やさしく、恋が戻ってくる
浩司の喉が、一度だけ動いた。
何か言おうとして、言葉が出ないまま、彼はただ、深く息を吐いた。

「……ありがとう」

「まだ、“戻る”って決めたわけじゃないよ?」

「うん、わかってる。でも、そうやって……俺に気持ちをくれることが、今は、ただ嬉しい」

沈黙が、さっきまでとまったく違う色になっていた。
不安と痛みで塞がれていた沈黙が、いまは、何かがゆっくり育ち始める余白になっていた。

部屋の窓から、橙色の光が差し込んでいた。夕方の陽射しは、どこか寂しく、優しく、そしてどこか切なかった。

ふたりは、言葉を交わしたあと、しばらく沈黙のまま座っていた。
けれど、その沈黙はもう、冷たいものじゃなかった。

今日子が、ゆっくりと立ち上がった。

「……そろそろ、帰るね」

浩司も立ち上がる。けれど.......言葉が見つからなかった。

このまま玄関まで送り出すには、どうしても、何かが足りない気がした。

夕陽が二人の間に長い影を落とす。

その一歩、今日子が玄関へ向かおうとしたとき、

「……待って」

浩司の声が、静かに響いた。

そして、迷いなく一歩前に出て、そっと、今日子の手首をとめた。

「お願いだ。今だけ……もう少しだけ、ここにいて欲しい」

次の瞬間、
その腕が、今日子の細い肩を、ふわりと包み込んだ。

力じゃない。焦りでもない。

ただ、もう二度と手放したくないという想いが、そこにあった。

「ごめん」

彼の声が、耳元で震えた。

「ほんとに、ごめん。ずっと気づかないふりしてた。
お前の寂しさにも、不安にも……自分の弱さにすら向き合えなかった」

今日子は、彼の胸元に顔をうずめる。胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。

「……怖かったの、こうちゃんのこと、忘れられるのが……好きなままじゃいけない気がして」

「忘れなくていい。むしろ、忘れないでいてくれてありがとう。
今日子……俺、本当にお前のこと……」

それ以上、言葉は続かなかった。
でも、もう言葉なんていらなかった。

沈黙のなかで、ただ抱きしめ合う。
夕陽が、ふたりの影を重ねていく。
ほんの少し前まで、すれ違っていたふたりが、今、静かにひとつの呼吸になっていた。

浩司は、今日子をしっかりと抱きしめたまま、しばらくその細い肩に、そっと額をあずけていた。
どちらからともなく、腕の力がゆるみ、ふたりの顔が、ゆっくりと近づいていく。

そして、

浩司が、小さく呼吸を整えてから、低く、静かに言った。

「……キス、していいか?」

その声は、まっすぐで、でもどこか震えていた。
彼女を焦がれる気持ちを必死に抑えながら、“彼女の意思”を、何より大切にしようとする男の声だった。

今日子は、驚いたように見上げた。

その目の奥にある優しさと、少しだけ不器用な不安と、真剣さに、胸がきゅっと締めつけられる。

彼女は、何も言わず、ゆっくりと、うなずいた。

その小さな動きに、すべてが込められていた。

浩司は、迷いなく、しかしそっと、今日子の頬に指を添え、目を見つめたまま、
ゆっくりと、唇を重ねた。
優しく、深く、確かめるように。

それは、ふたりにとって“初めて”ではなかったかもしれない。
でも、“心ごと触れた”のは、きっとこれが初めてだった。

浩司の唇が、今日子の唇から離れた。
お互いの呼吸が、ほんの少し乱れていた。

今日子は、少し照れたように目を伏せる。

そのとき、
浩司が、ぽつりと低く尋ねた。

「……あいつとも、キスした?」

今日子は一瞬、目を見開いた。
その視線に、怒りはなかった。でも、隠しきれない感情が、確かに揺れていた。

少しの間を置いて、今日子は静かにうなずいた。

「……うん」

その瞬間だった。

浩司の目の色が、ふっと変わった。

一歩、踏み込む。手が、今日子の頬をすっと包む。次の瞬間、
激しく、だけど迷いのないキスが、唇をふさいだ。

深く、強く、まるで“取り戻すように”。

それは、今まで見せたことのない浩司だった。

「……っ」

今日子は一瞬、驚いて後ろへ引こうとする。でも、逃げられないわけじゃない。
そのキスには、怒りじゃなくて、“想い”が込められていた。

(悔しかったんだ、こうちゃん……)
伝わってきた。彼がずっと抑えてきた気持ち。独り占めにしたいっていう、どうしようもない欲。
それでも、ずっと我慢していたこと。

今日子の体から力が抜けて、そのまま浩司にすべてを預けた。

二人の間の空気が、はっきりと変わっていた。

彼の手が、背中にまわる。そして、唇が離れたあとも、今日子の額に額をそっと重ねて。

「……俺だけのものだったくせに」

その声が、低く、喉の奥で震えていた。

「……今日子、お前を、あいつにやれなかった」

その言葉に、今日子の胸がきゅっと痛む。でも、嬉しくてたまらなかった。

彼がここまで思ってくれていたこと。この想いが、ただの懐かしさじゃないってこと。

ただのキス以上に、ふたりの関係を塗り替えるような、決定的な時間だった。
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