堅物マジメな御曹司は契約妻にひたすら隠した溺愛を解き放つ~円満離婚はもう無理だ~
第五章
白藤清雅はこれまで生きてきて、恋愛感情というものを実感したことは一度もなかった。
それは最も理解ができない感情のひとつで、理屈で説明がつかないものには憧れよりも苦手意識の方が強い。
容姿が整っている人や知的で美しい人を見ても心が動くことはなく、皆が言うような特別な感情というものがいまいち理解できずにいた。
恐らく生まれたときから許婚がいたという特殊な環境の影響もあるのだろう。よそ見をしてはいけないという考えが幼い頃から清雅に根付いていたのだ。
けれど結婚式の当日に初対面の紫緒と出会ったとき、清雅は不思議と彼女の視線の強さに惹きつけられた。
常識的に考えれば式の直前に花嫁を交換など到底受け入れられない話だ。
一旦式は中止にし、両家の話し合いの上で今後を決めるべきだろう。
人生を左右する大きな決断を勢いでするなどありえない。慎重に考えるべきなのはわかっている。
だが、何故だろう。
直接交渉をしに来た紫緒を見ていたら、ここで彼女との縁が切れるのは惜しいと感じてしまった。
理由を訊かれたら、なんとなくとしか答えようがない。
自分らしくないとも思ったが、こういうときの清雅は己の勘に従うことにしている。
とはいえ巻き込まれた紫緒が可哀想だと思った。ならば彼女の納得がいくように逃げ道を用意したらいい。
婚姻期間を設けて契約を交わし、仕事上のパートナーのように彼女を扱う。
婚姻中の生活は同居人として適切な距離を保ち、二年後に離婚するという合理的な選択だ。
曾祖父同士の約束は物心がついたときから繰り返し聞かされたものだ。
何故そこまでして? という疑問が生まれるたびに、曾祖父が戦時中に生き残れたのは彼の親友のおかげだという話を思い出していた。
紫緒の曾祖父は白藤にとって命の恩人だそうだ。ならば子孫として、ふたりが交わした約束を守る義務があるのも当然だろう。
もしもその約束を反故にしたら、清雅は一生後ろめたい気持ちを抱えたまま生きることになる。
元々許婚がいたからこそ好きな相手を作らず、恋愛感情に意識を向けずに生きてきた。誰かを愛するという感情はいまいちよくわかっていない。
一度蓮水と縁を結ぶと決めたことはやり通すつもりだ。
けれど離婚してはいけないとは言われていない。
自分でも常識を疑うような提案を口にしてでも、紫緒との縁が切れるのを惜しいと思った理由が知りたくなった。
――美しい女性には見慣れているのだけどな。
彼女の容姿に惹かれたのだろうか?
他の女性にはなにも感じないが、紫緒のことは素直に美人だと思った。もしかしたら白無垢姿に目を奪われただけかもしれない。
平日の夜にはじめて会ったときは印象が異なると思ったが、地味だとは思わなかった。
生き生きとした目の強さから生命力まで感じられた。はっきりとした意志の強さ感じ取っていたのかもしれない。
だが薬指になにもつけていないのを確認すると、清雅はモヤッとした気持ちを抱いた。
自分は結婚指輪をつけているが、彼女は外していたのだ。面白くないと思った感情は、今思い出すと無意識の独占欲のようなものだったのだろう。
紫緒と暮らしはじめてもストレスを感じることはなかった。
踏み台に乗った紫緒が足をふらつかせて抱き留めるというアクシデントはあったが、あのとき感じた彼女の身体の柔らかさを今でも鮮明に思い出せてしまう。
――あれはセクハラではない、不可抗力だった。
柔らかな胸の感触や腰の細さに、髪の匂いまでが清雅の理性をかき乱した。
女性を抱きしめたいなんて今まで思ったこともなかったのに、自分にそんな欲望があったことを恥じた。
接触してドキドキしただけではない。彼女は常に清雅に驚きや気づきを与えてくれる。
抹茶にアイスを入れた予想外の行動や、デートに固定観念は不要だと言われたこと。食事はひとりより二人の方がおいしく感じることなど、紫緒が一緒にいたから気づくことができた。
朝食を作るのは何年も続けているルーティンのひとつだ。今までは黙々と食べるだけだったのに、紫緒はいつもうれしそうに食してくれる。
手料理を食べてくれることがむず痒くて、胸の奥が満たされることをはじめて知った。
彼女は親身になって話を聞いてくれて、リラックス方法を教えてくれる。いつしか紫緒と過ごす時間が穏やかで安らげるようになっていた。
きっと自然と手を握りたくなったときから、清雅はもう紫緒のことが特別な存在になっていた。心拍数が上がっていた時点で身体は恋を自覚していたのだ。
――恋を自覚したから、酒に酔って彼女を膝に乗せたんだな。
外では気を張っているためめったに酔わないが、家の中ではコントロールが難しい。まさかワイングラス二杯で酔うとは思わなかった。
胸の中にふたたび彼女を閉じ込めたとき、ずっとこうしていたいと感じた。あのまま唇を奪わなかっただけの理性が残っていてよかったと安堵する。
――酔った勢いのままキスをするなんて最低だからな。
そして深く息を吐いた。
――そもそも彼女にキスをできる権利が俺にはない。
恋心を自覚した途端に失恋が確定するなんて、自業自得だとわかっているが笑えない。
契約書には二年後に離婚をすると明記している。自分から持ち掛けたのだから、それを覆すことはできない。
――どうしたら二年後もずっと、彼女と過ごせるようになるだろう。
他の男に笑顔を見せたくない。想像だけで見知らぬ男に嫉妬する。
無防備に赤くなった可愛い顔を見せないでと約束させるなんて、独占欲の塊ではないか。
彼女は引いただろうか。酔っ払いの戯言だと思ったかもしれない。
――もしくは俺の本心を垣間見たと思ったかもしれないな……何事もなく接してくれているのはありがたいが。
ぎこちない空気は感じていない。だが紫緒はどう思っただろう。
彼女の心が知りたい。でも確認する勇気はない。
恋をすると人は臆病になるという話は本当だった。誰かに嫌われる恐ろしさを感じる日が来るなんて思ってもいなかった。
毎晩「おやすみ」と告げてから自分の寝室に入った途端、すぐに踵を返して彼女の顔が見たくなる。
今までひとりでいる時間を寂しいと感じたことは一度もなかったというのに、たった数分別室にいるだけで無性に寂しさがこみ上げるのだ。
――こんな状態で円満離婚なんてできるのか?
