やさしく、恋が戻ってくる
「狭いけど、まあ……どうぞ」

そう言って、浩司が一歩先に立ち、今日子の手を軽く引いた。

「……こっちが寝室」

リビングの奥のドアを開けて、浩司が軽く手を伸ばした。

部屋は整っていた。グレーのカバーがかけられたダブルベッド。木目のナイトテーブルと、シンプルな照明。
そして.......枕が、ふたつ。

今日子は、部屋に一歩足を踏み入れかけて……ふと足を止めた。
目が、ベッドの上に留まる。

(……ふたり用……?)

その瞬間、胸の奥に冷たいものがふっと流れた。

何でもないように整えられたその空間が、今日子には急に、“自分の知らない浩司の生活”のように見えてしまった。

「……枕、ふたつあるんだね」

かすれるような声だった。

浩司は、少し驚いたように視線を落とし、それから気まずそうに口元を歪めた。

「……ああ、それは.......」

何か説明しようとして、けれどすぐに言葉が出てこない。

今日子は、そのままベッドを見つめていた。自分でもわかるくらい、顔が少しこわばっている。

「誰か、来たことあるの?」

そう問いかけた今日子に、浩司は視線をそらして、ほんの少し困ったように眉をひそめた。

「……違う。誰も来たことなんてないよ」

そして、しばらく沈黙。
まるで迷っているように、あるいは何かを言うべきか葛藤しているように。

今日子は、じっと彼を見つめた。

「でも……この部屋、すごく“大人”って感じ。私、急に……入り込んじゃいけない世界に来ちゃったみたい」

やがて、彼は深く息を吐き、右手をふっと口元にあてながら、顔をそむけた。
耳まで、真っ赤になっていた。

「……寝室、ベッドも、最初から……」

言葉がもつれる。でも、どうしても言わなきゃいけないという意志で、今日子の方を向きなおし、まっすぐ目を見た。

「……今日子と俺が、一緒に寝れるようにしたんだ」

沈黙。

今日子は、一瞬何を言われたのかわからず、目を瞬いた。

そして、

「…………えっ⁉️」

思わず声が漏れた。顔が一気に熱くなる。

「い、いっしょに……ね、寝るって……⁉️」

浩司は目をそらしたまま、こくんと頷いた。

「……お前が、俺のところに来てくれるようになったら、どこかのタイミングで“そういう日”が来るかもしれないって……
だから、準備だけはしておこうと思って」

「……っ」

今日子の胸がドクンと高鳴る。
驚きと、照れと、そして心の奥のどこかで嬉しさも混じったその鼓動が、どうしようもなく彼の前で暴れていた。

「こ、こうちゃん……っ」

浩司はそれ以上なにも言わず、少しだけ申し訳なさそうな顔で、でもどこか照れくさそうに微笑んだ。

「……今すぐどうこうって意味じゃない。ただ、ちゃんと“お前の居場所”を最初から作っておきたかっただけ」

その言葉が、そっと今日子の心に降りた。

(私のために……?)

大人の世界はまだわからないことだらけだけど、その言葉だけで、なぜか泣きそうになるほど胸が熱くなった。
びっくりしたけど、うれしい。まだ実感なんて全然ないけど、でもたしかに、浩司の想いがそこにあった。

「……っ、もう……そういうの、前もって言わないでよ、びっくりするし……!」

今日子がぷいっと顔を背けると、浩司は照れたように笑って、何かをごまかすように寝室のクローゼットに手を伸ばした。

「わ、わるい……ちょっと服を…」

扉を開けた、そのとき。ふわりと落ちてきた、パステルカラーのパジャマ。
しかも、明らかに女の子サイズ。しかも、未使用のタグ付き。

「…………えっ⁉️」

今日子が一歩近づいて、反射的にパジャマを拾い上げた。

「これ……もしかして……?」

「……っ」

浩司は、言葉を詰まらせ、完全に固まる。

「こ、こうちゃん……なんで、これ……」

「……っっ、その……」

耳まで真っ赤。もう誤魔化せる余地すらなかった。

「……なんかさ、寝具も揃えたし、もしお前が泊まる日が来たらって、思って……」

「……最初から、そんなことまで?」

今日子はパジャマを胸に抱えたまま、ぽかんと彼を見つめた。
浩司は、視線をそらしたまま、ぼそりと。

「お前のサイズ、たぶんSって知ってるし……。色は、こういうの好きだったろ?前に“ゆるふわの綿素材が好き”って、言ってたから……」

「………………」

今日子は、なにも言えなかった。でも、胸がいっぱいになった。

「……ばか」

そう小さく言って、顔を真っ赤にして、パジャマをそっとベッドの上に置いた。
その手を、浩司がそっととる。

「焦らないよ。無理にとは言わない。
でも、こうして“待ってた”ってことだけは、伝えたかった」

今日子は、握られた手を見つめて、ゆっくり、頷いた。
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