夜探偵事務所
第四章:深淵の者
第四章:深淵の者
健太が途切れ途切れにしかし必死に全てを語り終えた時事務所の中には重い沈黙が落ちた。
彼自身のか細い声の残響だけが壁に染み付いた古いコーヒーの匂いと混じり合っていく。
「ふぅーっ」
向かいのデスクに座る女――夜は溜め込んでいたタバコの煙を天井に向かって細く長く吐き出した。
紫煙がゆらりと輪を描いて薄暗い電灯の光に溶けていく。
その瞳は何かを思考するように空の一点を鋭く見つめていた。
「てことはあの電車にいた男の霊三体。あれはお前の夢に出てきたっていう刑事と医者と看守……そのあたりか」
その呟きはまるで全てを見通しているかのような確信に満ちていた。
夜は吸い殻を灰皿にぐりぐりと押し付けて火を消すすっくと立ち上がった。
そして今度は健太が座るソファの向かい側へと静かに腰を下ろす。
二人の距離がぐっと縮まった。
健太は思わず身を固くする。
彼女はスーツの内ポケットから名刺入れを取り出すと一枚の名刺を健entaの前に差し出した。
そこにはシンプルなデザインでこう記されている。
『夜(よる)探偵事務所 所長 山本 夜』
「山本夜だ。見ての通りこの探偵事務所の所長をしている」
健太は差し出された名刺を震える指でつまむように受け取った。
「あ……田上健太です……」
声を絞り出すのがやっとだった。
すると夜はそれまでの険しい表情をふっと緩め悪戯っぽく口の端を上げた。
「……厄介な奴に好かれたもんだな。イケメン」
そのあまりに場違いなからかうような口調に健太は弱々しく首を振る。
「いえそんな笑い事じゃ……」
「あぁ。笑い事じゃない」
夜の声が瞬時に氷のような温度に戻った。
その鋭さに健太ははっとして初めて彼女の顔を正面から見た。
ずっと俯いていて気づかなかった。この山本夜という女は驚くほど若かったのだ。
艶のある長い長い黒髪。切れ長のその瞳は底知れない夜の光を宿している。
そして何よりソファに座っていても分かるほど身長が高くただそこにいるだけでその場の空気を完全に支配するような凛とした気配を放っていた。
夜はその強い瞳で健太を真っ直ぐに見据える。
「お前を追っている花柄のワンピースの女。……あれは『深淵の者』だ」
「しんえん……?」
聞き慣れない言葉に健太はオウム返しに尋ねた。
「あぁ。幽霊や悪霊といったその世界のさらに奥深く。その最深部に棲むような化け物だよ」
夜は少しだけ口元を緩めそして続けた。
「お前『リング』って映画見たことあるか?」
「あのテレビから這い出てくる女。……あれとおおむね同じだと思え」
「物理法則なんて一切通用しない。水たまりの中からでもお前のそのスマートフォンの画面からでも。アイツはいつでもどこからでもお前の前に現れることができる」
「しかも物理法則を無視するが物理的攻撃も出来る」
健太はごくりと渇いた喉を鳴らした。
つまりそういうことか。
「……すごくヤバい幽霊ってことですか?」
そのあまりに幼稚な問いに夜は「いや」と短く否定した。
そして心の底から愉快そうに。それでいて背筋が凍るほど美しく彼女は笑った。
「―――トップクラスにヤバいやつだ」