その一杯に、恋を少々

第7話「おいしいと言えない夜」

 「……売れる要素が、決定的に足りない」

 その一言は、乾いた書類の音とともに落とされた。

 営業本部長・市川。言い方も態度もストレートで、社内でも恐れられている人物だ。

 綾子は、手元の資料を固く握りしめながら答える。

 「……社員試飲会では、高評価が出ています。社内購買希望も二十件以上ありました」

 「だからどうした。“内輪で褒め合ってる”だけじゃ、世に出せない」

 「……」

 海人が、小さく舌打ちしたのが聞こえた。

 「内輪って……あんた、飲んだんですか?」

 市川が静かに目を上げる。

 「何を?」

 「“そのドリンク”をだよ。現場の味も知らないで、数字だけで判断してんのか」

 「――お前、今、誰に口をきいてる?」

 空気が、一瞬で凍る。

 綾子が慌てて立ち上がる。

 「海人、やめて」

 「綾子。こいつは“売れない”しか言ってない。味も知らねぇのに」

 「やめてってば!」

 今にも、言葉が刃物になる空気。

 市川は、あくまで冷静な声で言った。

 「君たちには、“消費者”が見えていない。今の市場が求めているのは、“確実なヒット”だ。失敗する余地を潰すのが、営業の仕事だ」

 「……それは、味を捨てるってことですか?」

 綾子の声が震える。

 「“届ける”手段がない味は、存在してないのと同じだ」

     ***

 会議が終わっても、誰も言葉を発せなかった。

 エレベーターの前。海人は珍しく壁にもたれている。

 「悪かったな、さっき」

 「……ほんと、空気凍った。誰か心臓止まってたよ」

 「俺かもな」

 綾子が思わず吹き出した。

 「でも……ありがと。あそこまで言ってくれて」

 「俺も……ちょっとは冷静さ学ばないとな」

 「ふふ。珍しく反省してる」

 「珍しいのはお前だろ。俺に礼言うなんて」

 「……バカ」

     ***

 その夜、綾子は自宅でレポートのデータを開いていた。

 味の詳細、原価、パッケージ案。全ては仕上がっている。
 けれど、営業本部長の一言が、脳裏を離れなかった。

 “確実なヒットじゃなきゃ意味がない”

 (……私、数字でやってきた人間なのに)

 いま、あの味を捨てろとはどうしても言えない。

 レポートの最後に添える文言――締めの一文だけが、どうしても書けなかった。

     ***

 翌朝、試作室に集まったメンバーは、どこか重たい空気に包まれていた。

 悠生がぽつりとつぶやく。

 「“美味しい”のに、それを“おいしい”って言えないの、苦しいですね」

 有里も小さくうなずく。

 「ねぇ、私たちってさ、なに作ってたんだっけ?」

 「……“売れるもの”だった、はずだけど」

 「“届けたいもの”だった、気もするよ」

 英里が珍しく真面目な顔で言った。

 「じゃあ、届ける方法を考えようよ」

 全員の目が、英里に向く。

 「数字が必要なら、数字で勝負する方法を作ろう。営業に頼らず、お客さんに直接“飲んでほしい”って思ってもらえる方法。……ダメ?」

 綾子はゆっくり、深く息を吸った。

 「……やろう」

 「ほんと!? やったーー!」

 「英里の案にしては、まともすぎて怖い」

 「ちょっと!? 素直に褒めなよ!」

     ***

 そして、綾子は海人に向き直る。

 「ねえ、次、イベントやらない? 社内じゃなくて、会社前の歩道に試飲ブース出して」

 「……お前、そういうの嫌いだろ」

 「うん。でも、あのドリンク、“飲まれないまま終わる”のはもっと嫌」

 海人はしばらく考えてから、静かにうなずいた。

 「……やろう」
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