紫緒の隣を譲りたくない。一番近くで彼女の笑顔を見ていたい。
眠る瞬間まで、清雅は紫緒のことを考える。好ましいところはいくつもあるが、恋に落ちる現象は理屈では説明できないらしい。
家同士の約束は絶対だと思っていた自分と、抵抗しようとしていた彼女。
明るくて逞しくて、他者を思いやれる優しさに惹かれているのだろう。
清雅の予定調和な人生を彩ってくれそうな強さも、清雅には持ち合わせていないものだ。
――ああ、ダメだな。紫緒のことを考えていると、無意識に笑ってしまう。
優しい時間を手放したくないなら、まずはなにをするべきだろうか。
――紫緒が俺を好きになってくれたらいいのに。
離れたくないと思わせればいい。そうしたら離婚も無効にできるのではないか。
少しでも彼女の心に自分を住まわせたい。
――そうだ。明日の朝食は紫緒の好物を作ろう。
彼女が喜んで食べてくれるなら作り甲斐がある。
けれど翌朝、紫緒は珍しく時間ギリギリに起床した。
「体調が優れないのか? 顔色があまりよくないようだが」
「ううん、ちょっと寝つきが悪くて……あ、ごめんなさい。朝食作ってもらったのに食べる時間がなくなっちゃった。これは夕食にいただきますね」
紫緒は手早く朝食にラップをかけて冷蔵庫にしまっていた。
――視線が合ってもすぐに逸らされる。気のせいでなければ態度がよそよそしい。
週明けから微妙に心の距離を感じている。
日曜日は白藤の家に招いたが、そこでなにか不快なことでもあったのだろうか。
――緊張はしたが楽しかったと言っていた。両親に持たされたお土産にも喜んでいたようだったが、建前だったのだろうか。
女性の心がわからない。
自分がなにかをしたわけではなく、職場で気になることでもあるのだろうか。
「車で送ろう」
「いいえ、大丈夫! 今日は電車で行くので」
「昨日も電車だっただろう」
彼女は月曜、火曜と電車で出勤している。だが会社に提出している通勤方法は電車だと言われてしまうと、清雅も強くは言えない。
まさかと思いたいが、彼女から避けられているのではないか。
そう思った瞬間、清雅は玄関へ向かう紫緒の手を握っていた。
「紫緒、俺はそんなに頼りないだろうか」
「え……?」
「君がなにかを悩んでいるなら俺に相談してほしい。ただ話を聞くだけしかできないかもしれないが、ひとりで考えこまないでほしい」
抱き寄せて彼女の不安を取り除きたい。
けれどそれをする権利が今の自分にないことがもどかしくなった。
――契約夫を盾に強行できるが、それはなんとなく嫌だ。誠実ではない。
キュッと手が握り返された。
そんな些細なことで、清雅の心臓がドキッと跳ねる。
「ありがとう、清雅さん。ちょっと仕事がバタついているだけなんだけど、今夜も一緒にご飯を食べて食後のお茶を飲んでくれる?」
身長差があるのだから、上目遣いになるのは当然だ。
だが何故彼女に見つめられると、胸の奥が甘いものを食べたような気持ちになるのだろう。
「……もちろん。遅くならないように帰宅しよう」
「ありがとう」
笑顔でごまかされた気もするが、深追いするつもりはない。
「……余裕のない男はみっともないしな」
パタン、と閉じられた玄関を見つめたまま、清雅はしばらく動けずにいた。
◆ ◆ ◆
……朝からごまかしてしまった。
電車に揺られながら、罪悪感がこみ上げてくる。
なにも悪くない清雅さんの表情を見ていたら心の中を明かしたくなったけれど、私にも言いにくいことはあるのだ。
それが自分だけの問題じゃないならなおさら慎重になるべきで、もう少し様子見をしようと考えていた。
というのもこの二日間、清雅さんの弟である友護君から頻繁にメッセージが届いている。
連絡先を交換したのはなにかあったときの、いわゆる緊急連絡先の感覚だった。
早まったかもと思ったのが、ふたりきりになったときの友護君に言われた一言。
清雅さんと離婚して自分と結婚しようだなんて、冗談にしか聞こえない。
当然本気にするはずもなくて、「ごめんなさい。私は清雅さんをお慕いしていますので」ときっぱり断ったのだけど、どういうわけか彼から頻繁にメッセージが届くようになった。
人を寄せ付けない空気がある清雅さんとは違って、友護君は人懐っこい。常に人が周りに集まるような魅力がある。
だからだろうか。メッセージも押しつけがましくない。
女性に人気のカフェやレストランを『ここ、女子会におすすめ』と、有意義な情報をくれたり、『そういえば兄さんは○○が好きだよ』なんて、清雅さんの情報まで教えてくれる。
自分語りやアピールなら辟易したかもしれないけれど、短文で簡潔に私の興味を引く話題を持ってくるあたりイケメンって恐ろしい……! と震えてしまった。
正直に言って清雅さんの情報はいくつあっても困らない。
兄弟の思い出話とかもできれば聞かせてほしいって思っちゃうわけで……理性と欲の間で葛藤していたのだ。
でも契約夫の弟と親密になるべきではない。ただの情報提供だとしても、清雅さんが知ったら不快に感じるかもしれない。
そしてなにより友護君の真意が読めない。
彼は一体なにを考えているのだろう。
もしかして彼は私の清雅さんへの愛を確かめているとか?
このメッセージのやり取りも、私がどこかでボロを出さないか見極めているんじゃないだろうか。
もう少し様子を見ておこうという気持ちと、ふたりの兄弟仲がいいのかどうかを探って報告しようと思っていたのだけど……今朝の彼を見ていたら、今すぐにでも気持ちを吐き出したくなった。
なにか悩んでいるなら頼ってほしいと思ってくれていたなんて優しすぎる。
「せっかくのだし巻き卵が……」
あれこれ考えすぎて寝付けず寝坊して、せっかく清雅さんが作ってくれた朝ご飯を食べ損ねるなんて……! もったいないことをした。
彼の心配そうな表情を見ていたら、胸の奥がギュッと収縮する。
ふと、左手の薬指に嵌められた結婚指輪に視線を落とす。
シンプルなデザインで年代問わずに使えるものだけど、ほんのり複雑な感情がこみ上げてきた。
清雅さんが言っていた通り、これは私のために用意されたものではない。
指輪を付ける習慣がないからと、婚約指輪の代わりにペンダントをいただいたけれど、目に見える場所に私だけの指輪がほしくなってきた。
でも離婚したら結婚指輪も返すんだよね……なにもつけていない指を見ていたら切なくなりそうだ。
「好きになったので、離婚は考え直しませんか?」なんて、私から言われたら清雅さんは絶対困る。
伝えた瞬間から失恋が確定して、残りの時間を気まずい空気のまま過ごしたくはない。
でも今夜はしっかり話し合おう。
友護君との関係を探りつつ、彼からちょくちょく連絡が来ていることを伝えて、今後どう接するべきかを相談したい。
突発的な残業が入らないように気を付けて仕事に集中し、私はこの日も定時過ぎに帰宅した。
◆ ◆ ◆
食後のお茶係は私の仕事だったのだけど、今日は清雅さんがお茶を点てると言い出した。ここでのポイントは淹れるではなく、点てる、だ。
「今さらだけど、お抹茶って飲む時間は決まってないの?」
「飲みたいときでいいんじゃないか」
未だに作法がわからないまま一口味わった。とても奥深い味わいだ。苦味の中にも甘味があって、脳をスッキリさせてくれそう。
「君の好きなアイスクリームも用意している。入れるだろう?」
清雅さんがバニラアイスのカップとスプーンを渡してくれた。
すごくうれしいけれど、邪道なことを覚えさせてすみませんという気持ちもこみ上げてくる。
「清雅さんって心が広いよね……多分他の人は、こんなことをされたら怒ると思う」
「俺は特に拘りはないよ。紫緒がおいしく食べてくれる方がうれしい」
「……っ!」
今の微笑はシャッターチャンスだった。手元にスマホがないことが悔やまれる。
抹茶アイスがちょうどいい甘さでおいしい……でも清雅さんの微笑の方が甘くて胸の奥がくすぐられた。
「ごちそうさまでした」
食べ終わった器をテーブルに置いた。
食べているときは心も満たされていたのに、空っぽになった器を見ているとそわそわと落ち着かない。
「洗い物してきますね」
器を片付けようとソファから立ち上がった瞬間、手首を握られた。
「後で俺がやる。それよりも君の話が聞きたい」
「え……っ!」
清雅さんに腕を引き寄せられた。そのまま彼の膝に乗せられて、身体を抱きしめられる。
「……っ! まさか、お茶にアルコールが?」
「入れるわけがないだろう」
「じゃあこの体勢は一体……!」
以前清雅さんの膝に乗せられたときは、ワインを飲んだ後だった。グラス二杯で酔っていて、何故かバックハグをされたのだ。
素面でこれってどういうこと? 頭の中がぐるぐる回る。
「……俺に抱きしめられるのは不快か?」
どことなく緊張が混じった声だ。腹部に回った腕に力が込められた。
お酒が入っていない状態のときは手を握る程度の接触しかしていない。でも意識的に私を抱きしめたいと思ってくれたのなら素直にうれしい。
「不快なんか感じません。むしろ安心する」
「安心?」
「清雅さんの香りに包まれているみたいで、なんだかホッとするというか。癒し効果でも出てるとか?」
相性がいい相手の香りは好ましく感じるらしい。清雅さんは香水をつけていないはずだけど、とても落ち着く匂いがする。
「安心……それは喜んでいいんだろうか」
ほんのり眉間に皺を寄せて考えこむ表情もセクシーだ。なにに葛藤しているのかはわからないけれど、私は甘えるように彼の胸に肩を寄せた。
「重くない?」
手を絡めながら尋ねる。清雅さんは指の先まで綺麗で、爪の手入れも怠らない。
「重くないよ」
声が優しくて、胸の奥がざわつきだした。羽先で優しくくすぐられたかのよう。
私とお揃いの結婚指輪をつけているのを見ていると不思議な感情になる。これも一種の独占欲なのだろうか。
目に見える繋がりがうれしい。
たとえ離婚予定だったとしても、契約期間内はこの美しい男性を独占できるのだから。
「ここ数日、君の様子が少し気になっていた。なにか悩み事があれば遠慮なく俺にも相談してほしい。俺では頼りにならないかもしれないが」
「そんなことは! 清雅さんが頼りにならないなんて思ってな……」
「よかった。それなら話してくれるな? 君の頭を占めているものは一体なんだ?」
……あれ、誘導尋問だった?
