堅物マジメな御曹司は契約妻にひたすら隠した溺愛を解き放つ~円満離婚はもう無理だ~
第四章
週明けの朝。
清雅さんは私の首に買ったばかりのペンダントをつけてくれた。
「できるだけ毎日つけるように」と言った真意はわからないけれど、無駄に私の心臓はドキドキして落ち着かなくなった。
男性が女性にジュエリーを贈る心理って一体なんだろう。
ネックレスの類は独占欲の証とか? なんて考えながら仕事をしていたけれど、あの清雅さんにそんな欲望があるとは思えない。
夫としての役割を完璧にこなしたいと思っていそうだから、その延長線で私にプレゼントしてくれたんじゃないかな……白藤の嫁として、身に着けるものにも気を配ってほしいとか。
それなら私、洋服にもっと気を付けた方がいいんだろうか。
ファッションは好きだけど会社に行くときは地味で目立たない恰好にしているし、土日しかオシャレはしていない。
着古した印象のある洋服はすべて断捨離しよう。清雅さんの隣を歩いても恥ずかしくない恰好でいなくては。
あとデートのお礼を考えたい。かかった費用の半分は受け取ってもらえないだろうから、なにか別の方法で。
とはいえ、私にできることってなんだろう?
朝ごはんは清雅さんの厚意に甘えて作ってもらっているけれど、一応夕飯は私が頑張っている。やっぱりご飯は誰かと一緒に食べた方がおいしいし、きちんと彼の食の好みも把握したいと思っていた。
同居当初は、綺麗好きで真面目な清雅さんとの暮らしは息が詰まるかと思っていたけれど、いつの間にか苦手意識が薄れたみたいだ。
彼はちょっと天然なだけだ。
不意打ちの微笑は心臓に悪いけれど、見たくないわけではない。喜んでもらえることがあれば積極的にしていきたいと思っている。
この日も少しだけ残業してから仕事を切り上げて、スーパーに寄ってから帰宅した。
タコのカルパッチョ、真鯛のムニエル、アスパラときのこのソテーまで作ったら、白ワインもあけたくなってきた。
まだ火曜日だけど、たまには平日にお酒を飲んでもいいかな。
「魚はムニエルにしちゃったけど、これはバゲットの方が合いそう」
清雅さんはパンよりお米派だろう。お米も炊飯器にセットして、余った分は明日のお弁当用に回すことにする。
一口モッツァレラチーズとプチトマトをオリーブオイル、塩コショウで和えている間に、清雅さんが帰宅した。
「ただいま」
「お帰り、清雅さん! なんかつまみ系ばっかり作っちゃったから、白ワイン飲まない? それか日本酒かビールか」
ダイニングテーブルに並んだものを見て、清雅さんは「おいしそうだな」と褒めてくれた。
この家にあるお皿がオシャレなので、私の適当な盛り付けもそれなりに見える。
「平日の夜にこれだけ作るのは大変じゃないか」
着替えてきた清雅さんに無理はしなくていいと言われた。
ひとり暮らしのときは正直あまり料理をする気が起きなかったけれど、誰かと一緒に食べると思うとあまり苦ではない。
「結構気分転換になってるみたいで、それほど大変じゃないよ。切っただけ、焼いただけのものも多いから」
後片付けは食洗器がやってくれるので、そこは存分に活用させてもらう。
ムニエルにはレモンをかけてさっぱりと。
チーズとトマトのマリネにはアボカドも入れたかったけれど、アボカド選びは難しい。ガチャに外れる可能性が高いので、ちょっと手が出せなかった。
冷やしてある白ワインは清雅さんに開けてもらった。手際よくコルクを開けられる男性ってなんだかかっこよく見える。
グラスに注がれたワインを堪能する。
「フルーティーでおいしい。さっぱりしてる」
「紫緒の手料理もすごくおいしい。作ってくれてありがとう」
「どういたしまして。お口に合ってなによりです」
直球に褒められると照れくさい。
あと私が作ったご飯を食べてくれるのは純粋にうれしくて、なんだか胸の奥がくすぐったく感じた。
「そういえば清雅さんってお酒はどのくらい飲めるの? 嗜む程度?」
「外ではあまり飲まないからわからないな。酔ってもふわふわする程度だと思うが」
ふわふわする清雅さん。ちょっと気になるし見てみたい。
「ワイングラス二杯以上は飲まないようにしている」
「私は二本飲んだら酔ったって思うかな」
「……二本?」
余計なことを言ったかもしれない。
適当に誤魔化しつつお米があることも告げる。締めにお茶漬けもいいかもしれない。
いつ見ても所作が美しい清雅さんは、食事中も背筋をピンと伸ばしていた。
私と向かい合わせでワインを飲んでいる姿は絵になるけれど、なんというか堅い。
「すごく差し出がましいことを言うけれど、ここは清雅さんの家なんだからもう少し肩の力を抜いてもいいと思う」
「どういう意味だ?」
無自覚らしい。
スーツは脱いでいるけれど、家でも会食をしているような空気感がある。常にピンと糸が張り詰めた状態を維持するってしんどくないのかな。
「私はファッションやメイクでONとOFFを切り替えて、限りなくストレスフリーに生きたいって思っているのだけど。清雅さんはずっとONの状態に見えるなって。誰の目に映っても常に完璧で、気が抜けていない状態というか。リラックスできているのかちょっと心配、です」
本当、差し出がましいことを言っている自覚はあるのだけど。誰かの指摘で気づけることもあると思う。
彼は静かになにかを考えこんだ。気分を害した様子はないので少し安心する。
「……OFFの切り替えってどうやるんだ。具体的にはなにをしたらリラックスできるのだろうか」
大真面目な顔で尋ねられた。
彼はそもそも切り替えの概念がなかったらしい。
三十年生きてきてリラックスの方法を知らない人がいるとは……そういう家庭環境じゃなかったとしたら、少し切ない。
「清雅さん、ご趣味は? 好きなものは? なにをしているときが安らげて、どういうときに楽しいって感じる?」
お見合いで訊くような質問が口から零れる。
一緒に住み始めて少しずつ彼の好みを把握できるようになったけれど、直接本人から聞いたことはないかもしれない。
「……趣味とは、自由時間があるときに自主的にする行為で合っているなら、読書、茶道と弓道を少々」
趣味をそんな堅苦しい言い方にした人ははじめてだけど、念のためもう少し探りを入れる。
「読書はどんなものを? 歴史やミステリー小説とか? ちなみに私は推理ができないのでほとんどキャラ読みかな」
「ここ数年は語学や経済の本ばかりだな。特に言語は使わないと衰えるから」
……それって仕事の延長線では?
