その一杯に、恋を少々

第5話「ゆずと黒糖と、午後の君」

 午後四時。

 空調の風が少し冷たく感じる秋のオフィスで、綾子はひとり、会議室の端に置かれたカウンターデスクで頭を抱えていた。

 「……もう……」

 パソコンのディスプレイには、修正指示の赤文字がびっしり。試飲レポートに、試作案の改善案。上司の要望で、販売戦略資料も全面修正。

 ドリンクひとつ開発するだけで、どうしてここまでやることがあるのか。

 (なんで私だけ、こんな……)

 カップに注いだまま冷めたドリンクを見つめるだけの数分が過ぎる。

 そこへ、コン、と控えめなノック音。

 「入ってるぞ」
 誰かが言う間もなく、静かにドアが開かれた。

 「……なんだ、寝てんのかと思った」

 低く聞き慣れた声に、綾子はゆっくり顔を上げる。

 「……海人?」

 手には紙袋。そして、湯気の立つ白い紙カップがふたつ。

 「一個、飲め」

 言葉少なに差し出されたカップを、綾子は両手で受け取る。

 「なにこれ」

 「さっき煮出した。柚子皮を軽く炙ってから、黒糖に軽く沈めてある。あとは、ただのミルク」

 「……ただのミルクで済ませる味じゃない」

 カップの口元から、ふわりと立ちのぼる香り。ほんのりと甘く、けれど鋭く香る柚子が、まるで空気を切り分けるように広がっていく。

 一口飲んだ瞬間、綾子の目が少し大きくなる。

 「……味、変えた?」

 「いや。変えてない。変わったのは、君の味覚かもな」

 海人はそう言って、紙袋を机に置き、綾子の頭をやわらかく――ぽん、と撫でた。

 「なっ……」

 綾子は思わず固まった。

 そのまま、海人は指先で髪を梳くように、少しだけ顔をのぞきこむ。

 その距離、数十センチ。

 ごく自然に、そして、あまりにも近く。

 「寝癖、今日はないな」

 「こ、こっちの心拍数はなかなか荒れてるけど?」

 「それも、味覚の変化だろ」

 「違う! っていうか、その例え使い回すな!」

 彼の手が離れるまで、綾子は一歩も動けなかった。

     ***

 「……私さ、こういうの、苦手なんだよね」

 少し経ってから、綾子がぽつりと呟いた。

 「“ちゃんと支えられてる”とか、“わかってもらえてる”とか、実感するのが苦手。信じたくないっていうか」

 海人はそれに答えず、代わりに自分のカップをひとくち飲んだ。

 「俺も同じだ」

 「え?」

 「誰かと一緒に“作る”って、ずっと苦手だった。自分で決めて、自分で動くほうが楽だった」

 「……でも、今は?」

 海人は少し考えてから言った。

 「……一緒に作ってよかったと思ってる」

 綾子の胸が、ぐ、と音を立てて締めつけられるような気がした。

 「……ずるいよ。あんた」

 「どこが」

 「こういうときだけ、ちゃんと顔して、ちゃんと味出すの、ずるいって言ってんの」

 「言ってる意味がわからん」

 綾子はあきれながらも、少しだけ笑った。

     ***

 その日、綾子はひとつの決意をする。

 数字だけじゃない。感情でも、味でも、誰かの心に届く一杯を作ろう。

 それが、彼とならできるかもしれないと思えた。

 たとえ、混ざらない存在だったとしても。

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