夜探偵事務所
第三章:その女、夜
第三章:その女、夜
プシューという音と共に、電車のドアが閉まる。
満員の車内。人々の体温と話し声。
健太は少しだけ安堵の息をついた。だがそれも束の間だった。
ふと顔を上げる。
車両と車両を繋ぐ連結部分。その向こうの車両へと続く扉の小さな窓。
そこに一人の少女が立っていた。
花柄のワンピース。
彼女はこちらをじっと見ている。
そしてその口元がゆっくりと弧を描いた。
にたりと笑った。
健太はこの鉄の箱が逃げ場のない檻へと変わったことを悟った。
(ダメだ……どこへ行っても無駄なんだ……)
絶望に打ちひしがれ、健太はその場にへたり込んだ。
周りの乗客たちが怪訝な顔で彼を遠巻きに見ている。
だがもうそんな他人の視線などどうでもよかった。
その時だった。
人の波の中から、すっと一つの影が現れた。
体に、ぴったりとフィットした、上質な黒のスーツ。そして、タイトな、黒のスカート。その、隙のない着こなしは、彼女の、近寄りがたい雰囲気を、さらに、際立たせていた。
その女は、健太には目もくれず、彼が見つめる、車両の連結部分の窓を、忌々しげに睨みつけていた。
「チッ!」
女は、小さく、しかし、鋭く、舌打ちをした。
「……執拗(しつこ)いジジイだな」
その、独り言のような呟き。
そして、次の瞬間。
ガタンと電車が駅に到着し、ドアが開く。
人の波が、健太の周りを通り過ぎていく。
女は、その人の波を逆行するように、健太の元へと、まっすぐに、歩いてきた。
そして、その腕を、力強く掴んだ。
「おい!下りるぞ!」
ハッと顔を上げる。
女は健太の返事も待たずに、その腕をぐいと引っ張る。
健太はなすすべもなくホームへと引きずり出された。
女は一切振り返らない。
ただ凛としたモデルのような美しい歩き方で雑踏の中を進んでいく。
その背中からは他者を一切寄せ付けない絶対的な孤高のオーラが放たれていた。
健太はその力強い手に腕を引かれながら、必死に声を絞り出した。
「ちょっ!ど、どこに行くんですか!あなたは誰なんですか!?」
その時、女――夜は初めて足を止めた。
そしてゆっくりと振り返る。
その夜色の瞳が、健太の心の奥底までを見透かすように射抜いた。
「お前、あの花柄の女が見えてるんだろ?」
「……黙ってついてこい」
「え……?」
健太は、そのあまりに唐突な、そして全てを見抜いているかのような言葉に、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
この女は一体何者なんだ……?
そしてなぜ自分にしか見えないはずの、あの女のことを知っているんだ……?
その、あまりに唐突で全てを見抜くような言葉に、健太はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
だが夜は健太の混乱などお構いなしに、その腕を掴んだまま再び力強く歩き始めた。
その細腕のどこにこれほどの力があるというのだろうか。健太は必死に抵抗を試みるが、鋼鉄のようなグリップからは逃れようもなかった。
「待ってください!あなたは一体……!」
夜は一切答えない。
ただ凛としたモデルのような美しい歩き方で駅の雑踏を進んでいく。
周りの人々がジロジロとこちらを見ているのがわかるが、彼女はそんな視線など全く気にも留めていないようだった。
改札を抜けると、眠らない街、新宿のきらびやかなネオンの洪水が二人を迎えた。
夜はその喧騒の中を迷いなく歩いていく。
「あの女と関係があるんですか!?何が目的なんですか!」
健太は必死に問いかける。
だが夜はただ無言で前を見据えているだけだった。
やがて二人は大通りから一本外れた薄暗い路地へと入っていった。
そこにひっそりと佇む一つの古びた雑居ビル。
一階にはシャッターの閉まったスナック、二階には怪しげなマッサージ店、そんな看板が並んでいる。
夜はそのビルの狭い入り口を抜けると、奥にある古いエレベーターのボタンを押した。
ガコンと大きな音を立ててやってきた箱の中に、健太は無理やり押し込まれた。
そしてエレベーターはゆっくりと上へと昇っていく。
四階で止まる。
扉が開くとそこは静まり返った薄暗い廊下だった。
夜はその廊下を進み一番奥にある一つのドアの前で足を止めた。
すりガラスのはめ込まれた何の変哲もない木製のドア。
そのドアプレートに書かれた文字を見て、健太は息を呑んだ。
[夜(よる)探偵事務所]
夜はポケットから鍵を取り出すと、古びた鍵穴に差し込んだ。
ガチャリという音がして、世界の扉が開かれようとしていた。