話を聞いていたら、茶道と弓道は特技だとわかった。弓道は精神を鍛えるためにやっているらしい。
意識が高すぎて、こうして一緒に食事をしていることが不思議に思えてきたわ。
「それは好きなことに入るの?」と問いかけたら、彼は考えこんでしまった。
「好きかどうかで考えたことはないから、好きなのかはわからない」
なるほど、理解できたかもしれない。
この人は一見優等生で隙のない御曹司だけど、真面目で天然でちょっとズレてて、不器用な人なのだろう。
なんでもそつなくこなせて器用なんだけど、生き方が不器用で本人は無自覚。なんだか私の姉心に火がつきそうだ。
「私が清雅さんにアドバイスをするなんておこがましいことだけど、一緒に住んでいる相棒というか、契約妻として言わせてもらうなら、仕事とプライベートの切り替えを身につけましょう。ずっと仕事モードでON状態はストレスが溜まるから、リラックス方法も探そう」
クラシックやオペラのコンサートに行くと言っていたから音楽は嫌いじゃないのだろう。チケットを貰って付き合いで行くのだとしても、音楽の興味はちゃんとあるらしい。
「知らないうちにストレスをため込んで、睡眠障害とか胃腸が弱ることもあるから。仕事のパフォーマンスの向上にもストレスは大敵です。簡単なリラックス方法からはじめるのはどうでしょう?」
「それは、たとえばなにをしたらいいんだ。君のおすすめは?」
清雅さんのいいところは、こうして素直に相手の話を聞いてくれることだ。
否定から入らず、耳を傾けてくれるところに信頼を感じる。
「いきなり生活リズムを変えるのはストレスになりそうなので、たとえば毎日入浴剤入りのお風呂に浸かって、お風呂中に音楽を流すとか、寝る前にアロマを炊くとか。あ、寝室にプロジェクターを買って、天井に投影してなんちゃってプラネタリウムもすごくいいかも」
私はしたことないけれど、SNSを見ていたらプロジェクターで寝室をプラネタリウムにしている人も結構いるみたい。すごくリラックスして眠れそうだ。
清雅さんの空いたグラスにワインを注ぐ。私も話していたら喉が渇いてきた。
「あとは肩の力をストンと落として、ご実家ではだらしない、お行儀が悪いって怒られそうなことをやってみるとか」
「それってどんなことだ?」
いきなり言われると思いつかないな……ソファに寝転んで漫画を読んだり、こたつに生息したり? この家にこたつはないだろうけど。
「ソファに寝転ぶ……子供の時しかしたことがないな」
「うっそ、そこから?」
「ああ。でも、なるほど。少し理解できた。先日の抹茶アイスは驚いた。あれは実家ではできないことだった」
清雅さんが思い出し笑いをした。
そのレアな笑顔に思わず見惚れる。
かっこいいのに可愛いって最強では?
不意に見せる微笑みの破壊力は一体なんなの。毎回私の心臓が急に騒がしくなって困るんですが!
自分の失態を思い出して恥ずかしくなってきたからか、身体がちょっと熱い。
「まあ、そういう感じで。ストレスフリーに生きましょうね」
「努力しよう」
この人の肩から力が抜けたら、どんな新しい表情が見られるのだろう。
ワクワクとドキドキと、これ以上清雅さんの沼にハマったら困りそうという感情が混ざり合う。
そう、多分これは推しを見つけたときの感情に似ているのではないか。
未知の沼を発見して、片足を突っ込んでみたら予想外に深くて戸惑っているというか……清雅さんのことをもっと知りたくなっている。
でも片足だけに留めておかないと大変なことになりそう。二年後に円満離婚をすることが決まっているのだから。
清雅さんが二杯目のグラスを飲み終えた頃、彼の目がとろんと熱を帯びていた。よく見たら頬もほんのり赤くなっている。
まさか二杯で酔っちゃった? そんなに量は注がなかったんだけど。
「お水用意するね」と、席を立ったら、清雅さんにパシッと手を握られた。
「え?」
握られた手が温かい。お酒で酔いが回っているのかもしれない。
「どこに行くの」
「キッチンに……」
「嫌だ。俺の傍に居て」
「……っ⁉」
手を引き寄せられて、清雅さんの膝に座らされた。
そのまま後ろからハグをされて、私のお腹の上に彼の腕が回っている。
なに、この状況?
急なスキンシップは心臓に悪いのですが?
「清雅さん、まさか酔ってる?」
「酔ってない」
「酔っ払いはみんな酔ってないって言うから、酔ってると思うわ」
肩に重みを感じた。彼の頭が乗っているようだ。
バックハグされて膝に乗せられたら、私まで酔いが回りそうなのですが!
これは意図的なの? 無意識なの?
「あの、清雅さん?」
戸惑いながら彼の名前を呼んだ。一体どんな顔で私を抱きしめているのかわからないけれど、無自覚の行動だったら恐ろしい。
「紫緒、週末のデート楽しかった」
「……!」
ギュッと抱きしめられながら耳元で囁かれると、背筋にぞわぞわした震えが駆け巡る。それが嫌なものではないから非常に困る。
「私も……同じ気持ちです」
背後で顔を見られなくてよかったかもしれない。急に身体の奥から熱が上昇してうまく顔を合わせられそうにない。
「またこうして、手を繋いでもいいか」
「……っ!」
手を取られて、指を絡められた。この状況で恋人繋ぎをされて、嫌だと言える人はいないと思う。
「ダメか?」
先ほどよりも声のトーンが落ちている。
私は慌てて「全然ダメじゃない!」と答えていた。
彼は酔うと本心が駄々洩れになるのかもしれない。このおねだりも願望だとしたら、なんだかもう胸がキュンキュンしてくる。
「私の手でよければいつでも貸しますので。遠慮なくどうぞ」
もう片方の手で清雅さんの手を握る。彼の手の温もりが気持ちよくて、一度知ってしまったら離れがたくなりそう。
「ふふ、ありがとう」
清雅さんは私の片手を取ると、自身の頬へ導いた。
思わず後ろを振り返り、彼の顔を至近距離から眺める。
ふわりと微笑んだ表情と、潤んだ瞳に息を呑んだ。吐息に色香が混じっていて、私はしばし呼吸を忘れて清雅さんを見つめる。
この人は酔うとこんな風に色気が駄々洩れになるの? 無防備すぎて心配になるんですが!
「紫緒、顔が赤い」
この状況で赤くならない女性がいたら連れてきてほしい。羞恥心だけじゃなくて、なんだかいろんな感情が刺激されている。
「清雅さんっ! 外ではお酒は控えましょう。飲んでも一杯だけって約束して」
飲まないでって言っても付き合いがあるだろうし、私にそこまで口を出されたくないかもしれない。
でもこんな風になる清雅さんを見過ごすわけには……!
