てるぞ」
梅本さんか……まさか車から降りてくるところまで目撃されてないよね?
「あの子、早く彼氏作ってくれないかな……」
私を微妙に敵対視するのをやめてほしい。多分私生活が充実したら、私のことなんかどうでもよくなるタイプだろう。
さっきまでは気力が満タンだったのに、オフィスに到着するなりエネルギーが半減した気分になった。
◆ ◆ ◆
目に見える形で嫌がらせはされないけれど、微妙にとげとげしい視線を感じながら一日を終えた。職場の人間関係は、何故か仕事の取引先以上に気を遣う。
予定通り定時で仕事を終えて帰宅した。
スーパーの宅配サービスを利用しているため、自分で買い出しをする手間が省けるのは楽だ。冷蔵庫の食材は好きに使っていいと言われている。
「清雅さん、お昼はなにを食べたかな。多分和食だよね」
栄養管理は藤枝さんがきちんとしていそうだ。忙しいときはお弁当を注文しているとか。
十月に入ってもまだ秋の訪れは感じない。肌寒い季節に入ったら鍋料理もいいけれど、鍋の出番はもう少し先になりそうだ。
冷蔵庫に入っていた鶏ひき肉と海老を使って簡単なしゅうまいを作ることにした。レシピ通りの材料があったのと、せいろを使わなくても蒸し料理ができると知りやってみたくなった。
具材を細かく刻むまでが時間がかかるけれど、あとはまぜてこねて丸めて蒸すだけ。材料に干し椎茸と春雨も入れたので食感がよくなりそう。
蒸している間に玉子とわかめの中華風スープを作る。レタスと茹でたブロッコリーでサラダにして、冷やっこにはおろし生姜でさっぱりと。
「やればできる。頑張ったわ」
お米が焚きあがった頃、清雅さんが帰宅した。
「あ、お帰りなさい! ちょうどご飯ができましたよ」
「……ただいま」
いつも帰宅すると微妙に眉間に皺を刻んでいるのは照れている証拠らしい。私に出迎えられることがまだ慣れていないようだ。
着替えをしてもらっている間にテーブルセッティングをして、ふたり揃って食事をする。
「お口に合うかはわかりませんが」
「すごくおいしい」
よかった。食が進んでいるみたいでホッとした。
誰かに食べてもらえるとわかっていると、料理も苦ではないみたい。今までは自分だけのために作るから、あまり気が進まなかっただけのようだ。
最後まで完食してもらえると、なんだか達成感が出てくる。
「紫緒さんは料理が上手だな」と褒められたけれど、レシピのおかげです。
「そうだ、お茶淹れますね。この間もらった茶葉を仕舞ったような……」
同僚から結婚のお祝いにと、お茶のセットをいただいたのだ。かさばる箱に入っていたので、一旦吊戸棚に保管させてもらっていた。
踏み台に乗って取ろうとすると、清雅さんが心配そうに声をかける。
「それは俺が」
「え? 大丈夫ですって。ただの踏み台ですし……あっ」
使い慣れている踏み台なのに油断したらしい。不安定な体勢になり、身体がよろけそうになる。
「危ない!」
ぐらり、と身体が傾きかけた瞬間、逞しい胸に支えられた。
がっしりした腕と胸板の厚さが伝わってきて、私の心臓がドキッと跳ねる。
「油断するのは危険だ」
「……っ! すみません」
耳元で囁きを落とされた。心臓のドキドキが伝わってしまいそう。
……というか、本当に伝わっていないだろうか。
「あの、清雅さん。手が……」
むにゅ、と彼の片手が私の胸を掴んでいた。
男性に胸を触られたことは一度もなくて、心臓が大きく鼓動した。
さすがに予想外なトラブルには私も動揺する。
「……っ! す、すまない」
「わわっ」
彼が慌てて手を離した瞬間、身体はふたたびバランスを崩しそうになった。でもその前に清雅さんは素早く私を床に下ろしてくれた。
全身が熱い。急な接触は心臓に悪いし、顔が熱くて清雅さんの目を見られない。
清雅さんは土下座をしそうなほど声が沈んでいる。
「今のは痴漢行為だ。謝って許されるとは思っていない。申し訳ない」
「痴漢だなんて思っていませんからね! わざとじゃないですし全然嫌とか、不快だとか思ってないので。だから頭は下げないでください」
清雅さんはその場で正座をしたので、私も彼の真似をした。
何故かふたりしてキッチンの床に正座しているというのはシュールな光景かもしれない。
一緒に住んでいたらこのようなトラブルのひとつやふたつは起こり得るだろう。私の方は怪我をしなくて済んだので感謝しかない。
それに胸に触られたことの衝撃よりも、清雅さんが慌てる表情が珍しい。ついじっくり眺めたくなる。
眉根をギュッと寄せて羞恥を堪える美男子は、なんとも言えない色香を放っている。うっすら耳のてっぺんが赤い。
彼を見つめているだけで胸の奥がソワソワした気分になってきた。
「……紫緒さん」
「はい」
「踏み台と脚立は禁止にする」
「それは困ります」
「ひとりのときにうっかり転んで頭を打って帰らぬ人になったら俺が困る」
「考えすぎでは? 私は今までひとり暮らしでしたし、電球だって自分で交換していましたよ」
「これからは全部俺がやる。君がやる必要はない」
「でも、ほら、換気扇のフィルターの掃除とか」
「それこそ君がやる必要はないだろう」
掃除のプロに任せたらいいと言われたら、確かにその通りではある。
「家の中を見守りカメラでいっぱいにしたくないだろう?」と言われて、私は反射的に頷いていた。
「……しませんよね? そんなこと」
「俺もしたくはない。君のプライバシーは守りたいが不在中に倒れられる方が怖い」
「わかりました、乗りません。もう踏み台とか高いところには上らないので」
案外心配性なんだな、この人……と思いつつ、そろそろ足が痺れてきた。
「床は冷えるので、立ちませんか」と提案し、自主的な反省を終わらせることにした。
彼は立ち上がると、なにかを持って戻ってきた。
「これに好きな金額を記入してほしい」
「なにこれ? って、小切手⁉」
小切手なんか見たことがないんですが!
