夜探偵事務所

悪夢から叩き起こされるようにして目覚めた。
唇に残るあの氷のような感触。喉を締め付けられる息の詰まるような苦しみ。全てがあまりに生々しい。
健太は自分のアパートの見慣れたベッドの上でしばらくの間ただ呆然としていた。
(……夢だ。そうだ夢だったんだ)
そう必死に自分に言い聞かせる。
だが心の奥底で何かが警鐘を鳴らしていた。あれはただの夢ではないと。
「……そうだ。ニュースだ」
健太はベッドから転がり落ちるようにしてテレビの前に這っていった。
もし昨夜の道の駅での出来事が現実だったのなら。人が一人死んでいるのだ。報道されないはずがない。
震える手でリモコンを掴み電源を入れる。
画面には朝の情報番組の明るく能天気なスタジオが映し出された。
『さぁ今日の特集は週末に行きたい最新の道の駅グルメです!』
健太はそのあまりに場違いな特集に吐き気さえ覚えた。
チャンネルを次々と変えていく。経済ニュース海外のゴシップアニメの再放送。
だがどこの局もあの山奥の道の駅で起きたはずの惨劇については一行たりとも触れてはいなかった。
(……なんでだ?報道されてない……?)
(じゃあやっぱり全部……俺の妄想だったのか……?)
安堵するどころか健太は全く別の種類の恐怖に襲われていた。
現実と非現実の境界線が溶けていく。自分の正気そのものが揺らいでいく。
(逃げよう……ここから逃げよう)
もうこの部屋にいることさえ耐えられなかった。
彼は散らかった部屋着のままクローゼットからボストンバッグを取り出すと洋服や洗面用具を乱暴に詰め込み始めた。
その時だった。
ふわりと。
部屋の空気が変わった。
温度が数度下がったかのような肌寒い感覚。
そしてすぐ耳元で少女の囁く声がした。
「ねぇ?今日はどこ行くの?」
クスクスと楽しそうな笑い声。
まるで一緒に旅行を楽しんでいる恋人のように。
「うわあああああああああっ!」
健太は絶叫した。
そしてバッグを放り投げもつれる足でアパートの玄関へと走った。
(夢じゃない!夢じゃない!今は夢じゃない!)
心の中で必死にそう叫ぶ。
アパートを飛び出し管理人にも挨拶もせず駐輪場へと走る。
バイクに飛び乗るとエンジンが悲鳴を上げるほどアクセルを全開にした。
東京の見慣れたはずの街並みが今はまるで地獄のように見えた。
すれ違う全ての人間が自分を嘲笑っているように感じる。
ショーウィンドウに映る自分の後ろにあの花柄のワンピースの少女が座っているような気がした。
(ダメだ……このままじゃ俺はおかしくなる……)
そうだ人混みだ。
たくさんの人がいる場所に行けば紛れることができるかもしれない。
健太は近くの駅へとバイクを向かわせた。
駐輪場にバイクを乗り捨てると彼は改札へと走る。
そしてちょうどドアが閉まろうとしていた山手線の車両へと転がり込んだ。
プシューッという音と共にドアが閉まる。
満員の車内。人々の体温と話し声。
健太は少しだけ安堵の息をついた。
だがそれも束の間だった。
ふと顔を上げる。
車両と車両を繋ぐ連結部分。その向こうの車両へと続く扉の小さな窓。
そこに一人の少女が立っていた。
花柄のワンピース。
彼女はこちらをじっと見ていた。
そしてその口元がゆっくりと弧を描く。
にたりと笑った。
健太はこの鉄の箱が逃げ場のない檻へと変わったことを悟った。
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