「それなら紫緒も約束して。俺以外の男の前ではお酒を飲まないでほしい」
「私も? 私は滅多に酔わないけれど……」
「酔わなくても嫌だ。赤くなった可愛い顔を他の男に見せないで」
「か、かわ……っ⁉」
顔が赤いのは清雅さんのせいだよ……と、心の中で詰る。
急に可愛いなんて言われたらさらに顔が真っ赤になりそう。
「約束して」
再度懇願されて、私はこくこくと頷いた。男性とふたりきりのときはお酒を飲まないことを誓う。
息をしたら清雅さんのフェロモンを吸い込むだろう。
小指をキュッと絡められた。まるで約束の証みたいだ。
「あの、そろそろ下ろして……」
「まだダメ」
「でも重いので……」
「重くない」
押し問答をする間も手の温もりは離れない。
手を通して私のドキドキまで伝わってしまうのではないかと思っていた。
◆ ◆ ◆
限りなく好きに近いこの感情はなんて呼ぶのだろう。
そもそも恋心とは、自分で認めなければ恋ではないのではないか。
契約夫を推しに認定するのもマズいと思う。より関係が複雑化されるし、適切な距離感が保てなくなるだろう。
「紫緒、急なんだけど日曜日の予定は空いてる?」
木曜日の朝。朝食の席で清雅さんにスケジュールを尋ねられた。
昨日一日ドキドキしていたのは私だけだったみたいで、彼は普段通りのクールな表情だ。火曜日の晩が特別だったらしい。
「週末に予定は入れてないけど、なにかあるの?」
「言いにくいんだが、うちの実家で食事会をしようと言われている。嫌なら断ってくれても構わない」
白藤家で食事会……!
はっきり言って、私に断る選択肢はないだろう。よほどの体調不良とかではない限り、訪問するしかないはずだ。
「今からクローゼットを漁ってワードローブになにがあるかの確認を……」
「畏まった場じゃないから気にしなくていい。ただ家で昼食を食べるだけだ」
白藤本家の邸宅って蓮水よりも規模が大きいのでは? 家じゃなくて屋敷ですよね?
安物のワンピースなんか着て行ったら、お義母様のチェックが入らないだろうか。普通に考えたら、蓮水本家の娘である七菜香じゃなくて私が花嫁になったことを快く思わないはずだ。
「日曜日って言ったよね。じゃあ土曜日に洋服を買いに行ってくるね。あと手土産が必要かな? 皆さんはなにが好き? ちなみにうちのおじいちゃんは芋羊羹が好きだけど」
和菓子全般ならなんでも喜んでくれた。でも田舎に住んでいる私の祖父と、都会に住んでいる清雅さんの祖父とでは好みが違うだろう。
「祖父は今海外の別荘にいるし、両親への手土産は必要ない。気になるなら誠に用意させようか」
「いや、なにも持って行かないわけには……! 最初が肝心だし、ここでなにか勘付かれても困るのは清雅さんでしょう?」
「俺はなにも困らない。君が一緒にいてくれるだけでうれしい」
「……っ!」
さらっと女性心をくすぐる発言をしてくるところが恐ろしい。他意がないのもわかっているので、ストレートに心に響く。
「う……あ、うん、そう」
こういうのに慣れていないから返事に困る!
離婚予定でも、双方の親戚付き合いは契約内なのでちゃんとするって言ったら可愛げがないかもしれない。
「着て行く服に困っているなら一緒に買いに行こう。好きなブランドがあれば外商に持って来てもらっても」
「え⁉ いえいえ、お気になさらず……! 私が好きなブランドは手頃なものばかりなので」
外商なんて身近じゃ聞かない……本家は使っているかもしれないけれど。
「それなら土曜日は買い物デートをしよう。これは必要経費だから遠慮は無用だ」
一度デートをしたからか、清雅さんは随分積極的に見えた。
経費と言われてしまうと反論できず、週末の予定が決定した。
土曜日はブティック巡りだけではなく、サロンの予約まで入れられていた。
午前に髪のカット、カラーリングとトリートメントを終わらせて、午後に衣装と靴選びという一日になった。
ブティックの店員への要望はひとつ。先週末に清雅さんがプレゼントしてくれた真珠のペンダントに合う服装を、というものだった。
「華やかで大きめな柄が素敵ですね」
「素材は少しハリのあるものを選ばれた方がよろしいかと。上品で綺麗めな服装がよくお似合いです」
骨格、パーソナルカラーと顔タイプなどを総合的に見て判断してくれたらしい。
私の骨格はストレートで、パーソナルカラーはブルーベースの夏。顔タイプはエレガントだそうだ。
プロに診断されて勉強になる。
でも言われたまま頷いていたら、一着だけのはずがワンピース以外にもトップとボトムのセットがいくつかプラスされていた。
「え、あの、そんなには……」
「全部いただきます」
私が減らそうとする前に清雅さんがカードで支払った。
総額はいくらになったのか、怖くて確認ができそうにない。
「予定外の出費なので、全部支払ってもらうわけには……」
紙袋が多い。明日着用するのは一着だけだ。
「明日着なかったものは次のデートで着てくれたらいい」
甘やかしすぎでは?
