その一杯に、恋を少々

第9話「こだわりの先に」

 月曜朝。
 営業会議の一室にて、市川本部長が紙のレポートを一枚めくった。

 写真が並ぶ資料。その中央にあったのは、
 《黒糖柚子ミルク 試飲イベントアンケート結果報告》と題されたデータだ。

 ・参加者89名
 ・「おいしい」以上の評価:93%
 ・「購入したい」希望者:71%
 ・「また飲みたい」回答者:78%

 そして一番下に記された一行に、市川の目が止まる。

 《“顔”が語るなら、言葉はいらない。私たちはその一瞬を作りました。》

 「……うまくやったな」

 彼は小さく、呟いた。

     ***

 その日、綾子たちのチームに正式な販売承認が下りた。

 会議から戻った綾子は、試作室の扉を開けるなり叫ぶ。

 「……通った! 発売決定だって!」

 「っしゃあああああ!」

 英里が一番最初に飛び上がり、悠生が静かにガッツポーズ。有里が感激してハグしようとした凱を片手でかわしながら泣いていた。

 海人は、ひとつだけ「よかったな」と呟き、すぐにカップを手に取った。

 「……で? 最後にもう一杯、作るか」

 「なにそのフラグっぽい言い方」

 「最後の一杯は、仕上げだ。これまでの全部を込める」

 綾子は思わず笑った。

 「……うん、やろう。きっちり届けよう」

     ***

 その日の午後、静かな試作室。
 いつものように火を入れ、柚子を炙り、黒糖を溶かす。

 「ところで、あんたさ」

 「ん?」

 「発売して終わりって、思ってないよね?」

 「……思ってない」

 「よし。なら、次はもっと面倒なもの、やってみようよ」

 「面倒なもの?」

 「……たとえば、全部が“苦い”のに、なぜかまた飲みたくなるやつとか」

 「それ、人間関係の話か?」

 「うるさい!」

 綾子が怒鳴ると、カウンターの向こうで英里がまたカップを倒した。

 「それ“関係”どころか、呪いだよ〜〜〜!」

 有里と凱が慌てて拭きに来るが、有里は泣き笑い。

 「でもさ……あたし、途中で逃げようかと思ったんだよね」

 「え?」

 「黒糖が焦げたとき。失敗したくなかった。でも、逃げたくもなかった」

 綾子がふっと頷く。

 「その気持ち、私もわかる」

 悠生が静かにカップを持ち上げる。

 「型を守るだけじゃ、完成しない。崩して、また作り直して……それが、今回の味です」

 「なんかそれ、名言っぽい」

 「名言です」

     ***

 その日の夜、海人は一人、最後の一杯を仕上げていた。

 蒸気が上がるミルク、ほどよく削った黒糖。柚子皮を浮かべて、ミルクが優しく香る瞬間を待つ。

 そこへ綾子が、そっと近づいた。

 「……あたしも、最後に一杯、作りたい」

 「じゃあ、一緒に作るか」

 二人で一つの鍋を見つめ、スプーンを交代で混ぜる。

 「ねえ、次も……作るよね?」

 「当たり前だ」

 「私と?」

 「他に誰がいる」

 綾子は、答えの代わりに笑って言った。

 「……ほんと、ずるいんだから」

 その笑顔が、香りよりもずっと柔らかく、余韻を残した。
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