夜探偵事務所
「そんなに……だとしたら俺はどうしたら……?」
健太の声は溺れる者が最後に吐き出す空気のようにか細く震えていた。
その絶望的な問いに夜は表情一つ変えずに立ち上がった。
彼女は事務所の奥にある給湯室へと向かうと、手慣れた様子でコーヒーの準備を始める。豆を挽く香ばしい匂いが部屋にふわりと漂った。
「通常、深淵の者は深淵からこの世の全てを見通せる」
夜はコーヒーを淹れながら淡々と残酷な事実を告げる。
「そして好きな時に好きな場所へ出現することができる。つまりお前が地球上のどこに逃げようと全くの無駄だ」
「……」
健太は言葉を失った。完全なチェックメイト。
宣告された事実に反論の余地も逃げ場もどこにもなかった。
夜は二つのマグカップを手に健太の元へと戻ってきた。
そしてその一つを健太の前にことりと置く。
「……とりあえずここは安全だ。だから安心しろ」
沈黙する健太を見つめ、夜はふと新たな問いを投げかけた。
「それと、私の後ろにいるモノがお前には見えるか?」
言われるがまま健太は恐る恐る顔を上げた。
そして夜の背後に視線を向ける。
その瞬間、彼は息を呑み目を見開いた。
ソファに座る夜のすぐ後ろ。そこに巨大な「それ」が佇んでいた。
ボロ布のような黒いフードを深くかぶり、その顔は暗闇に溶けて見えない。骨張った巨大な両手でとんでもなく大きな禍々しい鎌を握っている。誰もが物語や絵で見たことのある、まさしく死神そのものの姿だった。
「……見えるみたいだな」
夜は健太の反応だけで全てを察したようだった。
「じゃあ完全にあの女に引きずり込まれて霊感がこじ開けられたな。どの道この先は見えなくていいモノが嫌でも見えるようになるが……それは慣れろ」
彼女は事もなげに言い少しだけ笑った。
「そ、その後ろのは……?」
健太は震える声で尋ねる。
「相棒……かな?私とは切っても切れない関係なんだよ」
夜は曖昧に答えると、おもむろにポケットからスマートフォンを取り出し慣れた手つきで電話をかけた。
「もしもし?」
ワンコールで相手が出たようだ。夜はまるで今日の夕飯の献立でも相談するかのような軽い口調でとんでもないことを言った。
「仁(じん)、深淵の者をおびき出して私とタイマンさせる方法ないか?」
電話の向こうから一瞬の沈黙ののち怒声が響いた。
『親の名前を呼び捨てにすんなバカ娘が!……しっ!深淵だと!?アホかお前は!』
「父親面したいならさっさと教えろよ、父上ぇー」
夜はくすくすと幼い子供のように笑って挑発する。
『お、お前……いくらお前でも死ぬぞ!』
電話の向こうの仁と呼ばれる人物の焦りが伝わってくる。
その言葉を聞いた瞬間、夜の顔から笑みが消えた。
彼女は真顔になり、静かにはっきりと告げた。
「分かってるだろ?私は……死にたいんだよ」