その一杯に、恋を少々

第6話「レシピとレポートと私の距離」

 「あのさ……昨日の夜のことなんだけど」

 試作室でシロップを混ぜながら、綾子はぽつりと切り出した。

 「うん?」
 ミルクを温めていた有里が振り返る。

 「……いや、別に、なんてことないんだけど……」

 「……何? ドリンクじゃなくて、誰かとの話っぽいな〜?」

 「ち、ちがっ……いや、まあ……ちょっとだけ?」

 「おおっとぉ!? 恋バナ感知!」

 声のトーンが一オクターブ跳ね上がった有里が、そのままカウンターの向こうで作業していた英里に目配せする。

 「英里ちゃ〜ん、コード:カイアヤ、発生!」

 「マジで!? 昨日あのあと何かあった!?」

 「うるさい! 大声で変なコード名叫ぶな!」

 「いやいやいや! そういうのはちゃんと共有してもらわないと!」

 「勝手にプロジェクト化すんな!」

 バタバタしているうちに、紙コップを持っていた英里が見事に転び、黒糖ミルクを床にぶちまけた。

 「ぎゃあああ! 靴が! 靴が砂糖漬け!」

 「自業自得だよ……もう……」

     ***

 そんな騒ぎの後。

 綾子は、キーボードの前で資料の提出フォーマットとにらめっこしていた。
 新商品の仮パッケージ案、販促戦略案、そして改善後のレシピ。

 海人から提案されたレシピは、確かに「優しい甘さと香り」が両立されている。
 素材の質を保ちつつ、甘味をどう見せるか――そのために、綾子はあえて“言葉”にこだわった。

 《ひと口で、やさしさに包まれるような》
 《香りがそっと寄り添い、最後に静かに消えていく》

 文章としては、上司受けは悪そうだ。でも、これがいちばん正確な「味の説明」だと思えた。

 (……味のために、私が文章を書く。変なの)

 でも、悪くない。

     ***

 数日後、資料は無事通った。

 そして、小規模だが社員向けの再試飲会を開くことに。
 新しいレシピでの初お披露目。調整された“黒糖×柚子×甘酒”ミルクの正念場だ。

 「今回は、見た目もやや映えます。柚子ピールを軽く浮かせて、層を見せて」

 「これ、英里が“チュルンってなったらSNS向き”とか言ってたやつだよね」

 「英里案かぁ〜。ちょっと不安だけど、まあ……」

 「あのさあ!!」

 英里がカウンター越しにプンスカ飛び跳ねながら叫んだ。

 「みんな私に期待値低すぎじゃない!? なんで!? 誤字報告一回だけだったのに!」

 「先週、冷蔵庫開けっぱなしで凍らせた豆乳のことはもう忘れたの?」

 「うわ……時効だよ時効!」

 笑いが広がったその時、ふと海人が言った。

 「……今回のドリンク、綾子の言葉が味を完成させたと思ってる」

 綾子が驚いて振り返ると、彼は当たり前のような顔をしていた。

 「俺だけなら、素材と香りで終わってた。“誰かの心に届く味”ってやつ、それを足してくれた」

 「……またそうやって……ずるい言い方するんだから」

 「事実だ」

 「そんな風に言われると、ちょっと……」

 「嬉しい?」

 「むかつく」

 「なぜだ」

 「わからないなら、一生わからなくていい!」

     ***

 試飲会は、予想以上に好評だった。

 「これ、ホッとする……」
 「なんか、昔飲んだ柚子茶思い出す」
 「甘すぎなくて、仕事の合間にちょうどいいかも」

 どのコメントも、綾子の言葉と味の“距離”がうまく合っていた証拠。

 (届いた……かも)

 海人がふと近くに立っていて、小さく言った。

 「レポート、出せるな」

 「うん。出せる」

 「じゃ、提出終わったら、次――」

 「……ん?」

 「……次は、俺が“言葉”を書いてみる」

 「へえ。初めてじゃない?」

 「……気が向いたんだ」

 綾子は目を細め、ふっと笑った。

 (この人、ほんとちょっとずつだな)

 でも、それでいいのかもしれない。味も、気持ちも。
 全部を一度に混ぜようとしたら、きっと香りは失われる。
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