キュッと手を握られると、なんでも素直に白状しそうになる。
これも惚れた弱みなのか、私は清雅さんの一挙一動に翻弄されていた。
「あの、悩み事とかではなくて、ちょっと気になったことがある程度で」
「うん」
ギュッと恋人繋ぎにされた。触れ合う面積が増えるだけで、私の鼓動が速まる。
「清雅さんは……兄弟仲はどんな感じなのかなって」
「俺と友護のことが知りたいのか?」
さすがに離婚したら結婚云々までは言えない……ふたりの仲を探ってから、連絡が来ていることを伝えたい。
「兄弟仲は普通じゃないか。四歳離れているから喧嘩をしたこともないな。友護は子供の頃から誰にでも好かれて愛される可愛い弟だよ」
その可愛い弟さんが私に近づく意図は一体……?
お茶会でも友護君は清雅さんを嫌っているようには見えなかった。むしろ見えない尻尾を振っていたようにすら思えた。
やっぱりなにか裏がありそう。
私に近づく理由は私を怪しんでいるからかもしれない。
「喧嘩をしたこともないなんて羨ましい。私は弟としょっちゅう喧嘩してたので」
「君の弟さんにも挨拶がしたいな。予定が合わなくてまだご家族と会えていないだろう」
本来であればすぐにうちの実家に挨拶に行くべきだったのだけど、両親の体調不良や仕事のスケジュールが合わなくて、電話で話すことしかできていない。
「また都合のいいときにぜひ」
「それでどうして友護のことが知りたいんだ? なにか嫌なことでも言われたのか」
「いいえ、そういうわけでは。ただ、私って白藤の皆さんから歓迎されなくて当然じゃないかなと。やっぱり七菜香じゃないなら結婚は白紙に戻すのが筋だと思うので」
すんなり受け入れられる方が特殊なのだ。当人がよくても普通はもっと家族が反発するはずだ。
白藤の監視の目というのは、私がなにか粗相をやらかしたらすぐに離婚できるように見張っているのではないか。
問題がある嫁だと発覚したら白藤家が介入するだろう。
ちなみに七菜香には何度もメッセージを入れているが、未だに既読にならない。祖父が大丈夫だと言っていたけれど、どこでなにをしているのかも気になっている。
「家族は皆、もし七菜香さんになにかあった場合は君が俺の花嫁になることを理解していた。蓮水の孫娘はふたりいるのだから当然だろう」
なんですって? 私は寝耳に水でしたが。
やはり白藤では私の経歴も把握済みだったそうだ。
「あとは当人同士の問題で、判断は俺に委ねられていた。だから両親は口を出してこなかった。だが、友護がどう感じていたのかまではわからないな」
「なるほど……一応、友好的ではあるかなと。ちょくちょく連絡がくるので」
「は? 友護から?」
大した内容ではないことを前置きして、女子会に使えるオススメのカフェやレストラン情報や、清雅さんとの思い出を世間話程度に教えてもらったことを話した。
手元にスマホがなくてよかった。さすがに清雅さんは私にスマホを見せろとまでは言わない。
「あまり取り合わなくていいから。君の時間を友護に使わなくていい」
ギュッと胸に抱き寄せられた。
なんだか清雅さんから独占欲のようなものを感じる。
「もしかして、嫉妬とか?」
「嫉妬?」
「ごめんなさい。調子に乗りました」
そんな私に都合がいいことがあるはずない。
なにやら考えこんでフリーズしてしまった隙に、私は清雅さんの手をもう少し堪能することにした。
◆ ◆ ◆
白藤家に訪問後、監視の目は途絶えたように思われた。
けれど藤枝さんから油断はしない方がいいとの助言を受けたので、週末は積極的に清雅さんと外に出かけるようにしているのだが……。
「やあ、兄さんと紫緒さん。待ってたよ」
うちのマンションのロビーに友護君がいた。
「友護? どうしてここに。訪問の連絡は受けていないが」
「うん、急に思い立って来ちゃった。俺もふたりのデートにお邪魔させてもらおうかなって」
……はい?
アポなしで突撃されて驚いているのに、まさかデートに乱入とは……一体どういうつもりなのだろう。
「カフェでお茶に付き合ってくれたら十分だよ。邪魔者はすぐ退散するからさ」
一日中付きまとうつもりはないらしい。
清雅さんは遠慮がちに私に尋ねる。
「追い返していいだろうか」
「追い返す一択なの?」
てっきり一緒に同行してもいいかと許可を取るのかと思ったのに、逆だった。
清雅さんの気の使い方が容赦なくて笑いそうになる。
「せっかく来てくれたのだから、一緒にカフェに行きましょう」
数日悶々と考えていたけれど、友護君の真意なんて私が知る由もない。
真向から確認できた方がスッキリするので、彼の方から来てくれてよかった。
「友護、優しい紫緒さんに感謝するように」
「うん、ありがとう兄さん! 俺、紫緒さんとももっと仲良くなりたいからうれしいよ」
爽やかなイケメンの笑顔には腹黒さなど一切感じられない。なんという陽の気……彼には太陽に向かって咲くひまわりがよく似合う。
急に清雅さんに手を握られた。この行動の真意もまだ掴めそうにない。
「ふたりとも結構仲良しだね」
世間話をしつつ、私たちは友護君のおすすめのカフェに連れて行かれることになった。
駅から徒歩数分にあるカフェは広々としていて、開放的な造りだった。モーニングも有名らしく、午前中から人が賑わっているらしい。
ゆったりしたソファ席に案内された。
お昼時だけどタイミングがよかったようだ。
「ここのオススメはエッグベネディクトとオムライス。パニーニとコブサラダもおいしいんだって」
友護くんはSNSでの情報収集が早い。そしてこのカフェの拘りは本格的なコーヒーだった。
「清雅さん、なに食べたい? サラダとパニーニを頼んでシェアすることもできるけど」
「いいね。そうしようか」
飲み物はオススメのコーヒーを三つ。友護君はオムライスのランチセットを頼んだ。
飲み物が運ばれてコーヒーを味わう。
友護君からは私と清雅さんの仲を怪しんでいる気配は感じない。
でも食事をはじめた段階で、彼はサラッととんでもない質問を投げてきた。
「ふたりとも円満離婚するつもりでしょう。いつの予定?」
「……っ!」
びっくりしすぎて手に持っていたフォークをテーブルに落としてしまった。
「紫緒さん、動揺しすぎ」と笑いながら、友護君は店員を呼び止めて新しいフォークを貰っている。
「ありがとう……」
お礼を言うけれど、心臓のドキドキは落ち着かない。
円満離婚の予定なんて私は一言も話していない。
「友護、どうしてそんなことを訊くんだ」
清雅さんの表情はぴくりとも動いていなかった。
静かに尋ねる姿が頼もしい。
「どうしてって、俺は兄さんの考えそうなことくらいわかるよ。急に不本意な結婚をさせられて可哀想に思った紫緒さんに逃げ道をあげようと、期間限定の結婚を持ちかけたんでしょう? その間の衣食住の面倒は見るし、一旦結婚しちゃえば両家は大人しくなるからとでも言って」
す、鋭い……!
