やさしく、恋が戻ってくる
春の音が消えた朝
四月の朝は、やけに静かだった。
家の中から朱里の声が消えるだけで、
こんなにも空気が薄く感じるなんて…
そう思いながら、今日子は手の中のマグカップを見つめていた。
高校進学を機に、朱里は寮に入った。
制服に身を包み、少し緊張した笑顔で「いってきます」と手を振ったのは、ほんの一日前のこと。
子どもだった娘が、少しずつ遠くへ行く。
そのことを嬉しいと感じながらも、ふいに胸の奥にぽっかりと空いたような寂しさが、じんわりと広がっていく。
「ただいま」と帰ってくる気配のない朝。
夫・浩司は、まだ寝室で眠っている。
きっと、いつも通りに仕事に行き、いつも通りの顔をして帰ってくるのだろう。
朱里の巣立ちについて、彼がどれだけ感じているのか、今日子にはわからなかった。
けれど、
この家にふたりきりの暮らしが戻ってくることに、ほんの少し、不安があった。
そして、ほんの少しだけ、期待もしていた。
リビングの椅子に腰を下ろすと、昨日の光景がふと胸によみがえった。
朱里の巣立ち。
寮の小さな部屋。窓際の机に、荷物を運び終えた段ボールがきれいに並んでいた。
棚に並べた本の背表紙や、少し大きめの目覚まし時計。
今日子が中学校時代に使っていたマグカップも、朱里の希望で持たせたものだ。
「よし、これで全部だね」
浩司がダンボールを置いて、手を払う。
朱里は、しばらく部屋を見回してから振り返った。
「パパ、ママ。ありがとう。あとは自分でやるから」
「そうか」
浩司が短く答える。
「勉強、頑張れよ」
「うん」
朱里はにっこりと笑い、今日子の顔をまっすぐ見つめた。
「ママも、パパも。元気でね」
その言葉に、ふいに喉の奥がつまった。
「……朱里……しっかりやっていくのよ」
そう言うのが精一杯だった。
朱里は頷くと、荷物の確認を済ませ、
「じゃあ、行くね」とだけ言って、寮の奥へと歩いていった。
ふたり並んで、その背中を見送った。
制服の裾が揺れて、肩にかけた鞄が、小さく跳ねていた。
小さな背中だった朱里が、もうこんなふうに、自分の道を歩いて行く。
あのとき、
泣きそうな気持ちを飲み込んで笑っていたのは、娘ではなく、今日子のほうだった。
結婚してからずっと、家の中心には朱里がいた。
夜泣き、小児喘息、保育園、小学校のPTA、思春期の悩み……
「お母さん」としての今日子が、何よりも先にあった。
家の中から朱里の声が消えるだけで、
こんなにも空気が薄く感じるなんて…
そう思いながら、今日子は手の中のマグカップを見つめていた。
高校進学を機に、朱里は寮に入った。
制服に身を包み、少し緊張した笑顔で「いってきます」と手を振ったのは、ほんの一日前のこと。
子どもだった娘が、少しずつ遠くへ行く。
そのことを嬉しいと感じながらも、ふいに胸の奥にぽっかりと空いたような寂しさが、じんわりと広がっていく。
「ただいま」と帰ってくる気配のない朝。
夫・浩司は、まだ寝室で眠っている。
きっと、いつも通りに仕事に行き、いつも通りの顔をして帰ってくるのだろう。
朱里の巣立ちについて、彼がどれだけ感じているのか、今日子にはわからなかった。
けれど、
この家にふたりきりの暮らしが戻ってくることに、ほんの少し、不安があった。
そして、ほんの少しだけ、期待もしていた。
リビングの椅子に腰を下ろすと、昨日の光景がふと胸によみがえった。
朱里の巣立ち。
寮の小さな部屋。窓際の机に、荷物を運び終えた段ボールがきれいに並んでいた。
棚に並べた本の背表紙や、少し大きめの目覚まし時計。
今日子が中学校時代に使っていたマグカップも、朱里の希望で持たせたものだ。
「よし、これで全部だね」
浩司がダンボールを置いて、手を払う。
朱里は、しばらく部屋を見回してから振り返った。
「パパ、ママ。ありがとう。あとは自分でやるから」
「そうか」
浩司が短く答える。
「勉強、頑張れよ」
「うん」
朱里はにっこりと笑い、今日子の顔をまっすぐ見つめた。
「ママも、パパも。元気でね」
その言葉に、ふいに喉の奥がつまった。
「……朱里……しっかりやっていくのよ」
そう言うのが精一杯だった。
朱里は頷くと、荷物の確認を済ませ、
「じゃあ、行くね」とだけ言って、寮の奥へと歩いていった。
ふたり並んで、その背中を見送った。
制服の裾が揺れて、肩にかけた鞄が、小さく跳ねていた。
小さな背中だった朱里が、もうこんなふうに、自分の道を歩いて行く。
あのとき、
泣きそうな気持ちを飲み込んで笑っていたのは、娘ではなく、今日子のほうだった。
結婚してからずっと、家の中心には朱里がいた。
夜泣き、小児喘息、保育園、小学校のPTA、思春期の悩み……
「お母さん」としての今日子が、何よりも先にあった。