春は、香りとともに。



「しの……こ……」

 意識の彼方で繰り返すその呼び名は、眠りの底にしみこんでゆく。
 文子ではなく、志野子。

 無意識のうちに、惟道の心は今この時をともに生きる人の名を呼んでいたのだった。


 夜が更けて、雨は静かに窓を叩いていた。

 惟道がゆっくりと目を開ける。
 枕元に座る志野子の顔が、ぼんやりと揺れる灯りの中にあった。


「志野子……」


 彼の声は掠れていたが、間違いなく、彼女の名前だった。
 初めて“名前”で呼ばれたその瞬間、志野子の胸は高鳴り、頬がじんわりと熱くなった。


「はい、ここにいます」


 静かに微笑んで答えると、惟道は不安そうに彼女の手を求めた。

 志野子の指先に、彼の指がそっと絡む。
 冷たくはない、むしろ暖かく感じられるその手のぬくもりに、ふたりの距離は一気に縮まった。


「ありがとう……」


 惟道の声は弱かったが、確かな感謝が込められていた。

 雨音がゆったりと窓を揺らし、部屋に優しいリズムを刻む。

 ふたりは言葉を交わさずとも、そのぬくもりを確かめ合った。


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