長年清雅さんの弟をしていただけある。
「だからカモフラージュのデートなんてしなくていいと思うよ。家の目があるから外に出かけるようにしているんだろうけど、俺がその役目を引き受けるから」
ぴくん、と清雅さんの肩が反応した。
隣に座っていてもわかるくらい、彼の空気が冷ややかになる。
「引き受けるとは? 友護、なにを考えているのか説明しろ」
「離婚したら紫緒さんを俺にちょうだい?」
清雅さんの威圧感に負けずに笑顔でとんでもないことを言える神経がわからない。
人たらしな大型犬だと思っていたけれど、彼は十分腹黒いのではないか。
「あの、冗談はその辺で……」
思わず口を挟んだ。サラダを食べている場合ではない。
「えー、冗談じゃないよ。俺、紫緒さんに一目惚れしたもん。結婚式で兄さんの隣に立ってた紫緒さん、すっごい綺麗だったね」
オムライスをぺろっと完食して褒められたけれど、どうも台詞が薄っぺらい。感情が込められていない褒め言葉なんて胸に響かないらしい。
清雅さんに「綺麗だ」と言われたら、一日中気持ちがふわふわして落ち着かなくなる自信がある。
それは言葉に込められた感情の重みが違うからだろう。
「兄さんは紫緒さんのことが好きなわけではない。好きだったとしてもそれを婚姻中に伝えることはしない。だってもしも期間限定の結婚を持ちかけたのが兄さんなら、自分から反故にすることは言わないもんね? 嘘はつけない誠実で正直者だから」
「……」
兄弟って厄介かもしれない。相手の性格を把握しすぎている。
私がもしも清雅さんに好きだと伝えても、彼は拒絶する可能性が高いのだと気づいてしまった。
自分から持ち掛けた契約を簡単に反故にはできない人だとわかったから。
「友護君は私のことが好きじゃないのに、どうして私に気があるふりをするのですか? 言葉が薄っぺらくて感情がこもっていない。まるで別の意図があるみたい」
「なんのこと? 俺はただ紫緒さんが奥さんだったらいいなって思っただけだよ」
似てない兄弟だと思っていたけれど、ポーカーフェイスを作りたがるところは少し似ている。
清雅さんは真顔で冷静沈着、友護君は笑顔で感情を覆い隠す。
普通は家同士が決めた面倒くさい結婚に、自分が巻き込まれなくてよかったって安堵するはずだ。私だって七菜香には悪いけれど、長男の娘じゃなくてよかったと思っていた。
それなのにわざわざ自分から立候補するなんて、よほどメリットがないとしないだろう。
白藤側に金銭的な問題はない。この結婚にメリットがあるのは蓮水の方だ。
それなら友護君が私と結婚したがる理由はひとつ。
清雅さんの解放ではないか。
「そっか、お兄さんを自由にさせてあげたいのね。友護君は清雅さんが大好きなんですね」
「な……っ!」
はじめて彼の表情が崩れた。
薄々気づいていたけれど、彼は多分ブラコンだ。だとすると、私が邪魔だと思うのも納得がいく。
でも私も清雅さんが好きなので、ここで負けるわけにはいかない。
「清雅さん」
「……っ」
話を聞いていた清雅さんの首に腕を回して、頬にキスをした。
幸い隣の席とも距離があり、ちょうどいい場所に観葉植物も置いてあるため、誰かに見られた気配はない。
「な……なにすんだあんた」
不愉快な顔を隠しもしない。友護君の口調も崩れていた。
驚いたまま硬直している清雅さんの手を握り、私は友護君に微笑む。
「ご心配なく、私たちはとっても順調な新婚夫婦なので。ね? 清雅さん」
「紫緒……」
清雅さん耳がほんのり赤い。
僅かに刻まれた眉間のしわがセクシーで、これは恥じらいを我慢している顔だと気づいた。
ちょっと可愛すぎるんですけど?
照れているのを気づかれたくなくて頑張って無表情を貫こうとしている?
シャッターチャンスだ。これは写真に残しておかなくては! と、私が内心歓喜していると、仮面を脱いだ友護君は静かに激怒する。
「ふざけんなよ、あんたみたいな女に兄さんは釣り合わないんだよ。俺の兄さんを誑かすんじゃねえ」
「誑かしてなんていませんけど」
むしろどうやったら清雅さんを誑かせるの。その方法を教えてほしい。
「いいから離婚しろよ、パパ活女!」
「パ、パ……⁉ したことありませんが!」
学生時代の嫌な記憶が蘇る。
たまたま家族とホテルのランチを食べたところを同級生に見られて、パパ活をしているという噂を流されたことがあった。母と弟と別行動中に、父と歩いていただけで勘違いをされたらしい。
年齢より年上に見られやすい顔立ちだったのと、派手な容姿のせいで噂が独り歩きをした。私は母似なので父とも似ていない。
それから私は勘違いをする同級生たちの相手をするのをやめた。否定したって信じる気がないのだから、無駄な労力である。
「あんたみたいな派手な女が純情可憐な兄さんに釣り合うはずがないだろう。七菜香さんならよかったのに、俺の兄さんを穢すなよ!」
「純情可憐には同意しかないし釣り合わないというのも理解できるけれど、清雅さんを穢しているつもりはありませんっ」
やっぱりこの男はブラコンだった。
清雅さんの隣に立つ女性は、七菜香みたいな黒髪清楚なお嬢様がよかったって思っているらしい。
「兄さんがあんたみたいな派手な女を好きになるはずがないだろう!」
「……っ」
嫌なことを指摘された。
反論できる材料がなくて、咄嗟に言葉を飲み込んだ。
「謝りなさい、友護。彼女を侮辱する言葉は許さない」
清雅さんが私の肩を抱き寄せた。ぞくっとすると冷たい声だ。
彼は静かに怒る人だというのをはじめて知った。
「……兄さんが俺を怒った……?」
友護君が呆然とショックを受けている。
そういえば仲はいいと言っていたし、今まで清雅さんが友護君を叱ったことはなかったのかもしれない。
「ちが、俺は兄さんが大事で……っ」
「お前は今、俺の大事な人を貶したんだ。勝手な思い込みで妻を侮辱されて怒らない夫がどこにいる。自分が言ってはいけないことを言った自覚はあるんだな?」
「……っ! ごめん、なさい」
「それは誰に対しての謝罪だ? 頭を下げるべきは俺じゃないだろう」
淡々と正論で詰めていく様をハラハラしながら見守る。
清雅さんが私を庇ってくれた。この人は静かに正論で相手を詰めていく怒り方をするらしい。
感情的に怒られるより、こっちの方が怖いかも。
私の背筋も自然とピンと伸びていた。
「すまない、紫緒。もう帰ろうか」
「え、ええ?」
「君をこれ以上不快にはさせたくない」
私のことを最優先にしてくれるのはうれしいけれど、ここで帰ったら兄弟仲が拗れるのでは? 仲のいい弟と私のせいで溝ができてしまうのは嫌だ。
「清雅さん、待って。もう少し話を聞きましょう? 友護君はちょっとブラコンが拗れているだけだと思うから」
「ブラコン?」
さすがに言葉の意味はわかるよね? とは訊きにくい。
友護君は複雑な表情で顔を赤くしていた。
ブラコンだなんて余計なことを、と視線だけで文句を言われているようだけど、今は痛くも痒くもない。
「……外見で判断して嫌なことを言ったのは悪かったよ。でも、俺はまだ認めていない。もしかしたら兄さんが騙されているかもしれないだろう?」
「それのなにが悪いんだ?」
……はい?
予想外の返しを聞いて、思わず清雅さんを凝視する。
もちろん私は騙してなんかいませんけど! でも、今のは私になら騙されてもいいと言っているようにも聞こえた。
「ちょっと兄さん、なにを言って……」
「それにこれ以上は俺たちの問題だ。お前には関係ない」
「関係ない……⁉」
友護君がふたたびショックを受けた。
ブラコンなのに大好きなお兄さんからそんなことを言われたら、顔面蒼白になるのも仕方ない。ちょっと涙目になっている。
「お前は俺が彼女を好きになるはずがないと言っていたが、それは違う」
清雅さんは私に視線を移す。
冷たい双眸がふわりと温かなものに変わった。
甘さのある眼差しが私の胸をドキッと高鳴らせた。
「俺はとっくに紫緒を愛している。だからお前が入り込む隙はない」
「……っ!」
聞き間違い……ではない。
今はっきりと、清雅さんに愛の告白をされた。
どうしよう、私も言わないと。
このタイミングを逃したら、次はいつ気持ちを伝えられるかわからない。
「わ、私、もです……」
顔が一瞬で熱くなった。
たった一言伝えるのが精いっぱいで、心臓が痛いくらい早鐘を打っている。
甘く微笑んでくれる清雅さんが美しすぎて直視できない……!
「……嘘だ。絶対勘違いだ」
コーヒーを飲み終えた友護君は、苦虫を嚙み潰したように口を挟んだ。
「俺は絶対認めないからな!」
捨て台詞を吐いた後、彼は颯爽と出口へと去っていく。その手には伝票が握られていた。
「お会計は……」
「迷惑をかけた自覚があるんだろう。ここは友護に奢られていいと思う」
律儀なところは白藤の教育の賜物かもしれない。
多分本当にブラコンを拗らせているだけで、私が嫌いなだけだ。
「そ、そう……」
急に甘酸っぱい空気が漂いだした。
ちょっとふたりきりになるのが恥ずかしい。
「紫緒、帰ったらいろいろ訊きたいことがあるんだが」
「えっ! なにを……」
「君が俺をどう思っているのか。あとは……純情可憐とはどういう意味だ? とか」
「……っ」
あ、これはめちゃくちゃ追及されるやつでは?
