夜探偵事務所

第五章:偽りの安寧

第五章:偽りの安寧


深夜。街が寝静まり、雑居ビルは沈黙と闇に支配されていた。その静寂を破り、一人の男がビルの中へと侵入する。くたびれた作業着を身につけた中年の男は、慣れた様子で階段を上り、目的の扉の前で立ち止まった。
『夜探偵事務所』
男はドアノブに手をかけるが、当然のように鍵がかかっている。彼は懐から取り出した細い針金のようなものを、古びた鍵穴に差し込んだ。カチャ、カチャ、と焦りの滲む金属音が微かに響く。しばらくの格闘の末、ついにカチリ、と小さな手応えがあった。鍵が開いたのだ。
男は音を立てぬよう、ソロリ、と扉を開けて中へ滑り込む。部屋の中は暗く、ソファの上で一つの人影が静かな寝息を立てていた。健太だ。男はその寝顔を確認すると、躊躇なく健太の腕と服を鷲掴みにした。
そして、一気に外へと引きずり出す。
「うわぁーーっ！」
深い眠りから暴力的に引き剥がされ、背中に廊下の冷たい床の感触を感じ、健太は何が起きたのか理解できなかった。ただ、本能的な恐怖で絶叫する。
「加奈ちゃん！外に出したよ！」
男はハァハァと荒い息を切らせながら、廊下の暗がりに向かって叫んだ。健太が、その男の視線の先を追った時、全身の血液が凍りついた。
ガタガタと、歯の根が合わぬほど体が震える。
そこには、花柄のワンピースを着た女が、静かに立っていた。
結界の外。安全地帯の外。
倒れ込み、動けない健太の上に、花柄の女――加奈が、ゆっくりと覆いかぶさってきた。その体は氷のように冷たい。健太は恐怖のあまり、金縛りにあったように身動き一つとれなかった。
加奈は、怯える健太を抱きしめるようにしながら、顔だけを中年の男の方へ向ける。
「お前はもう、行っていいよ」
「あ、あぁ！わかった！」
男は解放されたように安堵の声を上げると、一目散に階段を駆け下り、ビルから去っていった。
廊下には、健太と加奈の二人だけが残された。
「寂しかった……」
加奈が、健太の耳元で甘く、そして悲しく囁く。
そして、彼女は健太の顎に手を添え、顔を近づけてきた。抵抗できない。逃げられない。その唇が、健太の唇に重ねられる。それは、命そのものを吸い上げるような、冷たくて深い口づけだった。健太の意識は、その暗闇の中へと急速に引きずり込まれていく。
やがて、彼の視界は完全に闇に閉ざされた。