それに清雅さんの金銭感覚が一般人とズレている気がする。
セレブならこれが普通なのだろうか……。多分私が慣れることはないだろう。
そして翌日。ディナーではないということで、ワンピースよりはカジュアルな服装で白藤家に向かうことにした。
デザイン性のあるVネックのブラウスにタイトスカート。
デコルテには清雅さんが贈ってくれた真珠のペンダントをつけて、髪の毛は緩く動きをつけている。
白藤のお屋敷は洋風で、見事なイングリッシュガーデンが広がっていた。
重要文化財に指定されそうな趣のある洋館で、思わず「美術館ですか?」と訊いてしまったのは仕方ない。
ちなみに別邸は日本家屋らしく、清雅さんはそちらで育ったらしい。
「改めて、住む世界が違うなと。清雅さん、私の実家に来たら驚きそう」
「驚かないからぜひ紫緒が育ったご実家にも行ってみたい」
社交辞令として捉えておきます。不必要に双方の家と関わらない方がいいだろう。
「紫緒さん、よく来てくれたわね! 週末は晴れるって天気予報で見たからね、お庭でアフタヌーンティーをしようと思ったのよ。ちょうど秋バラが綺麗に咲いて見ごろだから」
白藤夫人に出迎えられた。
まさかガーデンパーティーでアフタヌーンティーを開催されるとは……清雅さんも知らなかったようで、こっそり「苦手なものがあれば遠慮なく言ってほしい」と告げられた。
「うちのホテルのケータリングだから、味は安心して。スコーンは今、お父さんが焼いてくれてて」
「できたよ~!」
エプロン姿でにこにこと現れたのは白藤家の当主で、清雅さんの実父だ。結婚式では挨拶程度しかできず、私的な会話はできなかったけれど。
ダンディーなイケオジが焼きたてのスコーンを運んできてくれる姿は、なんというかインパクトが強かった。
「父は学生時代をイギリスで過ごしていたから、スコーンにはうるさいんだ」
清雅さんは慣れっこらしい。一切動揺を見せていないが、どことなく遠い目をしている。
「素敵な特技だと思う。おいしいし」
手土産に持参したジャムが早速役立つとは思わなかった。
藤枝さんに相談したところ、おすすめのブランドのジャムがいいと教えてもらったのだ。スコーンを焼くなら確かにジャムは必須である。
ピンチョスのようなフィンガーフードもおいしそう。
用意された席にはもうひとり、清雅さんとよく似た顔立ちの男性がいた。
「友護、来ていたのか」
「結婚式ぶり、兄さんと紫緒さん? だっけ」
「こんにちは、紫緒です」
白藤友護、二十六歳。清雅さんの四歳下の弟だ。
結婚式では慌ただしくてきちんと話せなかったけれど、にこにこした笑顔が人懐っこい大型犬のようだ。清雅さんより長身で体格もよくて、学生時代は運動部だったのかもしれない。
「ここに来るなんて珍しいな」
「そりゃ兄さんが帰省するって聞いたら来るでしょう。それに紫緒さんとも話したかったし。ねえ紫緒さん、新婚生活はどう? 兄さんに困ったことはされてない? 不満があったらなんでも言って。あ、よかったら連絡先交換してもいい?」
一瞬で距離を縮められた。
コミュニケーション能力の高さが凄まじい。
「え、あ、えっと、困ったことはまったく」
勢いに押されるように連絡先を交換してしまったけれど、なにか不測の事態が発生したときに白藤家と連絡が取れた方がいいと思うことにしよう。藤枝さんに繋がらないこともあるかもしれない。
「友護、適切な距離を保つように。それと紫緒さんの連絡先は消しなさい」
「なんで?」
「お前が彼女と連絡を取る必要はないからだ。なにかあれば俺に直接言えばいい」
清雅さんは私の友護君の間に席を移動した。
兄弟水入らずで話したいこともあるとは思うけれど、なんだか嫉妬のようにも聞こえる。
彼の空気感は実家に来ても変わらないらしい。背筋はピンと伸びていて、一切の隙がない。
顔立ちは似ているけれど、友護君の方が感情表現が豊かだ。
そういえば私は学生の頃、クラスのムードメイカーのような明るい男の子に片想いをしていたな……誰からも好かれる陽気で運動神経も抜群なタイプが好みだった。友護君と同級生だったら気になる存在になっていたかもしれない。
でも、今は期間限定の義弟だ。端整な顔立ちは清雅さんと似ているけれど、彼に惹かれているわけではない。
苦手だと思っていた優等生タイプの清雅さんの方が気になるなんて、つくづく理想と現実は違うものらしい。
「ふたりとも、なにか困ったことはないかしら? 新婚生活は順調だと聞いているけれど」
紅茶を飲みながら白藤夫人に尋ねられた。
清雅さんから問題ないと聞いているように思われるが、私たちを監視している人たちからの報告を言っているんだろう。
不自然な笑みにならないように気を付けつつ、問題がないことをアピールする。私生活は好調ですと告げたら満足そうに頷いてくれた。
でもその笑顔の裏にどんな真意が隠されているかはわからない。
そもそも、白藤の皆さんは私との縁談をどう思っていたのだろう……確認するのもちょっと怖い。
「紫緒さんは素晴らしい女性ですよ。俺にはもったいないくらいに」
「清雅さん?」
急に褒められてびっくりする。私が自慢できる要素ってひとつもないのですが。
「紫緒さんと一緒に暮らしてからQOLが上がりました。食事をする時間も楽しみになりましたし、リラックスする方法を学びました」
さすがに言い過ぎでは?
「私は大したことはなにも……」と反論しようとしたけれど、白藤家の皆さんは驚きながら感動していた。どういうリアクションなの。
「驚いた。清雅の口からそんなことが聞けるとは」
「私は気づいていたわ。清雅の表情が柔らかくなったもの」
私の株を上げてくれたらしい。
好印象なのはうれしいけれど、私たちは離婚する予定ですからね? あまり慣れ合わない方がいいのでは……。
食後にお化粧室を借りて、ほっとひと息ついた。ホテルのケータリングと言っていた軽食は全部おいしかったし、手作りのスコーンも絶品だった。
「食べ過ぎたかもしれない。ちょっとウエストがきついかも」
紅茶もおいしすぎてつい飲み過ぎた。気持ちのいい秋空の下でガーデンパーティーって、なんとも優雅な時間だわ。
ガーデンに戻ろうとしたとき、「紫緒さん」と名前を呼ばれた。
「友護君?」
「迎えに来ちゃった。迷うかなと思って」
「わざわざありがとうございます。この廊下を右に行けばいいんですよね?」
「ううん、左」
……私の記憶が適当だったことがバレてしまった。
庭から一番近いお手洗いを借りたのだけど、どうやら屋敷の構図は複雑だったらしい。
「ねえ、紫緒さん。俺のことどう思う?」
並んで歩きだした途端、答えに困る質問を投げられた。
正直質問の意図がわかりかねる。
「友護君は私の弟と同じ年だから親近感がわきますね。仲良くできたらいいなって思っていますよ」
「よかった。俺もね、紫緒さんとは仲良くしたいって思ってるんだ」
爽やかな笑顔が眩しい。例えるなら夏の青空が似合う好青年だ。
清雅さんは冬の冷たい空気が似合う美形で、笑うと柔らかな日差しを感じるけれど。兄弟でこうも印象が異なるのは面白い。
「でもね、多分紫緒さんが考えている仲良くとは少し違うかもね」
「え……?」
トン、と肩が壁に触れた。
突き当りを曲がったところで彼に一歩距離を詰められたらしい。
気づけば壁ドンされている。首を上げた先には、人懐っこいイケメンがにこにこと私に笑いかけていた。
「俺、紫緒さんに一目惚れしちゃった。兄さんと離婚して俺と結婚しよ?」
「……え、はい⁉」
「元々これは家同士の結婚で、白藤と蓮水が結ばれればいいなら俺でも問題ないよね?」
いや、問題はあるのでは⁉ もう入籍しているので!