ここで「言葉の通りです」と言える度胸はなくて、私は現金にも去ったばかりの友護君に戻ってきてと言いたくなった。
それは最も理解ができない感情のひとつで、理屈で説明がつかないものには憧れよりも苦手意識の方が強い。
容姿が整っている人や知的で美しい人を見ても心が動くことはなく、皆が言うような特別な感情というものがいまいち理解できずにいた。
恐らく生まれたときから許婚がいたという特殊な環境の影響もあるのだろう。よそ見をしてはいけないという考えが幼い頃から清雅に根付いていたのだ。
けれど結婚式の当日に初対面の紫緒と出会ったとき、清雅は不思議と彼女の視線の強さに惹きつけられた。
常識的に考えれば式の直前に花嫁を交換など到底受け入れられない話だ。
一旦式は中止にし、両家の話し合いの上で今後を決めるべきだろう。
人生を左右する大きな決断を勢いでするなどありえない。慎重に考えるべきなのはわかっている。
だが、何故だろう。
直接交渉をしに来た紫緒を見ていたら、ここで彼女との縁が切れるのは惜しいと感じてしまった。
理由を訊かれたら、なんとなくとしか答えようがない。
自分らしくないとも思ったが、こういうときの清雅は己の勘に従うことにしている。
とはいえ巻き込まれた紫緒が可哀想だと思った。ならば彼女の納得がいくように逃げ道を用意したらいい。
婚姻期間を設けて契約を交わし、仕事上のパートナーのように彼女を扱う。
婚姻中の生活は同居人として適切な距離を保ち、二年後に離婚するという合理的な選択だ。
曾祖父同士の約束は物心がついたときから繰り返し聞かされたものだ。
何故そこまでして? という疑問が生まれるたびに、曾祖父が戦時中に生き残れたのは彼の親友のおかげだという話を思い出していた。
紫緒の曾祖父は白藤にとって命の恩人だそうだ。ならば子孫として、ふたりが交わした約束を守る義務があるのも当然だろう。
もしもその約束を反故にしたら、清雅は一生後ろめたい気持ちを抱えたまま生きることになる。
元々許婚がいたからこそ好きな相手を作らず、恋愛感情に意識を向けずに生きてきた。誰かを愛するという感情はいまいちよくわかっていない。
一度蓮水と縁を結ぶと決めたことはやり通すつもりだ。
けれど離婚してはいけないとは言われていない。
自分でも常識を疑うような提案を口にしてでも、紫緒との縁が切れるのを惜しいと思った理由が知りたくなった。
――美しい女性には見慣れているのだけどな。
彼女の容姿に惹かれたのだろうか?
他の女性にはなにも感じないが、紫緒のことは素直に美人だと思った。もしかしたら白無垢姿に目を奪われただけかもしれない。
平日の夜にはじめて会ったときは印象が異なると思ったが、地味だとは思わなかった。
生き生きとした目の強さから生命力まで感じられた。はっきりとした意志の強さ感じ取っていたのかもしれない。
だが薬指になにもつけていないのを確認すると、清雅はモヤッとした気持ちを抱いた。
自分は結婚指輪をつけているが、彼女は外していたのだ。面白くないと思った感情は、今思い出すと無意識の独占欲のようなものだったのだろう。
紫緒と暮らしはじめてもストレスを感じることはなかった。
踏み台に乗った紫緒が足をふらつかせて抱き留めるというアクシデントはあったが、あのとき感じた彼女の身体の柔らかさを今でも鮮明に思い出せてしまう。
――あれはセクハラではない、不可抗力だった。
柔らかな胸の感触や腰の細さに、髪の匂いまでが清雅の理性をかき乱した。
女性を抱きしめたいなんて今まで思ったこともなかったのに、自分にそんな欲望があったことを恥じた。
接触してドキドキしただけではない。彼女は常に清雅に驚きや気づきを与えてくれる。
抹茶にアイスを入れた予想外の行動や、デートに固定観念は不要だと言われたこと。食事はひとりより二人の方がおいしく感じることなど、紫緒が一緒にいたから気づくことができた。
朝食を作るのは何年も続けているルーティンのひとつだ。今までは黙々と食べるだけだったのに、紫緒はいつもうれしそうに食してくれる。
手料理を食べてくれることがむず痒くて、胸の奥が満たされることをはじめて知った。
彼女は親身になって話を聞いてくれて、リラックス方法を教えてくれる。いつしか紫緒と過ごす時間が穏やかで安らげるようになっていた。
きっと自然と手を握りたくなったときから、清雅はもう紫緒のことが特別な存在になっていた。心拍数が上がっていた時点で身体は恋を自覚していたのだ。
――恋を自覚したから、酒に酔って彼女を膝に乗せたんだな。
外では気を張っているためめったに酔わないが、家の中ではコントロールが難しい。まさかワイングラス二杯で酔うとは思わなかった。
胸の中にふたたび彼女を閉じ込めたとき、ずっとこうしていたいと感じた。あのまま唇を奪わなかっただけの理性が残っていてよかったと安堵する。
――酔った勢いのままキスをするなんて最低だからな。
そして深く息を吐いた。
――そもそも彼女にキスをできる権利が俺にはない。
恋心を自覚した途端に失恋が確定するなんて、自業自得だとわかっているが笑えない。
契約書には二年後に離婚をすると明記している。自分から持ち掛けたのだから、それを覆すことはできない。
――どうしたら二年後もずっと、彼女と過ごせるようになるだろう。
他の男に笑顔を見せたくない。想像だけで見知らぬ男に嫉妬する。
無防備に赤くなった可愛い顔を見せないでと約束させるなんて、独占欲の塊ではないか。
彼女は引いただろうか。酔っ払いの戯言だと思ったかもしれない。
――もしくは俺の本心を垣間見たと思ったかもしれないな……何事もなく接してくれているのはありがたいが。
ぎこちない空気は感じていない。だが紫緒はどう思っただろう。
彼女の心が知りたい。でも確認する勇気はない。
恋をすると人は臆病になるという話は本当だった。誰かに嫌われる恐ろしさを感じる日が来るなんて思ってもいなかった。
毎晩「おやすみ」と告げてから自分の寝室に入った途端、すぐに踵を返して彼女の顔が見たくなる。
今までひとりでいる時間を寂しいと感じたことは一度もなかったというのに、たった数分別室にいるだけで無性に寂しさがこみ上げるのだ。
――こんな状態で円満離婚なんてできるのか?
