その一杯に、恋を少々

第8話「一番いい顔」

 「はい、これで設営完了!」

 試作室のチームが、会社ビルの敷地内に試飲ブースを出したのは、金曜の昼過ぎ。

 透明カップに入った「黒糖×柚子×ミルクドリンク」が、保温ポットと並んでずらりと整列。
 その横には、英里が特注した自作の“撮影ブース”が構えていた。

 ――その名も、《一口、のんだ顔》。

 「これ、あたしの超力作だからね!?」

 英里はスマホとタブレットを駆使して、来場者の“飲んだ直後のリアクション”を写真に収めていく予定だ。

 「ちょっと、映え狙いじゃなく“顔”って……地味すぎない?」

 と、通りかかった同僚が呟くと、

 「そこがいいんです!」と英里が胸を張った。

 「素直に『あ、うまっ』って顔が出たとき、人って一番正直だから!」

     ***

 イベント開始。

 通行人が一人、また一人と足を止め、好奇心から紙カップを手に取る。

 「……あ、なんか、やさしい味」

 「ん? ゆず? ああ、ゆず!」

 「黒糖だ……おいしい……」

 次々と写真に収められる“いい顔”たち。

 驚き、笑顔、安堵。どれも演技ではない、一瞬の本音。

 有里がつぶやく。

 「これが……届けたかったもの、だよね」

 「うん」
 綾子も、そっとつぶやいた。

     ***

 一番手応えがあったのは、年配の女性だった。

 「これねぇ、昔うちのおばあちゃんが作ってくれた“柚子湯”を思い出すのよぉ」

 その目には、ほのかに涙。

 英里が顔写真と一緒に、短いメッセージを書き添える。

 《“忘れてた味”って、意外と心に残ってるんですね》

 それを読んだ海人が、いつもよりほんの少しだけ口角を上げた。

 「……それ、いい言葉だな」

 「えっ、褒めた!? いま褒めた!?」
 英里が全身で喜び、試飲カップをひっくり返すのはもはや恒例。

     ***

 午後三時、並んだ写真と感想カードがA型看板に貼られはじめると、通行人の足がさらに止まりやすくなった。

 「わ、なにこれ。みんな、めっちゃいい顔してる!」

 「これ飲んだらこうなるってこと?」

 英里はにんまり笑いながら、ひと言。

 「保証はしないけど、試してみたくなるでしょ?」

 営業本部の市川も、遠くからその様子を見ていた。

 最初は腕を組んでいたが、試しに紙カップを一つ取り、口をつけた。

 ごく、ごく。

 「……うまい、じゃねえか」

 誰にも聞こえない小さな声で、そうつぶやいた。

     ***

 イベントの終盤。

 悠生が、落ち着いた声で呟いた。

 「“顔”って、ちゃんと数字になりますね」

 「え、どういう意味?」
 綾子が聞くと、悠生は撮影された写真を並べて指さす。

 「笑顔率、九割超えてます。つまり……このドリンクは、飲んだら笑顔になる確率が非常に高い。営業部のロジックに勝てます」

 「それ……無理やり数字化してるだけでしょ」

 「でも、実際、伝わってるじゃないですか。“売れる理由”じゃなく、“飲んでよかった”って思える理由が」

 綾子は、思わず海人のほうを見た。

 彼は、紙コップを両手で包み込むように持ち、しずかに言った。

 「君の言葉が、俺の味を届けた」

 「……なに、それ」

 「事実だろ」

 「またそれ? ずるいんだってば、あんたは」

 「褒めてる?」

 「怒ってる」

 「なぜ」

 「“一番いい顔”させられてるの、こっちなのに!」

     ***

 その日撮影された顔写真は、のちに販促ポスターに採用された。

 そこには、作り込まれたビジュアルはない。
 ただただ、「うまっ」と思った瞬間の笑顔だけ。

 その一瞬が、すべてを伝えていた。
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