言われた台詞が理解できなくて、私の頭はしばらくフリーズしたのだった。
清雅さんは私の首に買ったばかりのペンダントをつけてくれた。
「できるだけ毎日つけるように」と言った真意はわからないけれど、無駄に私の心臓はドキドキして落ち着かなくなった。
男性が女性にジュエリーを贈る心理って一体なんだろう。
ネックレスの類は独占欲の証とか? なんて考えながら仕事をしていたけれど、あの清雅さんにそんな欲望があるとは思えない。
夫としての役割を完璧にこなしたいと思っていそうだから、その延長線で私にプレゼントしてくれたんじゃないかな……白藤の嫁として、身に着けるものにも気を配ってほしいとか。
それなら私、洋服にもっと気を付けた方がいいんだろうか。
ファッションは好きだけど会社に行くときは地味で目立たない恰好にしているし、土日しかオシャレはしていない。
着古した印象のある洋服はすべて断捨離しよう。清雅さんの隣を歩いても恥ずかしくない恰好でいなくては。
あとデートのお礼を考えたい。かかった費用の半分は受け取ってもらえないだろうから、なにか別の方法で。
とはいえ、私にできることってなんだろう?
朝ごはんは清雅さんの厚意に甘えて作ってもらっているけれど、一応夕飯は私が頑張っている。やっぱりご飯は誰かと一緒に食べた方がおいしいし、きちんと彼の食の好みも把握したいと思っていた。
同居当初は、綺麗好きで真面目な清雅さんとの暮らしは息が詰まるかと思っていたけれど、いつの間にか苦手意識が薄れたみたいだ。
彼はちょっと天然なだけだ。
不意打ちの微笑は心臓に悪いけれど、見たくないわけではない。喜んでもらえることがあれば積極的にしていきたいと思っている。
この日も少しだけ残業してから仕事を切り上げて、スーパーに寄ってから帰宅した。
タコのカルパッチョ、真鯛のムニエル、アスパラときのこのソテーまで作ったら、白ワインもあけたくなってきた。
まだ火曜日だけど、たまには平日にお酒を飲んでもいいかな。
「魚はムニエルにしちゃったけど、これはバゲットの方が合いそう」
清雅さんはパンよりお米派だろう。お米も炊飯器にセットして、余った分は明日のお弁当用に回すことにする。
一口モッツァレラチーズとプチトマトをオリーブオイル、塩コショウで和えている間に、清雅さんが帰宅した。
「ただいま」
「お帰り、清雅さん! なんかつまみ系ばっかり作っちゃったから、白ワイン飲まない? それか日本酒かビールか」
ダイニングテーブルに並んだものを見て、清雅さんは「おいしそうだな」と褒めてくれた。
この家にあるお皿がオシャレなので、私の適当な盛り付けもそれなりに見える。
「平日の夜にこれだけ作るのは大変じゃないか」
着替えてきた清雅さんに無理はしなくていいと言われた。
ひとり暮らしのときは正直あまり料理をする気が起きなかったけれど、誰かと一緒に食べると思うとあまり苦ではない。
「結構気分転換になってるみたいで、それほど大変じゃないよ。切っただけ、焼いただけのものも多いから」
後片付けは食洗器がやってくれるので、そこは存分に活用させてもらう。
ムニエルにはレモンをかけてさっぱりと。
チーズとトマトのマリネにはアボカドも入れたかったけれど、アボカド選びは難しい。ガチャに外れる可能性が高いので、ちょっと手が出せなかった。
冷やしてある白ワインは清雅さんに開けてもらった。手際よくコルクを開けられる男性ってなんだかかっこよく見える。
グラスに注がれたワインを堪能する。
「フルーティーでおいしい。さっぱりしてる」
「紫緒の手料理もすごくおいしい。作ってくれてありがとう」
「どういたしまして。お口に合ってなによりです」
直球に褒められると照れくさい。
あと私が作ったご飯を食べてくれるのは純粋にうれしくて、なんだか胸の奥がくすぐったく感じた。
「そういえば清雅さんってお酒はどのくらい飲めるの? 嗜む程度?」
「外ではあまり飲まないからわからないな。酔ってもふわふわする程度だと思うが」
ふわふわする清雅さん。ちょっと気になるし見てみたい。
「ワイングラス二杯以上は飲まないようにしている」
「私は二本飲んだら酔ったって思うかな」
「……二本?」
余計なことを言ったかもしれない。
適当に誤魔化しつつお米があることも告げる。締めにお茶漬けもいいかもしれない。
いつ見ても所作が美しい清雅さんは、食事中も背筋をピンと伸ばしていた。
私と向かい合わせでワインを飲んでいる姿は絵になるけれど、なんというか堅い。
「すごく差し出がましいことを言うけれど、ここは清雅さんの家なんだからもう少し肩の力を抜いてもいいと思う」
「どういう意味だ?」
無自覚らしい。
スーツは脱いでいるけれど、家でも会食をしているような空気感がある。常にピンと糸が張り詰めた状態を維持するってしんどくないのかな。
「私はファッションやメイクでONとOFFを切り替えて、限りなくストレスフリーに生きたいって思っているのだけど。清雅さんはずっとONの状態に見えるなって。誰の目に映っても常に完璧で、気が抜けていない状態というか。リラックスできているのかちょっと心配、です」
本当、差し出がましいことを言っている自覚はあるのだけど。誰かの指摘で気づけることもあると思う。
彼は静かになにかを考えこんだ。気分を害した様子はないので少し安心する。
「……OFFの切り替えってどうやるんだ。具体的にはなにをしたらリラックスできるのだろうか」
大真面目な顔で尋ねられた。
彼はそもそも切り替えの概念がなかったらしい。
三十年生きてきてリラックスの方法を知らない人がいるとは……そういう家庭環境じゃなかったとしたら、少し切ない。
「清雅さん、ご趣味は? 好きなものは? なにをしているときが安らげて、どういうときに楽しいって感じる?」
お見合いで訊くような質問が口から零れる。
一緒に住み始めて少しずつ彼の好みを把握できるようになったけれど、直接本人から聞いたことはないかもしれない。
「……趣味とは、自由時間があるときに自主的にする行為で合っているなら、読書、茶道と弓道を少々」
趣味をそんな堅苦しい言い方にした人ははじめてだけど、念のためもう少し探りを入れる。
「読書はどんなものを? 歴史やミステリー小説とか? ちなみに私は推理ができないのでほとんどキャラ読みかな」
「ここ数年は語学や経済の本ばかりだな。特に言語は使わないと衰えるから」
……それって仕事の延長線では?