紫緒の隣を譲りたくない。一番近くで彼女の笑顔を見ていたい。
眠る瞬間まで、清雅は紫緒のことを考える。好ましいところはいくつもあるが、恋に落ちる現象は理屈では説明できないらしい。
家同士の約束は絶対だと思っていた自分と、抵抗しようとしていた彼女。
明るくて逞しくて、他者を思いやれる優しさに惹かれているのだろう。
清雅の予定調和な人生を彩ってくれそうな強さも、清雅には持ち合わせていないものだ。
――ああ、ダメだな。紫緒のことを考えていると、無意識に笑ってしまう。
優しい時間を手放したくないなら、まずはなにをするべきだろうか。
――紫緒が俺を好きになってくれたらいいのに。
離れたくないと思わせればいい。そうしたら離婚も無効にできるのではないか。
少しでも彼女の心に自分を住まわせたい。
――そうだ。明日の朝食は紫緒の好物を作ろう。
彼女が喜んで食べてくれるなら作り甲斐がある。
けれど翌朝、紫緒は珍しく時間ギリギリに起床した。
「体調が優れないのか? 顔色があまりよくないようだが」
「ううん、ちょっと寝つきが悪くて……あ、ごめんなさい。朝食作ってもらったのに食べる時間がなくなっちゃった。これは夕食にいただきますね」
紫緒は手早く朝食にラップをかけて冷蔵庫にしまっていた。
――視線が合ってもすぐに逸らされる。気のせいでなければ態度がよそよそしい。
週明けから微妙に心の距離を感じている。
日曜日は白藤の家に招いたが、そこでなにか不快なことでもあったのだろうか。
――緊張はしたが楽しかったと言っていた。両親に持たされたお土産にも喜んでいたようだったが、建前だったのだろうか。
女性の心がわからない。
自分がなにかをしたわけではなく、職場で気になることでもあるのだろうか。
「車で送ろう」
「いいえ、大丈夫! 今日は電車で行くので」
「昨日も電車だっただろう」
彼女は月曜、火曜と電車で出勤している。だが会社に提出している通勤方法は電車だと言われてしまうと、清雅も強くは言えない。
まさかと思いたいが、彼女から避けられているのではないか。
そう思った瞬間、清雅は玄関へ向かう紫緒の手を握っていた。
「紫緒、俺はそんなに頼りないだろうか」
「え……?」
「君がなにかを悩んでいるなら俺に相談してほしい。ただ話を聞くだけしかできないかもしれないが、ひとりで考えこまないでほしい」
抱き寄せて彼女の不安を取り除きたい。
けれどそれをする権利が今の自分にないことがもどかしくなった。
――契約夫を盾に強行できるが、それはなんとなく嫌だ。誠実ではない。
キュッと手が握り返された。
そんな些細なことで、清雅の心臓がドキッと跳ねる。
「ありがとう、清雅さん。ちょっと仕事がバタついているだけなんだけど、今夜も一緒にご飯を食べて食後のお茶を飲んでくれる?」
身長差があるのだから、上目遣いになるのは当然だ。
だが何故彼女に見つめられると、胸の奥が甘いものを食べたような気持ちになるのだろう。
「……もちろん。遅くならないように帰宅しよう」
「ありがとう」
笑顔でごまかされた気もするが、深追いするつもりはない。
「……余裕のない男はみっともないしな」
パタン、と閉じられた玄関を見つめたまま、清雅はしばらく動けずにいた。
◆ ◆ ◆
……朝からごまかしてしまった。
電車に揺られながら、罪悪感がこみ上げてくる。
なにも悪くない清雅さんの表情を見ていたら心の中を明かしたくなったけれど、私にも言いにくいことはあるのだ。
それが自分だけの問題じゃないならなおさら慎重になるべきで、もう少し様子見をしようと考えていた。
というのもこの二日間、清雅さんの弟である友護君から頻繁にメッセージが届いている。
連絡先を交換したのはなにかあったときの、いわゆる緊急連絡先の感覚だった。
早まったかもと思ったのが、ふたりきりになったときの友護君に言われた一言。
清雅さんと離婚して自分と結婚しようだなんて、冗談にしか聞こえない。
当然本気にするはずもなくて、「ごめんなさい。私は清雅さんをお慕いしていますので」ときっぱり断ったのだけど、どういうわけか彼から頻繁にメッセージが届くようになった。
人を寄せ付けない空気がある清雅さんとは違って、友護君は人懐っこい。常に人が周りに集まるような魅力がある。
だからだろうか。メッセージも押しつけがましくない。
女性に人気のカフェやレストランを『ここ、女子会におすすめ』と、有意義な情報をくれたり、『そういえば兄さんは○○が好きだよ』なんて、清雅さんの情報まで教えてくれる。
自分語りやアピールなら辟易したかもしれないけれど、短文で簡潔に私の興味を引く話題を持ってくるあたりイケメンって恐ろしい……! と震えてしまった。
正直に言って清雅さんの情報はいくつあっても困らない。
兄弟の思い出話とかもできれば聞かせてほしいって思っちゃうわけで……理性と欲の間で葛藤していたのだ。
でも契約夫の弟と親密になるべきではない。ただの情報提供だとしても、清雅さんが知ったら不快に感じるかもしれない。
そしてなにより友護君の真意が読めない。
彼は一体なにを考えているのだろう。
もしかして彼は私の清雅さんへの愛を確かめているとか?
このメッセージのやり取りも、私がどこかでボロを出さないか見極めているんじゃないだろうか。
もう少し様子を見ておこうという気持ちと、ふたりの兄弟仲がいいのかどうかを探って報告しようと思っていたのだけど……今朝の彼を見ていたら、今すぐにでも気持ちを吐き出したくなった。
なにか悩んでいるなら頼ってほしいと思ってくれていたなんて優しすぎる。
「せっかくのだし巻き卵が……」
あれこれ考えすぎて寝付けず寝坊して、せっかく清雅さんが作ってくれた朝ご飯を食べ損ねるなんて……! もったいないことをした。
彼の心配そうな表情を見ていたら、胸の奥がギュッと収縮する。
ふと、左手の薬指に嵌められた結婚指輪に視線を落とす。
シンプルなデザインで年代問わずに使えるものだけど、ほんのり複雑な感情がこみ上げてきた。
清雅さんが言っていた通り、これは私のために用意されたものではない。
指輪を付ける習慣がないからと、婚約指輪の代わりにペンダントをいただいたけれど、目に見える場所に私だけの指輪がほしくなってきた。
でも離婚したら結婚指輪も返すんだよね……なにもつけていない指を見ていたら切なくなりそうだ。
「好きになったので、離婚は考え直しませんか?」なんて、私から言われたら清雅さんは絶対困る。
伝えた瞬間から失恋が確定して、残りの時間を気まずい空気のまま過ごしたくはない。
でも今夜はしっかり話し合おう。
友護君との関係を探りつつ、彼からちょくちょく連絡が来ていることを伝えて、今後どう接するべきかを相談したい。
突発的な残業が入らないように気を付けて仕事に集中し、私はこの日も定時過ぎに帰宅した。
◆ ◆ ◆
食後のお茶係は私の仕事だったのだけど、今日は清雅さんがお茶を点てると言い出した。ここでのポイントは淹れるではなく、点てる、だ。
「今さらだけど、お抹茶って飲む時間は決まってないの?」
「飲みたいときでいいんじゃないか」
未だに作法がわからないまま一口味わった。とても奥深い味わいだ。苦味の中にも甘味があって、脳をスッキリさせてくれそう。
「君の好きなアイスクリームも用意している。入れるだろう?」
清雅さんがバニラアイスのカップとスプーンを渡してくれた。
すごくうれしいけれど、邪道なことを覚えさせてすみませんという気持ちもこみ上げてくる。
「清雅さんって心が広いよね……多分他の人は、こんなことをされたら怒ると思う」
「俺は特に拘りはないよ。紫緒がおいしく食べてくれる方がうれしい」
「……っ!」
今の微笑はシャッターチャンスだった。手元にスマホがないことが悔やまれる。
抹茶アイスがちょうどいい甘さでおいしい……でも清雅さんの微笑の方が甘くて胸の奥がくすぐられた。
「ごちそうさまでした」
食べ終わった器をテーブルに置いた。
食べているときは心も満たされていたのに、空っぽになった器を見ているとそわそわと落ち着かない。
「洗い物してきますね」
器を片付けようとソファから立ち上がった瞬間、手首を握られた。
「後で俺がやる。それよりも君の話が聞きたい」
「え……っ!」
清雅さんに腕を引き寄せられた。そのまま彼の膝に乗せられて、身体を抱きしめられる。
「……っ! まさか、お茶にアルコールが?」
「入れるわけがないだろう」
「じゃあこの体勢は一体……!」
以前清雅さんの膝に乗せられたときは、ワインを飲んだ後だった。グラス二杯で酔っていて、何故かバックハグをされたのだ。
素面でこれってどういうこと? 頭の中がぐるぐる回る。
「……俺に抱きしめられるのは不快か?」
どことなく緊張が混じった声だ。腹部に回った腕に力が込められた。
お酒が入っていない状態のときは手を握る程度の接触しかしていない。でも意識的に私を抱きしめたいと思ってくれたのなら素直にうれしい。
「不快なんか感じません。むしろ安心する」
「安心?」
「清雅さんの香りに包まれているみたいで、なんだかホッとするというか。癒し効果でも出てるとか?」
相性がいい相手の香りは好ましく感じるらしい。清雅さんは香水をつけていないはずだけど、とても落ち着く匂いがする。
「安心……それは喜んでいいんだろうか」
ほんのり眉間に皺を寄せて考えこむ表情もセクシーだ。なにに葛藤しているのかはわからないけれど、私は甘えるように彼の胸に肩を寄せた。
「重くない?」
手を絡めながら尋ねる。清雅さんは指の先まで綺麗で、爪の手入れも怠らない。
「重くないよ」
声が優しくて、胸の奥がざわつきだした。羽先で優しくくすぐられたかのよう。
私とお揃いの結婚指輪をつけているのを見ていると不思議な感情になる。これも一種の独占欲なのだろうか。
目に見える繋がりがうれしい。
たとえ離婚予定だったとしても、契約期間内はこの美しい男性を独占できるのだから。
「ここ数日、君の様子が少し気になっていた。なにか悩み事があれば遠慮なく俺にも相談してほしい。俺では頼りにならないかもしれないが」
「そんなことは! 清雅さんが頼りにならないなんて思ってな……」
「よかった。それなら話してくれるな? 君の頭を占めているものは一体なんだ?」
……あれ、誘導尋問だった?
