その一杯に、恋を少々
第4話「飲み込めない本音」
「結果、出てません」
その一言で、室内の空気が止まった。
営業会議室のスクリーンには、先日行った社内モニター試飲会のアンケート結果が映し出されていた。
平均点は3.6点(5点満点中)。可もなく不可もなく。話題性に欠け、印象が薄いというコメントが並ぶ。
「香りが良い、という意見はありましたが……“また飲みたいか”という項目では、半数が『どちらでもない』です」
綾子の声は静かだったが、こめかみに怒りの熱がこもっている。
「これは……“売れない”ということです」
「――数字だけ見て、味を捨てるのか」
海人の声が低く響く。
「“捨てる”なんて言ってない。改良が必要だって言ってるの」
「改良、ね。つまり、“香り”を抑えて、“甘さ”を増やす。そんなの、もう別物だ」
「別物じゃなく、“売れるもの”に近づけるって話よ!」
いつものような軽口ではない。綾子の声は、確実に怒りで震えていた。
「これまで、あんたの“こだわり”に付き合ってきた。黒糖にしたのも、混ぜすぎないって言うのも、飲みやすくしたくて何回も調整した。……でも結局、“自分の味”しか見てないじゃない!」
「それは――」
「もういい」
綾子は立ち上がり、スクリーンの電源を切った。
「今日は、ここまで」
***
「綾子さん、ちょっと……!」
試作室を出た綾子を追いかけたのは、凱だった。
「今のは……その、海人さんも言い方が……」
「わかってるよ。……でも、もう無理」
綾子は、廊下の窓に背を預け、ぽつりと吐き出す。
「なんかさ、努力したって、結局“あなたの感覚が正しい”って空気になるの。いつも、そう」
「綾子さん……」
「“美味しい”って、誰が決めるの? なんで彼だけ、信じられてんの?」
その声は、怒りよりもずっと静かで――
凱は、何も返せなかった。
***
その夜。オフィスに一人残った綾子は、デスクでひたすらモニターアンケートを眺めていた。
「“香りが立つが、印象に残らない”……何よそれ」
ひとりごとのように呟いた時、ドアがノックされた。
「……遅くまでご苦労さん」
海人だった。
「今さら何しに来たの」
「これ」
彼が手にしていたのは、紙コップだった。
「……甘酒?」
「黒糖と柚子に、少しだけ。アルコールは飛ばしてある」
「……試飲?」
「いや。君にだけ、飲んでもらおうと思って」
綾子は、じっと彼の目を見た。珍しく、まっすぐだった。
「飲んでみて。……今の君の気持ちに、一番近い味にしたつもりだ」
カップを受け取り、一口含んだ瞬間、涙が込み上げた。
あたたかくて、やさしくて、どこかほろ苦くて――
「あんた……なんで、そんなとこばっか正確なのよ……」
「偶然だ」
「嘘つけ」
彼女は唇を噛みながら、泣き笑いになっていた。
***
数分後。やってきた英里が、鼻をすんすんさせながら入ってきた。
「あれ? 二人とも泣いてます? ねえ泣いてるよね? なにそれ、ずるくない?」
「誰も泣いてない。出てけ」
「えっ、なんでぇぇぇぇ」
背後から悠生と有里も顔を出す。
「……匂いだけでわかる。これは、今までで一番の出来ですね」
「やっぱり甘酒のとろみ、正解だったな〜」
「甘酒が嫌いな私は、柚子部分だけいただきます〜」
騒がしい空気が、あたたかく広がっていく。
「……ありがとね、みんな」
綾子がぽつりとこぼした声に、海人がひとこと。
「……泣いたな」
「うるさい」
「顔、赤いぞ」
「お前もだよ!」
それは、言葉にならなかったけど、ずっと飲み込んでいた本音の味。
そして今、それが一杯のカップの中で、やっと溶けてゆく。
その一言で、室内の空気が止まった。
営業会議室のスクリーンには、先日行った社内モニター試飲会のアンケート結果が映し出されていた。
平均点は3.6点(5点満点中)。可もなく不可もなく。話題性に欠け、印象が薄いというコメントが並ぶ。
「香りが良い、という意見はありましたが……“また飲みたいか”という項目では、半数が『どちらでもない』です」
綾子の声は静かだったが、こめかみに怒りの熱がこもっている。
「これは……“売れない”ということです」
「――数字だけ見て、味を捨てるのか」
海人の声が低く響く。
「“捨てる”なんて言ってない。改良が必要だって言ってるの」
「改良、ね。つまり、“香り”を抑えて、“甘さ”を増やす。そんなの、もう別物だ」
「別物じゃなく、“売れるもの”に近づけるって話よ!」
いつものような軽口ではない。綾子の声は、確実に怒りで震えていた。
「これまで、あんたの“こだわり”に付き合ってきた。黒糖にしたのも、混ぜすぎないって言うのも、飲みやすくしたくて何回も調整した。……でも結局、“自分の味”しか見てないじゃない!」
「それは――」
「もういい」
綾子は立ち上がり、スクリーンの電源を切った。
「今日は、ここまで」
***
「綾子さん、ちょっと……!」
試作室を出た綾子を追いかけたのは、凱だった。
「今のは……その、海人さんも言い方が……」
「わかってるよ。……でも、もう無理」
綾子は、廊下の窓に背を預け、ぽつりと吐き出す。
「なんかさ、努力したって、結局“あなたの感覚が正しい”って空気になるの。いつも、そう」
「綾子さん……」
「“美味しい”って、誰が決めるの? なんで彼だけ、信じられてんの?」
その声は、怒りよりもずっと静かで――
凱は、何も返せなかった。
***
その夜。オフィスに一人残った綾子は、デスクでひたすらモニターアンケートを眺めていた。
「“香りが立つが、印象に残らない”……何よそれ」
ひとりごとのように呟いた時、ドアがノックされた。
「……遅くまでご苦労さん」
海人だった。
「今さら何しに来たの」
「これ」
彼が手にしていたのは、紙コップだった。
「……甘酒?」
「黒糖と柚子に、少しだけ。アルコールは飛ばしてある」
「……試飲?」
「いや。君にだけ、飲んでもらおうと思って」
綾子は、じっと彼の目を見た。珍しく、まっすぐだった。
「飲んでみて。……今の君の気持ちに、一番近い味にしたつもりだ」
カップを受け取り、一口含んだ瞬間、涙が込み上げた。
あたたかくて、やさしくて、どこかほろ苦くて――
「あんた……なんで、そんなとこばっか正確なのよ……」
「偶然だ」
「嘘つけ」
彼女は唇を噛みながら、泣き笑いになっていた。
***
数分後。やってきた英里が、鼻をすんすんさせながら入ってきた。
「あれ? 二人とも泣いてます? ねえ泣いてるよね? なにそれ、ずるくない?」
「誰も泣いてない。出てけ」
「えっ、なんでぇぇぇぇ」
背後から悠生と有里も顔を出す。
「……匂いだけでわかる。これは、今までで一番の出来ですね」
「やっぱり甘酒のとろみ、正解だったな〜」
「甘酒が嫌いな私は、柚子部分だけいただきます〜」
騒がしい空気が、あたたかく広がっていく。
「……ありがとね、みんな」
綾子がぽつりとこぼした声に、海人がひとこと。
「……泣いたな」
「うるさい」
「顔、赤いぞ」
「お前もだよ!」
それは、言葉にならなかったけど、ずっと飲み込んでいた本音の味。
そして今、それが一杯のカップの中で、やっと溶けてゆく。