話を聞いていたら、茶道と弓道は特技だとわかった。弓道は精神を鍛えるためにやっているらしい。
意識が高すぎて、こうして一緒に食事をしていることが不思議に思えてきたわ。
「それは好きなことに入るの?」と問いかけたら、彼は考えこんでしまった。
「好きかどうかで考えたことはないから、好きなのかはわからない」
なるほど、理解できたかもしれない。
この人は一見優等生で隙のない御曹司だけど、真面目で天然でちょっとズレてて、不器用な人なのだろう。
なんでもそつなくこなせて器用なんだけど、生き方が不器用で本人は無自覚。なんだか私の姉心に火がつきそうだ。
「私が清雅さんにアドバイスをするなんておこがましいことだけど、一緒に住んでいる相棒というか、契約妻として言わせてもらうなら、仕事とプライベートの切り替えを身につけましょう。ずっと仕事モードでON状態はストレスが溜まるから、リラックス方法も探そう」
クラシックやオペラのコンサートに行くと言っていたから音楽は嫌いじゃないのだろう。チケットを貰って付き合いで行くのだとしても、音楽の興味はちゃんとあるらしい。
「知らないうちにストレスをため込んで、睡眠障害とか胃腸が弱ることもあるから。仕事のパフォーマンスの向上にもストレスは大敵です。簡単なリラックス方法からはじめるのはどうでしょう?」
「それは、たとえばなにをしたらいいんだ。君のおすすめは?」
清雅さんのいいところは、こうして素直に相手の話を聞いてくれることだ。
否定から入らず、耳を傾けてくれるところに信頼を感じる。
「いきなり生活リズムを変えるのはストレスになりそうなので、たとえば毎日入浴剤入りのお風呂に浸かって、お風呂中に音楽を流すとか、寝る前にアロマを炊くとか。あ、寝室にプロジェクターを買って、天井に投影してなんちゃってプラネタリウムもすごくいいかも」
私はしたことないけれど、SNSを見ていたらプロジェクターで寝室をプラネタリウムにしている人も結構いるみたい。すごくリラックスして眠れそうだ。
清雅さんの空いたグラスにワインを注ぐ。私も話していたら喉が渇いてきた。
「あとは肩の力をストンと落として、ご実家ではだらしない、お行儀が悪いって怒られそうなことをやってみるとか」
「それってどんなことだ?」
いきなり言われると思いつかないな……ソファに寝転んで漫画を読んだり、こたつに生息したり? この家にこたつはないだろうけど。
「ソファに寝転ぶ……子供の時しかしたことがないな」
「うっそ、そこから?」
「ああ。でも、なるほど。少し理解できた。先日の抹茶アイスは驚いた。あれは実家ではできないことだった」
清雅さんが思い出し笑いをした。
そのレアな笑顔に思わず見惚れる。
かっこいいのに可愛いって最強では?
不意に見せる微笑みの破壊力は一体なんなの。毎回私の心臓が急に騒がしくなって困るんですが!
自分の失態を思い出して恥ずかしくなってきたからか、身体がちょっと熱い。
「まあ、そういう感じで。ストレスフリーに生きましょうね」
「努力しよう」
この人の肩から力が抜けたら、どんな新しい表情が見られるのだろう。
ワクワクとドキドキと、これ以上清雅さんの沼にハマったら困りそうという感情が混ざり合う。
そう、多分これは推しを見つけたときの感情に似ているのではないか。
未知の沼を発見して、片足を突っ込んでみたら予想外に深くて戸惑っているというか……清雅さんのことをもっと知りたくなっている。
でも片足だけに留めておかないと大変なことになりそう。二年後に円満離婚をすることが決まっているのだから。
清雅さんが二杯目のグラスを飲み終えた頃、彼の目がとろんと熱を帯びていた。よく見たら頬もほんのり赤くなっている。
まさか二杯で酔っちゃった? そんなに量は注がなかったんだけど。
「お水用意するね」と、席を立ったら、清雅さんにパシッと手を握られた。
「え?」
握られた手が温かい。お酒で酔いが回っているのかもしれない。
「どこに行くの」
「キッチンに……」
「嫌だ。俺の傍に居て」
「……っ⁉」
手を引き寄せられて、清雅さんの膝に座らされた。
そのまま後ろからハグをされて、私のお腹の上に彼の腕が回っている。
なに、この状況?
急なスキンシップは心臓に悪いのですが?
「清雅さん、まさか酔ってる?」
「酔ってない」
「酔っ払いはみんな酔ってないって言うから、酔ってると思うわ」
肩に重みを感じた。彼の頭が乗っているようだ。
バックハグされて膝に乗せられたら、私まで酔いが回りそうなのですが!
これは意図的なの? 無意識なの?
「あの、清雅さん?」
戸惑いながら彼の名前を呼んだ。一体どんな顔で私を抱きしめているのかわからないけれど、無自覚の行動だったら恐ろしい。
「紫緒、週末のデート楽しかった」
「……!」
ギュッと抱きしめられながら耳元で囁かれると、背筋にぞわぞわした震えが駆け巡る。それが嫌なものではないから非常に困る。
「私も……同じ気持ちです」
背後で顔を見られなくてよかったかもしれない。急に身体の奥から熱が上昇してうまく顔を合わせられそうにない。
「またこうして、手を繋いでもいいか」
「……っ!」
手を取られて、指を絡められた。この状況で恋人繋ぎをされて、嫌だと言える人はいないと思う。
「ダメか?」
先ほどよりも声のトーンが落ちている。
私は慌てて「全然ダメじゃない!」と答えていた。
彼は酔うと本心が駄々洩れになるのかもしれない。このおねだりも願望だとしたら、なんだかもう胸がキュンキュンしてくる。
「私の手でよければいつでも貸しますので。遠慮なくどうぞ」
もう片方の手で清雅さんの手を握る。彼の手の温もりが気持ちよくて、一度知ってしまったら離れがたくなりそう。
「ふふ、ありがとう」
清雅さんは私の片手を取ると、自身の頬へ導いた。
思わず後ろを振り返り、彼の顔を至近距離から眺める。
ふわりと微笑んだ表情と、潤んだ瞳に息を呑んだ。吐息に色香が混じっていて、私はしばし呼吸を忘れて清雅さんを見つめる。
この人は酔うとこんな風に色気が駄々洩れになるの? 無防備すぎて心配になるんですが!
「紫緒、顔が赤い」
この状況で赤くならない女性がいたら連れてきてほしい。羞恥心だけじゃなくて、なんだかいろんな感情が刺激されている。
「清雅さんっ! 外ではお酒は控えましょう。飲んでも一杯だけって約束して」
飲まないでって言っても付き合いがあるだろうし、私にそこまで口を出されたくないかもしれない。
でもこんな風になる清雅さんを見過ごすわけには……!