キュッと手を握られると、なんでも素直に白状しそうになる。
これも惚れた弱みなのか、私は清雅さんの一挙一動に翻弄されていた。
「あの、悩み事とかではなくて、ちょっと気になったことがある程度で」
「うん」
ギュッと恋人繋ぎにされた。触れ合う面積が増えるだけで、私の鼓動が速まる。
「清雅さんは……兄弟仲はどんな感じなのかなって」
「俺と友護のことが知りたいのか?」
さすがに離婚したら結婚云々までは言えない……ふたりの仲を探ってから、連絡が来ていることを伝えたい。
「兄弟仲は普通じゃないか。四歳離れているから喧嘩をしたこともないな。友護は子供の頃から誰にでも好かれて愛される可愛い弟だよ」
その可愛い弟さんが私に近づく意図は一体……?
お茶会でも友護君は清雅さんを嫌っているようには見えなかった。むしろ見えない尻尾を振っていたようにすら思えた。
やっぱりなにか裏がありそう。
私に近づく理由は私を怪しんでいるからかもしれない。
「喧嘩をしたこともないなんて羨ましい。私は弟としょっちゅう喧嘩してたので」
「君の弟さんにも挨拶がしたいな。予定が合わなくてまだご家族と会えていないだろう」
本来であればすぐにうちの実家に挨拶に行くべきだったのだけど、両親の体調不良や仕事のスケジュールが合わなくて、電話で話すことしかできていない。
「また都合のいいときにぜひ」
「それでどうして友護のことが知りたいんだ? なにか嫌なことでも言われたのか」
「いいえ、そういうわけでは。ただ、私って白藤の皆さんから歓迎されなくて当然じゃないかなと。やっぱり七菜香じゃないなら結婚は白紙に戻すのが筋だと思うので」
すんなり受け入れられる方が特殊なのだ。当人がよくても普通はもっと家族が反発するはずだ。
白藤の監視の目というのは、私がなにか粗相をやらかしたらすぐに離婚できるように見張っているのではないか。
問題がある嫁だと発覚したら白藤家が介入するだろう。
ちなみに七菜香には何度もメッセージを入れているが、未だに既読にならない。祖父が大丈夫だと言っていたけれど、どこでなにをしているのかも気になっている。
「家族は皆、もし七菜香さんになにかあった場合は君が俺の花嫁になることを理解していた。蓮水の孫娘はふたりいるのだから当然だろう」
なんですって? 私は寝耳に水でしたが。
やはり白藤では私の経歴も把握済みだったそうだ。
「あとは当人同士の問題で、判断は俺に委ねられていた。だから両親は口を出してこなかった。だが、友護がどう感じていたのかまではわからないな」
「なるほど……一応、友好的ではあるかなと。ちょくちょく連絡がくるので」
「は? 友護から?」
大した内容ではないことを前置きして、女子会に使えるオススメのカフェやレストラン情報や、清雅さんとの思い出を世間話程度に教えてもらったことを話した。
手元にスマホがなくてよかった。さすがに清雅さんは私にスマホを見せろとまでは言わない。
「あまり取り合わなくていいから。君の時間を友護に使わなくていい」
ギュッと胸に抱き寄せられた。
なんだか清雅さんから独占欲のようなものを感じる。
「もしかして、嫉妬とか?」
「嫉妬?」
「ごめんなさい。調子に乗りました」
そんな私に都合がいいことがあるはずない。
なにやら考えこんでフリーズしてしまった隙に、私は清雅さんの手をもう少し堪能することにした。
◆ ◆ ◆
白藤家に訪問後、監視の目は途絶えたように思われた。
けれど藤枝さんから油断はしない方がいいとの助言を受けたので、週末は積極的に清雅さんと外に出かけるようにしているのだが……。
「やあ、兄さんと紫緒さん。待ってたよ」
うちのマンションのロビーに友護君がいた。
「友護? どうしてここに。訪問の連絡は受けていないが」
「うん、急に思い立って来ちゃった。俺もふたりのデートにお邪魔させてもらおうかなって」
……はい?
アポなしで突撃されて驚いているのに、まさかデートに乱入とは……一体どういうつもりなのだろう。
「カフェでお茶に付き合ってくれたら十分だよ。邪魔者はすぐ退散するからさ」
一日中付きまとうつもりはないらしい。
清雅さんは遠慮がちに私に尋ねる。
「追い返していいだろうか」
「追い返す一択なの?」
てっきり一緒に同行してもいいかと許可を取るのかと思ったのに、逆だった。
清雅さんの気の使い方が容赦なくて笑いそうになる。
「せっかく来てくれたのだから、一緒にカフェに行きましょう」
数日悶々と考えていたけれど、友護君の真意なんて私が知る由もない。
真向から確認できた方がスッキリするので、彼の方から来てくれてよかった。
「友護、優しい紫緒さんに感謝するように」
「うん、ありがとう兄さん! 俺、紫緒さんとももっと仲良くなりたいからうれしいよ」
爽やかなイケメンの笑顔には腹黒さなど一切感じられない。なんという陽の気……彼には太陽に向かって咲くひまわりがよく似合う。
急に清雅さんに手を握られた。この行動の真意もまだ掴めそうにない。
「ふたりとも結構仲良しだね」
世間話をしつつ、私たちは友護君のおすすめのカフェに連れて行かれることになった。
駅から徒歩数分にあるカフェは広々としていて、開放的な造りだった。モーニングも有名らしく、午前中から人が賑わっているらしい。
ゆったりしたソファ席に案内された。
お昼時だけどタイミングがよかったようだ。
「ここのオススメはエッグベネディクトとオムライス。パニーニとコブサラダもおいしいんだって」
友護くんはSNSでの情報収集が早い。そしてこのカフェの拘りは本格的なコーヒーだった。
「清雅さん、なに食べたい? サラダとパニーニを頼んでシェアすることもできるけど」
「いいね。そうしようか」
飲み物はオススメのコーヒーを三つ。友護君はオムライスのランチセットを頼んだ。
飲み物が運ばれてコーヒーを味わう。
友護君からは私と清雅さんの仲を怪しんでいる気配は感じない。
でも食事をはじめた段階で、彼はサラッととんでもない質問を投げてきた。
「ふたりとも円満離婚するつもりでしょう。いつの予定?」
「……っ!」
びっくりしすぎて手に持っていたフォークをテーブルに落としてしまった。
「紫緒さん、動揺しすぎ」と笑いながら、友護君は店員を呼び止めて新しいフォークを貰っている。
「ありがとう……」
お礼を言うけれど、心臓のドキドキは落ち着かない。
円満離婚の予定なんて私は一言も話していない。
「友護、どうしてそんなことを訊くんだ」
清雅さんの表情はぴくりとも動いていなかった。
静かに尋ねる姿が頼もしい。
「どうしてって、俺は兄さんの考えそうなことくらいわかるよ。急に不本意な結婚をさせられて可哀想に思った紫緒さんに逃げ道をあげようと、期間限定の結婚を持ちかけたんでしょう? その間の衣食住の面倒は見るし、一旦結婚しちゃえば両家は大人しくなるからとでも言って」
す、鋭い……!
