夜探偵事務所
追想ーーー


【15年前 ― 加奈 11歳】
父が父でなくなったのは加奈が11歳の冬だった。
仕事と酒に溺れた父はやがて優しかった頃の面影を完全に失い家に金がないと怒鳴り散らすだけの化け物になった。
そしてある雪の降る夜。
父は震える加奈の手を無理やり引き近所に住む作業着の男の家へと連れて行った。
「娘を一晩だけ頼む」
父は数枚の汚れた紙幣を受け取ると一度も振り返ることなく加奈をそこに置き去りにした。
それが終わらない地獄の始まりだった。
【14年前 ― 加奈 12歳】
兄の真也はまだ中学生だった。
何もできない。無力だった。
夜遅く魂の抜け殻のようになって帰ってくる妹をただ玄関で迎えることしかできない。
ボロボロの妹の体を沸かしたお湯で優しく拭く。小さな傷になけなしの金で買った薬を塗る。そして黙って隣に座る。妹が眠りにつくまでただ寄り添った。
父を殴り殺したいほどの衝動を奥歯を噛み締めて必死に必死にこらえる毎日だった。
【13年前 ― 加奈 13歳】
加奈は心を殺す術を覚えた。
感情を捨てれば少しだけ楽になれた。
学校では誰とも話さない。人形のようにただ窓の外を眺めて時間が過ぎるのを待つ。
父がまた新しい男の元へ彼女を連れて行く。刑事の男。看守の男。
加奈は何も感じない。何も考えない。
ただ家に帰れば兄がいる。それだけが彼女をこの世界に繋ぎとめていた。
【12年前 ― 加奈 14歳】
真也は高校生になりすぐにアルバイトを始めた。
その年の夏。その日も加奈は夜遅くに魂のない足取りで帰ってきた。
「加奈」
玄関で真也が静かに迎える。
「いいもん貰ったんだ」
彼の手には数本の線香花火があった。アルバイト先で余ったからと貰ったものだった。
二人は古びたアパートの狭いベランダに出た。
真也が線香花火に火をつける。パチッという音と共にオレンジ色のか細い火花が生まれた。彼はその一本をそっと加奈に手渡した。
加奈はただ黙ってその小さな光を見つめていた。
チリチリと燃える火薬。儚く闇に散っていく火花。
その光に照らされた加奈の横顔を真也はじっと見ていた。
いつもは虚ろで光を失っている妹の瞳にオレンジ色の小さな炎が映り込んでいる。その表情はまるで幼い頃に戻ったかのように純粋でそして息を呑むほど綺麗だった。
(ああ……。俺はこの顔を絶対に守らなければ)
真也は胸の内で固く固く誓った。
(どんなことをしてでも必ず。この地獄から連れ出してやる)
やがて最後の火花がぽとりと落ちた。
線香花火はあっけなく終わった。後に残されたのは深い闇と火薬の匂いだけだった。
【11年前 ― 加奈 15歳】
あの夜の誓いから真夜の覚悟は揺らがなかった。
彼はアルバイトをいくつも掛け持ちし眠る時間を削って働き続けた。
稼いだ金は生活費と父の酒代に消える。
だが彼は諦めなかった。誰にも言わずバレないように毎月千円だけでも必ず別の封筒に入れた。
いつか必ず二人でここを出るための軍資金だった。
高校卒業まであと一年。
地獄の終わりはもうすぐそこまで来ている。
真也だけはそう信じていた。
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