やさしく、恋が戻ってくる
夢をしまったアルバム
朱里のいなくなった部屋。
そこに残る制服や参考書を、ひとつひとつ段ボールに詰めながら、今日子は静かに部屋を“自分の場所”に変えようとしていた。
ここを、仕事用のオフィスにする。
そう決めたのは、何かを前に進めたかったからだ。
リビングの棚には、これまで仕事の書類をしまっていた。それらを抱えて移動しようとしたとき、不意に目に入った。
白い背表紙。それは、アルバムだった。
手に取ると、最初のページに、あの結婚式の日の写真。
純白のドレスに身を包み、笑っている自分。その隣で、緊張したような、それでいてどこか嬉しそうな顔をしている浩司。
ページをめくる指先が、ふるえていた。あのとき、私は信じていた。
この人となら、ずっと幸せに過ごせると。母になっても、女でいられると、疑いもしていなかった。
でも現実は.......朱里が生まれて、夜泣きに悩んで、育児に追われて、いつの間にか“妻”ではなく、“母親”としての時間ばかりが増えていった。
浩司の手に触れられるたび、疲れた顔で「ごめんね」と繰り返した夜。
そのうち彼は、何も言わなくなった。
それが、私たちの今だった。
「……なんで、こうなっちゃったんだろう」
つぶやいた瞬間、涙がぽろりと落ちた。止まらなかった。
この涙は、後悔? さみしさ? それとも.......まだ、終わってほしくないという気持ち?
どこかで、もう一度やり直せたらいいのに。あの日の笑顔を、もう一度取り戻せたら。
そんな思いが、胸の奥から込み上げてきて、今日子はアルバムを抱きしめた。
アルバムを閉じたあとも、しばらく今日子は動けなかった。頬を伝った涙が、スカートの上にぽつりと染みを作っていた。
「だいすきだったのに」じゃない。
「今も、だいすき」だ。
でももう、「触れて」と言えなくなってしまった私がいる。
「もう女として見られていないのかも」って、勝手に傷ついて、何も伝えられなかったくせに、傷ついた顔ばかり見せていた。
……もう一度、素直になれたら。あの頃のように、隣に立てたら。
リビングの窓の外には、やわらかな春の風。桜の季節は過ぎ、街路樹の緑が少しずつ濃くなっていく。
朱里のいない家には静けさが戻ったけれど、それは時に、残酷なほど無音だった。
机の上に目をやると、カレンダーのページがふと目に入る。
8月21日。自分の誕生日に、薄く丸をつけた跡があった。無意識のうちにつけた印だった。
(今年は……覚えてるかな)
そう思った自分に、苦笑がこぼれる。そんなことで期待しているなんて、ばかみたい。
だけど.......どこかで、願ってしまっている。
去年の誕生日は、朱里のスケジュールに合わせて、翌日に三人でレストラン。
家族としての時間は幸せだった。でも、女としての私は、そこにいなかった。
(せめて、今年こそは.......)
自分だけを見つめてくれる時間が欲しい。
夫婦として、もう一度、“ふたりだけ”の誕生日が迎えられたなら。
そんな願いが、叶わないとわかっていても、胸の奥で燻っていた。
今日子は、そっとアルバムを棚に戻した。封印するように、でも、少しだけ期待を抱きながら。
そこに残る制服や参考書を、ひとつひとつ段ボールに詰めながら、今日子は静かに部屋を“自分の場所”に変えようとしていた。
ここを、仕事用のオフィスにする。
そう決めたのは、何かを前に進めたかったからだ。
リビングの棚には、これまで仕事の書類をしまっていた。それらを抱えて移動しようとしたとき、不意に目に入った。
白い背表紙。それは、アルバムだった。
手に取ると、最初のページに、あの結婚式の日の写真。
純白のドレスに身を包み、笑っている自分。その隣で、緊張したような、それでいてどこか嬉しそうな顔をしている浩司。
ページをめくる指先が、ふるえていた。あのとき、私は信じていた。
この人となら、ずっと幸せに過ごせると。母になっても、女でいられると、疑いもしていなかった。
でも現実は.......朱里が生まれて、夜泣きに悩んで、育児に追われて、いつの間にか“妻”ではなく、“母親”としての時間ばかりが増えていった。
浩司の手に触れられるたび、疲れた顔で「ごめんね」と繰り返した夜。
そのうち彼は、何も言わなくなった。
それが、私たちの今だった。
「……なんで、こうなっちゃったんだろう」
つぶやいた瞬間、涙がぽろりと落ちた。止まらなかった。
この涙は、後悔? さみしさ? それとも.......まだ、終わってほしくないという気持ち?
どこかで、もう一度やり直せたらいいのに。あの日の笑顔を、もう一度取り戻せたら。
そんな思いが、胸の奥から込み上げてきて、今日子はアルバムを抱きしめた。
アルバムを閉じたあとも、しばらく今日子は動けなかった。頬を伝った涙が、スカートの上にぽつりと染みを作っていた。
「だいすきだったのに」じゃない。
「今も、だいすき」だ。
でももう、「触れて」と言えなくなってしまった私がいる。
「もう女として見られていないのかも」って、勝手に傷ついて、何も伝えられなかったくせに、傷ついた顔ばかり見せていた。
……もう一度、素直になれたら。あの頃のように、隣に立てたら。
リビングの窓の外には、やわらかな春の風。桜の季節は過ぎ、街路樹の緑が少しずつ濃くなっていく。
朱里のいない家には静けさが戻ったけれど、それは時に、残酷なほど無音だった。
机の上に目をやると、カレンダーのページがふと目に入る。
8月21日。自分の誕生日に、薄く丸をつけた跡があった。無意識のうちにつけた印だった。
(今年は……覚えてるかな)
そう思った自分に、苦笑がこぼれる。そんなことで期待しているなんて、ばかみたい。
だけど.......どこかで、願ってしまっている。
去年の誕生日は、朱里のスケジュールに合わせて、翌日に三人でレストラン。
家族としての時間は幸せだった。でも、女としての私は、そこにいなかった。
(せめて、今年こそは.......)
自分だけを見つめてくれる時間が欲しい。
夫婦として、もう一度、“ふたりだけ”の誕生日が迎えられたなら。
そんな願いが、叶わないとわかっていても、胸の奥で燻っていた。
今日子は、そっとアルバムを棚に戻した。封印するように、でも、少しだけ期待を抱きながら。