「いらない、いらないですよ! 受け取りませんからね!」
まさか慰謝料替わりの小切手を渡してくるなんて。この人は少々斜め上に暴走しがちではないか。
お金はいらないから、代わりに食後のお茶をお願いした。元々お茶を淹れようと思っていたのだ。
「わかった。紫緒さんは座って待ってて」
大人しくダイニングテーブルに着席して待っていたのだが……出てきたのは、立派な器に入ったお抹茶だった。
わざわざお茶を点ててくれたの?
これは上流階級のジョークでOK? 場を和ませるためにわざわざお茶を点てたとか……。
もしくは茶道の知識があるかを確かめられているのかもしれない。基本的な作法は白藤家では常識の可能性もある。
なにかを見極めるための試練だとしたら、清雅さんはなかなかに食わせ者では。
「わ、わあ……高そうな器ですね……」
「それは我が家に伝わる器のひとつだ」
そんな貴重なもので抹茶を点てないでください! 万が一割ったらと思うと肝が冷えそう!
私に茶道の知識はまったくない。器を右に回すのか、左に回すのかもわからない。
茶道は七菜香が点てるお茶を飲んだり、授業で少し齧った程度だ。目当ては和菓子だったので、作法はまったく覚えていない。
温くなる前に、私も適当に器を回して一口啜った。苦味の中に甘味もあって非常においしいけれど、緊張感の方が強い。
「おいしいです……結構なお手前で」
「よかった」
正直に言うと味はわからない。でも今ので大丈夫だったのだろうか。
抹茶を堪能するよりも緊張感の方が強くて、まったくリラックスできない……。
どうしよう。試練が多い。
私に二年間の同居はできるだろうか。
一緒に暮らし始めたばかりなのに、早くもめげそう。
とりあえず淹れたての抹茶は飲み干すべきだ。苦いけど。かなり苦いけど!
ちょびちょび飲んで、いい案を思いついた。
「清雅さん、アイス食べたくなりませんか?」
「アイス?」
「ええ、せっかく贅沢な抹茶があるので。ちょっと待っててください」
冷凍庫からバニラアイスを取り出した。疲れたときのご褒美スイーツとして、買いだめしておいてよかった。
カップの半分ほどをスプーンですくって、自分の器にアイスを入れた。
白藤家のご先祖様が見たら卒倒するかもしれなので、心の中で謝っておく。
「なるほど。抹茶アイスにするのか」
「もちろん清雅さんが点ててくれたお茶はおいしいけれど、少し甘味もほしいかなって」
もしも私が非常識な嫁で白藤家に相応しくないと判断されたら、それはそれで構わない。同居の解消が早まった方が双方のためになるかもしれない。
価値観の違いのひとつに抹茶アイスが入っていたら、ちょっと面白いかも……と思いつつ、彼に謝罪をする。
「でも先に清雅さんの許可を取るべきでしたね。すみません、せっかく私のためにお茶を点ててくれたのに、台無しにして」
「いや、構わない。ただ少し、驚いただけで」
上品なご令嬢としか接点がなかったら、私の行動は野蛮に見えただろう。
でも清雅さんは驚きつつも否定はしなかった。
彼は「斬新なアイディアだと思う」と呟いたので、彼にも抹茶アイスを勧めてみる。
「よかったらいかがですか? 甘いものが苦手じゃなければ」
すんなり頷いたので、溶けかけたアイスを未使用のスプーンですくって彼の器に入れてあげた。
「色合いが綺麗でしょう?」
「そうだな」
清雅さんは丁寧な所作で一口食べる。それを見守ってから、私も自分の抹茶アイスを味わった。
「想像通りすっごくおいしいです。苦味と甘味が絶妙」
「うん、おいしい」
よかった、気に入ったらしい。
無理やり私のペースに巻き込んで申し訳ないと思いつつ、食べやすくなった抹茶を平らげた。今度茶道のマナーを調べておこう。
そして今後の食後のお茶は私が担当することにしたのだった。