夜探偵事務所
【10年前 ― 加奈 16歳】
加奈が16歳になった頃には、もう全てを理解していた。
この家の、最低限の生活が、自分の体がもたらす汚れた金によって成り立っていることを。父親という名の化け物が、娘を売って得た金で、今日も酒を飲んでいることを。
高校生になってから、兄の真也はアルバイトをいくつも掛け持ちしていた。学校にかかる費用、父親の酒代、そして、わずかな食費。その全ては、妹である加奈の負担を、一日でも、一時間でも早く無くすために他ならなかった。
真也が高校卒業を半年後に控えたある日、一通の封筒が届いた。就職の内定通知だった。
いつものように、父親が泥酔して眠りこけていた、その夜。
真也は、加奈の部屋を訪れると、固く決意した目で、静かに言った。
「加奈。俺が卒業したら、二人で一緒に、この家を出よう」
「え……」
加奈は、兄が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
「だから、もう少しだけ、辛抱してくれ。今まで……お前を助けてやれなくて、本当に、ごめんな」
真也は、声を震わせながら、深く頭を下げた。
その瞬間、加奈の瞳から、涙が溢れ出した。
この地獄から、出られる。あの、父親の皮をかぶった化け物から、逃げられる。
生まれて初めて、悲しい時以外にも、涙というものが出るのだと知った。
この地獄が始まってから、兄の真也が、加奈の全てだった。その真也と、二人だけで生きていける。
『やっと、終わるんだ……』
真也は、卒業と同時に家を出るため、就職先に事情を説明し、住む場所の協力を取り付けた。そして、父親にバレないよう、少しずつ、少しずつ、二人だけの未来のための準備を進めていった。
そして、真也が卒業し、とうとう、その日が来た。
いつものように、朝から酒を飲んでいる父親に、真也が、初めて真っ直ぐに向き合った。
「今日、この家を、加奈と二人で出て行く」
「あぁ?あに、いっれんだぁ?おめぇ……?」
呂律の回らない口調で、父親が真也を睨む。
「もう、加奈にこんな生活はさせられない!だから、加奈と二人で出て行くんだ!」
真也が、初めて父親に言い返した。
これまで、父親に「仕事をしてくれ」と言う度に、殴られた。
「加奈を売らないでくれ」と頼む度に、殴られた。
それでも、真也は、ただ耐えることしかできなかった。
だが、今日は違った。
父親は、いつものように、真也の顔を殴り飛ばした。
「誰のおかげで、生きて行けてると思ってんだぁっ!」
父親の怒声が、家に響き渡る。
しかし、真也は、殴り返した。
生まれて初めて、父親に、その怒りの拳を叩きつけた。酔っ払っている父親は、いとも簡単に吹っ飛んで、壁に背中を叩きつけられる。
「加奈のおかげで、アンタが生きてこれたんだろうが!」
真也は、父親の怒声をかき消すほどの、魂からの大声で叫んだ。
そして、最低限の荷物をまとめたボストンバッグを手に、待っていた加奈の部屋へ向かう。
「加奈、行こう!」
真也は、最高の笑顔で、妹に手を差し伸べた。
その瞬間だった。
ゴスッ、という、鈍い音がした。
背後に、父親が立っていた。
「俺を……置いて、どこに行こうってんだぁ……!」
真也は、前のめりに、ゆっくりと倒れた。
その背中には、台所の包丁が、深く突き刺さっている。
父親の手から、血に濡れた包丁が滑り落ち、カラーン、と乾いた音を立てた。
そして、父親は、倒れた真也の上に馬乗りになると、その顔を何度も殴りつけた。
「お前らが居なくなったら!俺は、どうやって生きていくんだよ!あぁ!?」
「ガッ……あ……」
父親の、身勝手な叫び声が、途中で途切れた。
その首には、先ほど床に落ちた包丁が、深々と突き刺さっていた。
包丁を握っていたのは、加奈だった。
横に倒れる父親。
加奈は、その体に馬乗りになると、無心で、包丁を何度も、何度も、突き立てた。
今まで、父親を恨んだ回数と同じだけ、刺した。
今まで、見知らぬ男に体を売られ、弄ばれた回数と同じだけ、刺した。
父親の皮をかぶった、あの化け物を、殺し続けた。