「それなら紫緒も約束して。俺以外の男の前ではお酒を飲まないでほしい」
「私も? 私は滅多に酔わないけれど……」
「酔わなくても嫌だ。赤くなった可愛い顔を他の男に見せないで」
「か、かわ……っ⁉」
顔が赤いのは清雅さんのせいだよ……と、心の中で詰る。
急に可愛いなんて言われたらさらに顔が真っ赤になりそう。
「約束して」
再度懇願されて、私はこくこくと頷いた。男性とふたりきりのときはお酒を飲まないことを誓う。
息をしたら清雅さんのフェロモンを吸い込むだろう。
小指をキュッと絡められた。まるで約束の証みたいだ。
「あの、そろそろ下ろして……」
「まだダメ」
「でも重いので……」
「重くない」
押し問答をする間も手の温もりは離れない。
手を通して私のドキドキまで伝わってしまうのではないかと思っていた。
◆ ◆ ◆
限りなく好きに近いこの感情はなんて呼ぶのだろう。
そもそも恋心とは、自分で認めなければ恋ではないのではないか。
契約夫を推しに認定するのもマズいと思う。より関係が複雑化されるし、適切な距離感が保てなくなるだろう。
「紫緒、急なんだけど日曜日の予定は空いてる?」
木曜日の朝。朝食の席で清雅さんにスケジュールを尋ねられた。
昨日一日ドキドキしていたのは私だけだったみたいで、彼は普段通りのクールな表情だ。火曜日の晩が特別だったらしい。
「週末に予定は入れてないけど、なにかあるの?」
「言いにくいんだが、うちの実家で食事会をしようと言われている。嫌なら断ってくれても構わない」
白藤家で食事会……!
はっきり言って、私に断る選択肢はないだろう。よほどの体調不良とかではない限り、訪問するしかないはずだ。
「今からクローゼットを漁ってワードローブになにがあるかの確認を……」
「畏まった場じゃないから気にしなくていい。ただ家で昼食を食べるだけだ」
白藤本家の邸宅って蓮水よりも規模が大きいのでは? 家じゃなくて屋敷ですよね?
安物のワンピースなんか着て行ったら、お義母様のチェックが入らないだろうか。普通に考えたら、蓮水本家の娘である七菜香じゃなくて私が花嫁になったことを快く思わないはずだ。
「日曜日って言ったよね。じゃあ土曜日に洋服を買いに行ってくるね。あと手土産が必要かな? 皆さんはなにが好き? ちなみにうちのおじいちゃんは芋羊羹が好きだけど」
和菓子全般ならなんでも喜んでくれた。でも田舎に住んでいる私の祖父と、都会に住んでいる清雅さんの祖父とでは好みが違うだろう。
「祖父は今海外の別荘にいるし、両親への手土産は必要ない。気になるなら誠に用意させようか」
「いや、なにも持って行かないわけには……! 最初が肝心だし、ここでなにか勘付かれても困るのは清雅さんでしょう?」
「俺はなにも困らない。君が一緒にいてくれるだけでうれしい」
「……っ!」
さらっと女性心をくすぐる発言をしてくるところが恐ろしい。他意がないのもわかっているので、ストレートに心に響く。
「う……あ、うん、そう」
こういうのに慣れていないから返事に困る!
離婚予定でも、双方の親戚付き合いは契約内なのでちゃんとするって言ったら可愛げがないかもしれない。
「着て行く服に困っているなら一緒に買いに行こう。好きなブランドがあれば外商に持って来てもらっても」
「え⁉ いえいえ、お気になさらず……! 私が好きなブランドは手頃なものばかりなので」
外商なんて身近じゃ聞かない……本家は使っているかもしれないけれど。
「それなら土曜日は買い物デートをしよう。これは必要経費だから遠慮は無用だ」
一度デートをしたからか、清雅さんは随分積極的に見えた。
経費と言われてしまうと反論できず、週末の予定が決定した。
土曜日はブティック巡りだけではなく、サロンの予約まで入れられていた。
午前に髪のカット、カラーリングとトリートメントを終わらせて、午後に衣装と靴選びという一日になった。
ブティックの店員への要望はひとつ。先週末に清雅さんがプレゼントしてくれた真珠のペンダントに合う服装を、というものだった。
「華やかで大きめな柄が素敵ですね」
「素材は少しハリのあるものを選ばれた方がよろしいかと。上品で綺麗めな服装がよくお似合いです」
骨格、パーソナルカラーと顔タイプなどを総合的に見て判断してくれたらしい。
私の骨格はストレートで、パーソナルカラーはブルーベースの夏。顔タイプはエレガントだそうだ。
プロに診断されて勉強になる。
でも言われたまま頷いていたら、一着だけのはずがワンピース以外にもトップとボトムのセットがいくつかプラスされていた。
「え、あの、そんなには……」
「全部いただきます」
私が減らそうとする前に清雅さんがカードで支払った。
総額はいくらになったのか、怖くて確認ができそうにない。
「予定外の出費なので、全部支払ってもらうわけには……」
紙袋が多い。明日着用するのは一着だけだ。
「明日着なかったものは次のデートで着てくれたらいい」
甘やかしすぎでは?
