やさしく、恋が戻ってくる
しばらく、沈黙だけが部屋を支配していた。

今日子の涙が止まらないまま、ソファのクッションがしっとりと濡れている。

浩司は、少しだけ顔を伏せたまま、低くつぶやいた。

「……ずっと、自分を正当化してた」

その声は、驚くほど静かで、でも絞り出すようだった。

「仕事が忙しいのは事実だった。疲れて帰って、連絡ひとつ返すのも面倒な日があった。
でも……一番の理由は、怖かったんだと思う」

今日子が、涙ににじんだ視線で彼を見た。

「お前が、俺より先に大人になっていくのが怖かった。
いつか、“こんな俺じゃ物足りない”って、そう思われるのが、たまらなく怖かった。
だから、距離をとることで、先に諦めようとしてた」

「……なに、それ」

今日子の声がかすれた。

「好きだったんでしょ……?だったら、どうして?」

「好きだったから、だよ」

浩司は強く言った。
それは言い訳じゃなかった。ようやく出せた“本音”だった。

「お前のこと、大事に思えば思うほど、どうせ俺なんか、って思ってた。
会いたい、って言われたら応えられない自分が情けなくて、何も言えなくなった。
だから、お前からの“最後のメッセージ”が届いたとき、……ああ、やっぱりって思った」

「……」

「でもな、今日子。
その“やっぱり”に安心してた自分が、いちばんズルかった」

今日子の瞳が、再び震えた。

「俺は……ちゃんと向き合う勇気がなかったんだ。
本当に向き合ったら、お前を幸せにできる自信なんか、俺にはなかったから」

しばらく、ふたりは何も言えなかった。

ただ、お互いがぶつけ合った傷と、その奥にあった想いを、静かに受け止め合っていた。

「……でも、今は違う」

浩司が、まっすぐに顔を上げた。

「今は、あのときみたいに逃げない。ちゃんと伝える。
今日子、お前を、もう一度大事にしたい。隣にいてほしい。それが俺の本音だ」

その言葉に、今日子は唇を噛んで、視線を落としたまま、両手を膝の上でぎゅっと握った。

けれど、
彼の声には、過去に聞いたことのない強さがあった。

リビングの時計の音が、静かに秒を刻む。

浩司の目は、まっすぐ今日子を見ていた。
ぶつかるような強さじゃない。逃げない、真正面のまなざし。

そして、

「今日子」

「……うん」

少しの間を置いて、浩司は低く、だけどはっきりと尋ねた。

「俺のことは……もう、嫌いか?」

その言葉に、今日子の指がピクリと動いた。

グラスを両手で包んでいた指先が、小さく震える。

「……そんな簡単に、白黒つけられる気持ちじゃないよ」

しばらく黙ったまま、今日子は静かに目を伏せた。涙はもう止まっていた。けれど、胸の奥にずっと残っているものがある。

「こうちゃんが私に冷たかったって思ったときも、もう好きじゃないのかもしれないって、不安になったときも……
それでも、“嫌いになれたら楽なのに”って、ずっと思ってた」

今日子の声は、かすかに震えていた。

「でも、嫌いになれなかった。今日だって……偶然会って、顔を見た瞬間に……」

言葉が詰まった。呼吸を整えるように、小さく吸って、吐いて。

「……まだ、好きなんだって思った。
それがどれくらいの強さか、どこまで信じていいのか、正直わからないけど……」
「でも、嫌いになんてなれるわけないよ」

その一言が、静かにリビングに降りてきた。

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