夜探偵事務所

​一通りの作戦会議を終えると夜は「さて」と軽く伸びをして立ち上がった。
「じゃあ私は帰る」
​「えっ」
健太は思わず声を上げた。この部屋にいれば安全だと言われたばかりだ。その不安を読み取ったのか夜は「あぁ」と手をひらひらさせた。
「言ったろ。この事務所は安全地帯だ。私がいてもいなくてもアイツらは手出しできない。むしろ私がいない方がゆっくり眠れるだろ」
​そういうものだろうか、と健太が戸惑っていると夜はポケットからスマートフォンを取り出した。
そしてそのスマホの画面を人差し指でトントンと軽く叩きながら健太にただ一言こう言った。
「電話番号」
​「あ、は、はい!」
健太は慌てて自分のスマートフォンを取り出す。
​夜は健太のスマホなど見向きもしない。
彼女は自分のスマホの画面を驚くべき速さで素早く操作した。
​健太が自分の電話番号を口に出そうとしたその時だった。
「……ゼロ、キュー、ゼロ……」
​その、健太が手に持っていたスマートフォンが、突然、けたたましく震え始めた。
着信だ。
健太は驚いて自分のスマートフォンをまじまじと見る。画面には、見知らぬ電話番号が、くっきりと表示されていた。
​「それが私の電話番号だ。登録しとけ」
​「な……なんで俺の電話番号がわかったんですか!?」
健太は驚きのあまり声を裏返して尋ねた。
​「……私は探偵だぞ?」
夜はそう言うと初めて心の底から楽しそうにニッコリと微笑んだ。
そのあまりに人間離れした能力。健太はこの女がただの人間ではないことを改めて思い知らされた。
​夜はそんな健太に背を向けドアノブに手をかけた。その背中に健太はたまらず声をかける。
「あのっ」
​「ん?」
夜が肩越しに振り返る。
​「本当に……ありがとうございます……」
心の底から絞り出した精一杯の感謝だった。それを聞いた夜は「はっ」と鼻で笑った。
「礼はじいさんにって言っただろ」
その表情はどこか照れ隠しのようにも見えた。
​「じゃあな。また明日来るから。こんなとこだけど久しぶりにゆっくりしな」
彼女は片手をひらりと上げるとドアを開けて出て行った。最後までこちらを振り返らず後ろ手でバイバイをするような彼女らしいぶっきらぼうな優しさだった。
​カチャリと扉が閉まり事務所は再び静寂に包まれた。
一人残された健太はしばらくの間夜が消えたドアをぼんやりと見つめていた。そしてふと祖父の存在を思い出す。
(ずっと傍にいてくれてたんだおじいちゃん……)
あの女に必死に助けを求めてくれていた祖父の姿。その愛情を思うと自然と目頭が熱くなった。健太はソファに深くうずくまり誰もいない空間に向かって何度も何度も呟いた。
「ありがとうおじいちゃん……ありがとう……」
​やがて極度の緊張と疲労の限界がついに訪れた。
瞼が鉛のように重くなり意識がゆっくりと沈んでいく。
その日健太は硬く古びたソファの上で数日ぶりに悪夢を見ることなく泥のように眠った。
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