やさしく、恋が戻ってくる

18歳の君を迎えに行く

「今日子」

「……うん?」

「もし……まだ、間に合うなら。
俺、ちゃんと話したい。今度はちゃんと、“言葉にして”話したい」

今日子は、驚いたように見つめた。でも、それは拒絶の顔じゃなかった。

むしろ、どこか、ほっとしたような。

「……うん。私も、話したいと思ってた」

そして、ふたりの間に残っていた“すれ違い”の時間が、その一言で、ようやく少し溶け始めた気がした。

もう一度、始まるための一歩。
それは劇的じゃなく、静かで、でもたしかに胸に灯る、あたたかい予感だった。

浩司はふっと視線をそらして、小さくうなずいた。そして、まるで何かを決めたように言った。

「……ちょっと、歩ける?」

「……うん」

それだけのやりとりで、ふたりは並んで歩き出した。
並木道の夕焼けが長い影を落としていて、会話のない時間が、なぜか心地悪くなかった。

途中、自販機で買ったペットボトルを渡されて、今日子は「ありがとう」と言っただけ。

浩司のマンションが近づいてくるにつれて、
今日子の胸がじわじわと熱くなっていく。

(……どこまで話せるかな)
(言葉、ちゃんと出るかな)

マンションの前まで来たとき、浩司が小さく振り返った。

「……ちょっと、上がって」

「……うん」

一瞬、迷いはあった。けれど、
「今逃げたら、もう二度と話せない気がする」と思った。

エントランスを抜けて、エレベーターに乗る。

密室の中。ふたりきり。音は、機械の動く低い唸りだけ。

ふと、浩司が小さくつぶやいた。

「……なんで、偶然なんだろうな。大事な時って」
今日子は、横顔を見つめて、小さく笑った。

「偶然じゃないかもよ。必要だったのかも。……お互いに」

チン、と扉が開く。

ふたりは、まだ何も答えを出さないまま、静かに、同じ部屋へと歩いていった。

まるで、「ようやく話せる場所に着いた」
そんな空気が、そこにあった。

カチャ、と鍵の音。
ドアが開くと、ふわっと落ち着いたウッドの香りが漂ってきた。

「どうぞ」

靴を脱ぎながら、今日子はゆっくりと室内に目を向ける。
白とグレーを基調にした、整ったリビング。無機質ではないけれど、どこか静かすぎて、“ひとりで暮らしている男の部屋”という感じがした。

リビングの奥には、ガラス戸越しにダイニングキッチン。冷蔵庫の上にはコーヒーメーカー。

ソファはL字型、テレビは壁掛け。
観葉植物がひとつ、窓際に置かれていた。

「……ずいぶん、広いね」

今日子がポツリとつぶやく。

「2LDK。寝室と、書斎代わりの部屋、使い分けてる。
まぁ、使ってるのはほぼリビングだけだけど」

「……ひとりで、寂しくない?」

「……慣れたよ」

その言葉に、今日子の胸がチクリと痛んだ。
(私は……慣れなかったのに)

ふたりの距離は、テーブルを挟んで二歩分くらい。
でも、その間には言葉以上の沈黙があった。

浩司はキッチンからグラスをふたつ取り出し、水を注いで差し出す。

「ありがとう」

その声さえ、少し上ずっていた。

今日子はソファに腰を下ろした。
けれど、背もたれに体を預けることはできなかった。まるで、今にも何かがこぼれそうで。

そして、浩司がゆっくり隣に座った瞬間、静けさが、音を立てて崩れた。

浩司が水の入ったグラスをテーブルに置いたとき、カチ、と小さな音が鳴った。

その音に反応するように、今日子が口を開いた。

「……寂しかったんだよ」

ぽつりと。
言葉というより、呼吸のように吐き出された声。

浩司が、微かに眉を動かす。

「忙しいの、わかってた。社会人ってそうなんだって、自分に言い聞かせてた。
連絡が来なくても、“私のこと、ちゃんと考えてくれてる”って……思おうとした」

今日子の指が、グラスをなぞるように震えた。

「でも、全然だめだった。
どんどん距離が空いてく感じがして……前みたいに話せなくなって……どんどん、大人の世界が遠くに感じて……」

言葉が震え、呼吸が浅くなる。

「私、子どもなのかなって、何度も思った。“待てない私が悪いんだ”“信じられない私が悪いんだ”って」

そこまで言って、今日子の目に涙が溜まった。

「でも、本当は、寂しかっただけなの。ただ“会いたい”って言いたかっただけなの。
“どうして会ってくれないの”って、“好きだったら伝えてよ”って、言いたかったの……!」

声が震え、涙が頬を伝った。

「言ったらダメだと思ってた。大人の彼女なら、ちゃんと待たなきゃいけないって。
うるさくしたら嫌われちゃうって。……でも、我慢してたら、心が空っぽになっていったの」

浩司は何も言えず、ただじっと今日子を見ていた。

「だから、別れを選んだの。それしか、自分を守る方法がなかったから」

今日子は、ぽろぽろと泣きながら、精一杯まっすぐな目で、浩司を見つめた。

「こうちゃんのこと、ずっと好きだったよ。今だって、ちゃんと忘れたわけじゃない。
……でも、私はもう、“想ってるだけ”の恋愛はできないの」

その言葉は、痛みと強さと、決意でできていた。

リビングの静寂が、ふたりの呼吸だけになった。

浩司の指が、テーブルの上でわずかに動いた。けれど、彼はまだ、何も言わなかった。

今日子は、涙でにじんだ視界のまま、言葉を飲み込み、深く息をついた。

(これが、私の全部。……届かなかったとしても、もう言えた)
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