その一杯に、恋を少々
第3話「混ぜない勇気」
翌朝。試作室の空気は、少しだけやわらいでいた。
「あ……おはようございます」
綾子がドアを開けると、海人がすでにカウンター前に立っていた。すでにドリップを終えたらしく、芳醇な香りが室内に漂っている。
「……寝癖、残ってるぞ」
「は?」
「右の横。ぴょんって」
綾子は急いで髪を押さえた。寝癖のことを指摘されて怒る暇もない。なにこの妙な距離感。
「昨日、黒糖の濃度を再調整してみた。ブレンドは沖縄の純黒糖と、鹿児島産の粗糖。柚子は生皮のみ、果汁はなし」
「……素材オタクめ」
口ではそう言いながらも、カップに鼻を近づける。
柚子の皮から立ちのぼるほのかな苦みと、黒糖のやわらかな甘さ。それがミルクと混ざり合う、ぬくもりのある香り。
「……おいしい」
素直に出た一言に、海人はほんの少しだけ、目元を和らげた。
「でも、甘さがちょっと物足りないかも。これ、女性ターゲットには弱くない?」
「砂糖を足したら、香りが死ぬ」
「またそれか」
綾子は、もどかしさを感じながらも、ふと思う。
(でも、それが彼の“軸”なんだよね)
***
その日の午後、悠生が提案した新しいブレンドを試すことになった。
「俺、昨日ちょっと試してみたんです。柚子を粗く刻んで煮詰めて、そこにミルクと混ぜると……」
「混ぜるな」
海人が食い気味に止める。
「……え?」
「香りは、混ぜないほうが立つ。混ざりきらないグラデーションが、飲んだ時に“香りの層”になる」
「層……?」
綾子も初めて聞いた言い回しだった。
「例えば、抹茶ラテでもそうだ。混ぜ切らないほうが、飲む人が最後まで味の変化を楽しめる。最初から混ざった状態では、一本調子になる」
「つまり、混ぜない勇気がいるってこと?」
「そういうことだ」
海人が真剣にうなずいた時、有里がぽそり。
「“混ざらない二人”って感じ、ですね」
「……誰のこと?」
綾子がジト目を向ければ、有里はにこっと笑って、「ご想像におまかせします〜」と流す。
***
夕方。試作室には、再び綾子ひとり。
静かな室内で、彼女は一人黙々とドリンクを淹れていた。
「香りの層、ね……」
試しに、黒糖と柚子ピールを別々に加えたミルクを注いでみる。混ざっていないが、香りはどちらも際立つ。甘さもやさしい。
「……なるほど」
その瞬間、背後の扉が開く。
「――お。いると思った」
振り向くと、海人が立っていた。
「残業?」
「趣味」
「そっちも?」
「当然だろ」
不思議と、今日は言い争いにならなかった。
「君のやつ、飲んでみてもいいか?」
「どうぞ」
カウンター越しに渡したカップを、彼は一口、ゆっくり飲んだ。
「……悪くない」
「ほんと?」
「柚子を混ぜすぎてないのが良い。黒糖の甘さも立ってる。バランスがいい」
「でしょ?」
綾子は思わず笑みをこぼした。
「ただ――」
「ただ?」
「これ、混ぜようとしたら台無しになるな」
「え、なにその例え」
「“混ぜようとしない勇気”ってやつだ。相手と違うまま、そっと隣にいる感覚」
「……それって」
思わず言いかけて、綾子は口を閉じた。
“まるで私たちのことじゃん”なんて言ったら、あの頑固者にどう返されるか分からない。
「……ほんと、ややこしいドリンクね」
「でも、飲みたくなるだろ」
「うん。……何回でも、ね」
***
夜の試作室。カップの香りが静かに消えていく中、ふたりは同じ空間にいた。
混ざらないまま、でも、心地よく。
「あ……おはようございます」
綾子がドアを開けると、海人がすでにカウンター前に立っていた。すでにドリップを終えたらしく、芳醇な香りが室内に漂っている。
「……寝癖、残ってるぞ」
「は?」
「右の横。ぴょんって」
綾子は急いで髪を押さえた。寝癖のことを指摘されて怒る暇もない。なにこの妙な距離感。
「昨日、黒糖の濃度を再調整してみた。ブレンドは沖縄の純黒糖と、鹿児島産の粗糖。柚子は生皮のみ、果汁はなし」
「……素材オタクめ」
口ではそう言いながらも、カップに鼻を近づける。
柚子の皮から立ちのぼるほのかな苦みと、黒糖のやわらかな甘さ。それがミルクと混ざり合う、ぬくもりのある香り。
「……おいしい」
素直に出た一言に、海人はほんの少しだけ、目元を和らげた。
「でも、甘さがちょっと物足りないかも。これ、女性ターゲットには弱くない?」
「砂糖を足したら、香りが死ぬ」
「またそれか」
綾子は、もどかしさを感じながらも、ふと思う。
(でも、それが彼の“軸”なんだよね)
***
その日の午後、悠生が提案した新しいブレンドを試すことになった。
「俺、昨日ちょっと試してみたんです。柚子を粗く刻んで煮詰めて、そこにミルクと混ぜると……」
「混ぜるな」
海人が食い気味に止める。
「……え?」
「香りは、混ぜないほうが立つ。混ざりきらないグラデーションが、飲んだ時に“香りの層”になる」
「層……?」
綾子も初めて聞いた言い回しだった。
「例えば、抹茶ラテでもそうだ。混ぜ切らないほうが、飲む人が最後まで味の変化を楽しめる。最初から混ざった状態では、一本調子になる」
「つまり、混ぜない勇気がいるってこと?」
「そういうことだ」
海人が真剣にうなずいた時、有里がぽそり。
「“混ざらない二人”って感じ、ですね」
「……誰のこと?」
綾子がジト目を向ければ、有里はにこっと笑って、「ご想像におまかせします〜」と流す。
***
夕方。試作室には、再び綾子ひとり。
静かな室内で、彼女は一人黙々とドリンクを淹れていた。
「香りの層、ね……」
試しに、黒糖と柚子ピールを別々に加えたミルクを注いでみる。混ざっていないが、香りはどちらも際立つ。甘さもやさしい。
「……なるほど」
その瞬間、背後の扉が開く。
「――お。いると思った」
振り向くと、海人が立っていた。
「残業?」
「趣味」
「そっちも?」
「当然だろ」
不思議と、今日は言い争いにならなかった。
「君のやつ、飲んでみてもいいか?」
「どうぞ」
カウンター越しに渡したカップを、彼は一口、ゆっくり飲んだ。
「……悪くない」
「ほんと?」
「柚子を混ぜすぎてないのが良い。黒糖の甘さも立ってる。バランスがいい」
「でしょ?」
綾子は思わず笑みをこぼした。
「ただ――」
「ただ?」
「これ、混ぜようとしたら台無しになるな」
「え、なにその例え」
「“混ぜようとしない勇気”ってやつだ。相手と違うまま、そっと隣にいる感覚」
「……それって」
思わず言いかけて、綾子は口を閉じた。
“まるで私たちのことじゃん”なんて言ったら、あの頑固者にどう返されるか分からない。
「……ほんと、ややこしいドリンクね」
「でも、飲みたくなるだろ」
「うん。……何回でも、ね」
***
夜の試作室。カップの香りが静かに消えていく中、ふたりは同じ空間にいた。
混ざらないまま、でも、心地よく。