やさしく、恋が戻ってくる
浩司は、ここ数ヶ月、怒涛のような日々を過ごしていた。
長年関わってきたプロジェクトが、いよいよ形になる。
役所との協議、構造の再設計、細部の調整。最後の追い込みは、まさに神経戦だった。

けれど、それらをすべてこなす原動力になっていたのは.......

今日子の家。

彼女が若いころから「こんな家に住みたい」と夢見ていた理想の住まい。
光がたっぷり入る大きな窓、庭に面したキッチン、書斎と趣味室のあるプライベート空間。
その全てを、浩司は記憶の中にしまっていた。

結婚当初は余裕などなく、子育て期は娘のことで手一杯だった。
だけど、朱里が巣立った今.......ようやく、“彼女だけのための家”をプレゼントできる。

今日子が41歳になる、その誕生日に合わせて。
一番喜ぶかたちで、伝えたい。言葉でうまく愛を示せなかった代わりに、自分の仕事で、彼女を抱きしめるような家を贈りたい。

もちろん簡単にはいかなかった。
土地の取得、ローン、建設会社との調整……。すべてを一人で進めてきた。サプライズにしたかったから。

ここしばらく、今日子は少しよそよそしい気がする。無理もない。仕事漬けの自分に、きっとまた失望してるのだろう。
でも、もう少し、もう少しだけ待っていてくれ。

「今日子。俺は、ちゃんと見てたんだよ」

誕生日に、その言葉を添えて、図面を渡すつもりだった。完成まで、あと少し。
この家が、ふたりの未来をつなぐ“はじまり”になりますように。
浩司はそう願いながら、静かにモニターの前に向き直った。




毎晩、目を閉じても、なかなか眠れない。隣にいるはずの今日子の背中が、遠く感じる。

もっと触れたい。でも、壊れてしまいそうで、手が動かせない。

こんな気持ち、昔もあった気がする。
彼女がまだ俺の「婚約者」になる前。あの頃の、どうしようもない衝動と、ひそかな独占欲。

「そっかぁ……私も、アルバイトしようかなぁ」

あどけなく笑う今日子の顔を見ながら、
あの頃の俺は心の中で、必死に自分を戒めていた。

“ダメだ、まだ今日子は高校生。
俺の気持ちなんか、見せちゃいけない”

でも、その可愛い笑顔を見るたびに、カフェでも、他の男の視線に晒されるのかと思うと、胸の奥がチリチリと痛んだ。
「立ち仕事だぞ?腰やられるぞ」
なんて、しょうもないことしか言えなかった。
本当は、「他のやつに、あんまり見せんなよ」って、言いたかったのに。

今の俺も、あの頃とあまり変わってないのかもしれない。
今日子が他の誰かに見せる笑顔が羨ましくて、でも、自分が奪える資格があるのか、自信がない。

ただ違うのは。
今は、ちゃんと“俺の妻”なのに。俺の手で幸せにできるはずなのに。
なぜこんなにも、臆病になってしまったんだろう。

今日子のぬくもりに、背中ごしにそっと手を伸ばす。何も言わずに、ただ包み込むように。
それが、いまの自分にできる、精一杯の“好き”だった。




金曜日の深夜、寝室に入ると、今日子はもうベッドに入っていた。

着替えて、そっと隣に入る。
少し迷ってから、背後からそっと腕を回した。

「……おやすみ」

彼女は、小さくうなずいただけだった。
言葉はなかったけれど、拒まれもしなかった。
その事実だけで、浩司の胸はほんの少しだけ、あたたかくなった。

けれど、

この距離の先に踏み込むことが、怖かった。

拒まれたらどうしようとか、もう女として見られていないと思わせてしまったら、という思いが、
何年もの間、彼の中でブレーキになっていた。

昔も、こんな風に背中から今日子を抱きしめた夜があった。

恋人になってまだ間もない頃。ぎこちなくて、触れることにさえ緊張していたあの時。

「……今日子」

「うん?」

「……あったかいな」

ただそれだけの言葉に、今日子は笑って、手をそっと重ねてくれた。
背中から伝わってくる鼓動が嬉しくて、誇らしくて、“俺はこの子を、絶対に守っていく”と胸に誓った。

あの頃は、未来がまぶしいくらいに見えていた。

今、こうして背中を抱きしめながら思う。

あのときの「守りたい」は、今でもずっと変わらないのに、どうしてこんなにも、彼女に触れるのが難しくなってしまったのか。

あの頃よりも、ずっと長い時間を一緒に生きてきたのに。あの頃よりも、ずっと強く愛しているはずなのに。

「……今日子」

呼んでみるけれど、彼女はもう眠っているのか、返事はなかった。

それでも、背中に腕を回したまま、そっとささやく。

「……ずっと一緒にいるって、俺はまだ、思ってるよ」

その声が彼女に届いているのかはわからない。
けれど、そっと抱きしめた腕に、わずかに力を込めた。

まだ、俺たちは終わってない。
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