それに清雅さんの金銭感覚が一般人とズレている気がする。
セレブならこれが普通なのだろうか……。多分私が慣れることはないだろう。
そして翌日。ディナーではないということで、ワンピースよりはカジュアルな服装で白藤家に向かうことにした。
デザイン性のあるVネックのブラウスにタイトスカート。
デコルテには清雅さんが贈ってくれた真珠のペンダントをつけて、髪の毛は緩く動きをつけている。
白藤のお屋敷は洋風で、見事なイングリッシュガーデンが広がっていた。
重要文化財に指定されそうな趣のある洋館で、思わず「美術館ですか?」と訊いてしまったのは仕方ない。
ちなみに別邸は日本家屋らしく、清雅さんはそちらで育ったらしい。
「改めて、住む世界が違うなと。清雅さん、私の実家に来たら驚きそう」
「驚かないからぜひ紫緒が育ったご実家にも行ってみたい」
社交辞令として捉えておきます。不必要に双方の家と関わらない方がいいだろう。
「紫緒さん、よく来てくれたわね! 週末は晴れるって天気予報で見たからね、お庭でアフタヌーンティーをしようと思ったのよ。ちょうど秋バラが綺麗に咲いて見ごろだから」
白藤夫人に出迎えられた。
まさかガーデンパーティーでアフタヌーンティーを開催されるとは……清雅さんも知らなかったようで、こっそり「苦手なものがあれば遠慮なく言ってほしい」と告げられた。
「うちのホテルのケータリングだから、味は安心して。スコーンは今、お父さんが焼いてくれてて」
「できたよ~!」
エプロン姿でにこにこと現れたのは白藤家の当主で、清雅さんの実父だ。結婚式では挨拶程度しかできず、私的な会話はできなかったけれど。
ダンディーなイケオジが焼きたてのスコーンを運んできてくれる姿は、なんというかインパクトが強かった。
「父は学生時代をイギリスで過ごしていたから、スコーンにはうるさいんだ」
清雅さんは慣れっこらしい。一切動揺を見せていないが、どことなく遠い目をしている。
「素敵な特技だと思う。おいしいし」
手土産に持参したジャムが早速役立つとは思わなかった。
藤枝さんに相談したところ、おすすめのブランドのジャムがいいと教えてもらったのだ。スコーンを焼くなら確かにジャムは必須である。
ピンチョスのようなフィンガーフードもおいしそう。
用意された席にはもうひとり、清雅さんとよく似た顔立ちの男性がいた。
「友護、来ていたのか」
「結婚式ぶり、兄さんと紫緒さん? だっけ」
「こんにちは、紫緒です」
白藤友護、二十六歳。清雅さんの四歳下の弟だ。
結婚式では慌ただしくてきちんと話せなかったけれど、にこにこした笑顔が人懐っこい大型犬のようだ。清雅さんより長身で体格もよくて、学生時代は運動部だったのかもしれない。
「ここに来るなんて珍しいな」
「そりゃ兄さんが帰省するって聞いたら来るでしょう。それに紫緒さんとも話したかったし。ねえ紫緒さん、新婚生活はどう? 兄さんに困ったことはされてない? 不満があったらなんでも言って。あ、よかったら連絡先交換してもいい?」
一瞬で距離を縮められた。
コミュニケーション能力の高さが凄まじい。
「え、あ、えっと、困ったことはまったく」
勢いに押されるように連絡先を交換してしまったけれど、なにか不測の事態が発生したときに白藤家と連絡が取れた方がいいと思うことにしよう。藤枝さんに繋がらないこともあるかもしれない。
「友護、適切な距離を保つように。それと紫緒さんの連絡先は消しなさい」
「なんで?」
「お前が彼女と連絡を取る必要はないからだ。なにかあれば俺に直接言えばいい」
清雅さんは私の友護君の間に席を移動した。
兄弟水入らずで話したいこともあるとは思うけれど、なんだか嫉妬のようにも聞こえる。
彼の空気感は実家に来ても変わらないらしい。背筋はピンと伸びていて、一切の隙がない。
顔立ちは似ているけれど、友護君の方が感情表現が豊かだ。
そういえば私は学生の頃、クラスのムードメイカーのような明るい男の子に片想いをしていたな……誰からも好かれる陽気で運動神経も抜群なタイプが好みだった。友護君と同級生だったら気になる存在になっていたかもしれない。
でも、今は期間限定の義弟だ。端整な顔立ちは清雅さんと似ているけれど、彼に惹かれているわけではない。
苦手だと思っていた優等生タイプの清雅さんの方が気になるなんて、つくづく理想と現実は違うものらしい。
「ふたりとも、なにか困ったことはないかしら? 新婚生活は順調だと聞いているけれど」
紅茶を飲みながら白藤夫人に尋ねられた。
清雅さんから問題ないと聞いているように思われるが、私たちを監視している人たちからの報告を言っているんだろう。
不自然な笑みにならないように気を付けつつ、問題がないことをアピールする。私生活は好調ですと告げたら満足そうに頷いてくれた。
でもその笑顔の裏にどんな真意が隠されているかはわからない。
そもそも、白藤の皆さんは私との縁談をどう思っていたのだろう……確認するのもちょっと怖い。
「紫緒さんは素晴らしい女性ですよ。俺にはもったいないくらいに」
「清雅さん?」
急に褒められてびっくりする。私が自慢できる要素ってひとつもないのですが。
「紫緒さんと一緒に暮らしてからQOLが上がりました。食事をする時間も楽しみになりましたし、リラックスする方法を学びました」
さすがに言い過ぎでは?
「私は大したことはなにも……」と反論しようとしたけれど、白藤家の皆さんは驚きながら感動していた。どういうリアクションなの。
「驚いた。清雅の口からそんなことが聞けるとは」
「私は気づいていたわ。清雅の表情が柔らかくなったもの」
私の株を上げてくれたらしい。
好印象なのはうれしいけれど、私たちは離婚する予定ですからね? あまり慣れ合わない方がいいのでは……。
食後にお化粧室を借りて、ほっとひと息ついた。ホテルのケータリングと言っていた軽食は全部おいしかったし、手作りのスコーンも絶品だった。
「食べ過ぎたかもしれない。ちょっとウエストがきついかも」
紅茶もおいしすぎてつい飲み過ぎた。気持ちのいい秋空の下でガーデンパーティーって、なんとも優雅な時間だわ。
ガーデンに戻ろうとしたとき、「紫緒さん」と名前を呼ばれた。
「友護君?」
「迎えに来ちゃった。迷うかなと思って」
「わざわざありがとうございます。この廊下を右に行けばいいんですよね?」
「ううん、左」
……私の記憶が適当だったことがバレてしまった。
庭から一番近いお手洗いを借りたのだけど、どうやら屋敷の構図は複雑だったらしい。
「ねえ、紫緒さん。俺のことどう思う?」
並んで歩きだした途端、答えに困る質問を投げられた。
正直質問の意図がわかりかねる。
「友護君は私の弟と同じ年だから親近感がわきますね。仲良くできたらいいなって思っていますよ」
「よかった。俺もね、紫緒さんとは仲良くしたいって思ってるんだ」
爽やかな笑顔が眩しい。例えるなら夏の青空が似合う好青年だ。
清雅さんは冬の冷たい空気が似合う美形で、笑うと柔らかな日差しを感じるけれど。兄弟でこうも印象が異なるのは面白い。
「でもね、多分紫緒さんが考えている仲良くとは少し違うかもね」
「え……?」
トン、と肩が壁に触れた。
突き当りを曲がったところで彼に一歩距離を詰められたらしい。
気づけば壁ドンされている。首を上げた先には、人懐っこいイケメンがにこにこと私に笑いかけていた。
「俺、紫緒さんに一目惚れしちゃった。兄さんと離婚して俺と結婚しよ?」
「……え、はい⁉」
「元々これは家同士の結婚で、白藤と蓮水が結ばれればいいなら俺でも問題ないよね?」
いや、問題はあるのでは⁉ もう入籍しているので!
言われた台詞が理解できなくて、私の頭はしばらくフリーズしたのだった。