長年清雅さんの弟をしていただけある。
「だからカモフラージュのデートなんてしなくていいと思うよ。家の目があるから外に出かけるようにしているんだろうけど、俺がその役目を引き受けるから」
ぴくん、と清雅さんの肩が反応した。
隣に座っていてもわかるくらい、彼の空気が冷ややかになる。
「引き受けるとは? 友護、なにを考えているのか説明しろ」
「離婚したら紫緒さんを俺にちょうだい?」
清雅さんの威圧感に負けずに笑顔でとんでもないことを言える神経がわからない。
人たらしな大型犬だと思っていたけれど、彼は十分腹黒いのではないか。
「あの、冗談はその辺で……」
思わず口を挟んだ。サラダを食べている場合ではない。
「えー、冗談じゃないよ。俺、紫緒さんに一目惚れしたもん。結婚式で兄さんの隣に立ってた紫緒さん、すっごい綺麗だったね」
オムライスをぺろっと完食して褒められたけれど、どうも台詞が薄っぺらい。感情が込められていない褒め言葉なんて胸に響かないらしい。
清雅さんに「綺麗だ」と言われたら、一日中気持ちがふわふわして落ち着かなくなる自信がある。
それは言葉に込められた感情の重みが違うからだろう。
「兄さんは紫緒さんのことが好きなわけではない。好きだったとしてもそれを婚姻中に伝えることはしない。だってもしも期間限定の結婚を持ちかけたのが兄さんなら、自分から反故にすることは言わないもんね? 嘘はつけない誠実で正直者だから」
「……」
兄弟って厄介かもしれない。相手の性格を把握しすぎている。
私がもしも清雅さんに好きだと伝えても、彼は拒絶する可能性が高いのだと気づいてしまった。
自分から持ち掛けた契約を簡単に反故にはできない人だとわかったから。
「友護君は私のことが好きじゃないのに、どうして私に気があるふりをするのですか? 言葉が薄っぺらくて感情がこもっていない。まるで別の意図があるみたい」
「なんのこと? 俺はただ紫緒さんが奥さんだったらいいなって思っただけだよ」
似てない兄弟だと思っていたけれど、ポーカーフェイスを作りたがるところは少し似ている。
清雅さんは真顔で冷静沈着、友護君は笑顔で感情を覆い隠す。
普通は家同士が決めた面倒くさい結婚に、自分が巻き込まれなくてよかったって安堵するはずだ。私だって七菜香には悪いけれど、長男の娘じゃなくてよかったと思っていた。
それなのにわざわざ自分から立候補するなんて、よほどメリットがないとしないだろう。
白藤側に金銭的な問題はない。この結婚にメリットがあるのは蓮水の方だ。
それなら友護君が私と結婚したがる理由はひとつ。
清雅さんの解放ではないか。
「そっか、お兄さんを自由にさせてあげたいのね。友護君は清雅さんが大好きなんですね」
「な……っ!」
はじめて彼の表情が崩れた。
薄々気づいていたけれど、彼は多分ブラコンだ。だとすると、私が邪魔だと思うのも納得がいく。
でも私も清雅さんが好きなので、ここで負けるわけにはいかない。
「清雅さん」
「……っ」
話を聞いていた清雅さんの首に腕を回して、頬にキスをした。
幸い隣の席とも距離があり、ちょうどいい場所に観葉植物も置いてあるため、誰かに見られた気配はない。
「な……なにすんだあんた」
不愉快な顔を隠しもしない。友護君の口調も崩れていた。
驚いたまま硬直している清雅さんの手を握り、私は友護君に微笑む。
「ご心配なく、私たちはとっても順調な新婚夫婦なので。ね? 清雅さん」
「紫緒……」
清雅さん耳がほんのり赤い。
僅かに刻まれた眉間のしわがセクシーで、これは恥じらいを我慢している顔だと気づいた。
ちょっと可愛すぎるんですけど?
照れているのを気づかれたくなくて頑張って無表情を貫こうとしている?
シャッターチャンスだ。これは写真に残しておかなくては! と、私が内心歓喜していると、仮面を脱いだ友護君は静かに激怒する。
「ふざけんなよ、あんたみたいな女に兄さんは釣り合わないんだよ。俺の兄さんを誑かすんじゃねえ」
「誑かしてなんていませんけど」
むしろどうやったら清雅さんを誑かせるの。その方法を教えてほしい。
「いいから離婚しろよ、パパ活女!」
「パ、パ……⁉ したことありませんが!」
学生時代の嫌な記憶が蘇る。
たまたま家族とホテルのランチを食べたところを同級生に見られて、パパ活をしているという噂を流されたことがあった。母と弟と別行動中に、父と歩いていただけで勘違いをされたらしい。
年齢より年上に見られやすい顔立ちだったのと、派手な容姿のせいで噂が独り歩きをした。私は母似なので父とも似ていない。
それから私は勘違いをする同級生たちの相手をするのをやめた。否定したって信じる気がないのだから、無駄な労力である。
「あんたみたいな派手な女が純情可憐な兄さんに釣り合うはずがないだろう。七菜香さんならよかったのに、俺の兄さんを穢すなよ!」
「純情可憐には同意しかないし釣り合わないというのも理解できるけれど、清雅さんを穢しているつもりはありませんっ」
やっぱりこの男はブラコンだった。
清雅さんの隣に立つ女性は、七菜香みたいな黒髪清楚なお嬢様がよかったって思っているらしい。
「兄さんがあんたみたいな派手な女を好きになるはずがないだろう!」
「……っ」
嫌なことを指摘された。
反論できる材料がなくて、咄嗟に言葉を飲み込んだ。
「謝りなさい、友護。彼女を侮辱する言葉は許さない」
清雅さんが私の肩を抱き寄せた。ぞくっとすると冷たい声だ。
彼は静かに怒る人だというのをはじめて知った。
「……兄さんが俺を怒った……?」
友護君が呆然とショックを受けている。
そういえば仲はいいと言っていたし、今まで清雅さんが友護君を叱ったことはなかったのかもしれない。
「ちが、俺は兄さんが大事で……っ」
「お前は今、俺の大事な人を貶したんだ。勝手な思い込みで妻を侮辱されて怒らない夫がどこにいる。自分が言ってはいけないことを言った自覚はあるんだな?」
「……っ! ごめん、なさい」
「それは誰に対しての謝罪だ? 頭を下げるべきは俺じゃないだろう」
淡々と正論で詰めていく様をハラハラしながら見守る。
清雅さんが私を庇ってくれた。この人は静かに正論で相手を詰めていく怒り方をするらしい。
感情的に怒られるより、こっちの方が怖いかも。
私の背筋も自然とピンと伸びていた。
「すまない、紫緒。もう帰ろうか」
「え、ええ?」
「君をこれ以上不快にはさせたくない」
私のことを最優先にしてくれるのはうれしいけれど、ここで帰ったら兄弟仲が拗れるのでは? 仲のいい弟と私のせいで溝ができてしまうのは嫌だ。
「清雅さん、待って。もう少し話を聞きましょう? 友護君はちょっとブラコンが拗れているだけだと思うから」
「ブラコン?」
さすがに言葉の意味はわかるよね? とは訊きにくい。
友護君は複雑な表情で顔を赤くしていた。
ブラコンだなんて余計なことを、と視線だけで文句を言われているようだけど、今は痛くも痒くもない。
「……外見で判断して嫌なことを言ったのは悪かったよ。でも、俺はまだ認めていない。もしかしたら兄さんが騙されているかもしれないだろう?」
「それのなにが悪いんだ?」
……はい?
予想外の返しを聞いて、思わず清雅さんを凝視する。
もちろん私は騙してなんかいませんけど! でも、今のは私になら騙されてもいいと言っているようにも聞こえた。
「ちょっと兄さん、なにを言って……」
「それにこれ以上は俺たちの問題だ。お前には関係ない」
「関係ない……⁉」
友護君がふたたびショックを受けた。
ブラコンなのに大好きなお兄さんからそんなことを言われたら、顔面蒼白になるのも仕方ない。ちょっと涙目になっている。
「お前は俺が彼女を好きになるはずがないと言っていたが、それは違う」
清雅さんは私に視線を移す。
冷たい双眸がふわりと温かなものに変わった。
甘さのある眼差しが私の胸をドキッと高鳴らせた。
「俺はとっくに紫緒を愛している。だからお前が入り込む隙はない」
「……っ!」
聞き間違い……ではない。
今はっきりと、清雅さんに愛の告白をされた。
どうしよう、私も言わないと。
このタイミングを逃したら、次はいつ気持ちを伝えられるかわからない。
「わ、私、もです……」
顔が一瞬で熱くなった。
たった一言伝えるのが精いっぱいで、心臓が痛いくらい早鐘を打っている。
甘く微笑んでくれる清雅さんが美しすぎて直視できない……!
「……嘘だ。絶対勘違いだ」
コーヒーを飲み終えた友護君は、苦虫を嚙み潰したように口を挟んだ。
「俺は絶対認めないからな!」
捨て台詞を吐いた後、彼は颯爽と出口へと去っていく。その手には伝票が握られていた。
「お会計は……」
「迷惑をかけた自覚があるんだろう。ここは友護に奢られていいと思う」
律儀なところは白藤の教育の賜物かもしれない。
多分本当にブラコンを拗らせているだけで、私が嫌いなだけだ。
「そ、そう……」
急に甘酸っぱい空気が漂いだした。
ちょっとふたりきりになるのが恥ずかしい。
「紫緒、帰ったらいろいろ訊きたいことがあるんだが」
「えっ! なにを……」
「君が俺をどう思っているのか。あとは……純情可憐とはどういう意味だ? とか」
「……っ」
あ、これはめちゃくちゃ追及されるやつでは?
ここで「言葉の通りです」と言える度胸はなくて、私は現金にも去ったばかりの友護君に戻ってきてと言いたくなった。