やさしく、恋が戻ってくる
「……俺だけのものだったくせに」

浩司のその呟きが、額を重ねたまま、今日子の耳元に震えるように届いた。

でも、

その言葉のあと。今日子が、小さな声でつぶやいた。

「……嫌だったの」

浩司の指先が、わずかに止まる。

「……藤木くんに、キスされたとき。優しかったけど……なんか、ちがった。
胸がざわざわして……泣きたくなったの。だから、その一回だけ。……それっきりだよ」

その言葉は、まるでそっと差し出された“答え”だった。

浩司は何も言わなかった。
ただ、強く息を吸って、そのまま、今日子をふたたびゆっくりと、腕の中に抱き寄せた。

今度は、さっきのような激情ではなく。
まるで、ずっと探していた“たったひとつの場所”を
ようやく見つけたような、静かなぬくもり。

「……そっか」

その低い声には、安堵と、悔しさと、そして深い愛しさが全部混ざっていた。

「ありがとう。言ってくれて」

「……ほんとのこと、ちゃんと伝えたかったから」

今日子の手が、そっと彼のシャツの背中に伸びて、ぎゅっと握る。

もう、何も言葉はいらなかった。

ふたりは、過去も、誤解も、距離も超えて、いま、ようやく“同じ場所”にいた。
外の空はすっかり暮れて、部屋にはあたたかい間接照明の灯りだけが残っていた。
ふたりの影が寄り添うように、ゆっくり揺れていた。

「……ほんとのこと、ちゃんと伝えたかったから」

今日子のその言葉に、浩司の胸の奥に、何かがそっと落ちていった。

不安も、嫉妬も、過去の情けない自分も、全部飲み込んで、彼女の存在が静かにそこにある。
もう、言い訳なんていらなかった。

だからこそ、彼は、もう一度今日子を抱きしめ直した。ゆっくりと、けれど離さない強さで。
そして、低く、喉の奥から絞り出すように言った。

「……もう不安にさせない」
低く、静かな声で言った。それは命令でも約束でもない。ただの“決意”だった。
その声に、今日子の指がピクリと震えた。
今日子は、彼の胸の中で小さく息をのんだ。

浩司は、ほんの少し離れて、彼女の瞳をじっと見つめた。

「……俺だけのものでいてくれ」

その言葉には、支配でも所有でもない、誓いのような願いが込められていた。

今日子は、何も言わなかった。でも、ゆっくりとうなずいた。
そして、自分からそっと彼の腕の中に戻っていった。

不安も、寂しさも、疑いも。この瞬間だけは、何もかも溶けていった。

外はすっかり夜。
世界が静かになって、ただ、ふたりの心臓の音だけが重なっていた。

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