やさしく、恋が戻ってくる

同じ寝室、遠い背中

眠れない夜。天井の薄明かりを見つめながら、今日子はふと昔のことを思い出していた。

朱里がまだ赤ん坊だった頃、夜泣きが激しかった。
一晩に何度も泣いて、授乳して、抱っこして……それでも泣きやまない夜が続いた。

朱里がまだ小さかった頃。

季節の変わり目になると決まってやってくる、息苦しそうな呼吸音に、今日子は夜ごと胸をつかまれるような思いで目を覚ました。

「……しゅり?」

小さな背中が上下に波打つ。浅くて早い呼吸。額にはうっすらと汗。熱もあるのかもしれない。静かな部屋に響くのは、娘のぜいぜいという苦しげな息遣いだけだった。

すぐに窓を少し開け、部屋の空気を入れ替える。加湿器の水を満たし、朱里の背中をやさしく撫でながら、今日子は心の中で何度も祈った。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ……ママここにいるからね」

そう言いながら、朱里の手を握る。小さなその手のぬくもりが、かえって今日子の胸をきゅうっと締めつけた。代わってあげられるものなら、何度でも代わってあげたい。そう思うのに、してあげられることは限られていて。
夜明けまで、朱里の身体を少しでも楽にしようと、上半身を抱き起こしてあやし続ける。熱で火照った額に、ひんやりとしたタオルを当て、苦しみが和らぐたびに、今日子も少しだけ息をつく。

「がんばってるね……えらいよ、朱里」

ようやく浅い眠りに落ちた朱里を腕の中に抱きながら、今日子もそっと目を閉じた。その顔には疲れがにじみながらも、母としての覚悟と愛情が静かに満ちていた。

時計の針が午前2時を回った頃、今日子は朱里の背中を撫でながら、やっと少し呼吸が落ち着いてきたことに安堵の息をついた。
そこへ、寝室の扉がそっと開く音がして、浩司が寝ぼけまなこで顔をのぞかせる。

「……まだ、落ち着かない?」

今日子は小さく首を横に振り、眠る朱里の額にそっと手を当てる。

「さっきよりは、まし。でも、まだ咳が……」

浩司は無言でキッチンに向かい、ぬるめのお茶を入れて戻ってくると、今日子の隣に腰を下ろした。

「ありがと……」

「おまえこそ。ずっと付きっきりだろ。少し休めよ」

そう言いながらも、朱里の様子をのぞきこむ浩司の目は、どこかぎこちなく優しい。不器用な男なりに、心配しているのが伝わる。
今日子は、そっとお茶を受け取り、ひとくち。喉が潤うと、張りつめていた気持ちがほどけるように涙が滲んだ。

「……苦しそうな朱里、見るの、つらい。どうして代わってあげられないんだろうね……」

その言葉に、浩司は今日子の肩をそっと抱いた。何も言わず、ただ静かに寄り添うように。

「おまえがそばにいるだけで、あいつはきっと安心してる。俺も、そうだったよ」

その一言に、今日子の頬をつたう涙がこぼれ落ちた。朱里の小さな寝息が、かすかに響く静かな夜。夫婦は、ほんの短い沈黙の中で、同じ思いを分かち合っていた。

浩司も一級建築士として多忙な日々を送っていた。睡眠不足が彼の仕事に影響するのではと心配した今日子は、ある夜、思いきって提案した。

「朱里がもう少し落ち着くまで、寝室を分けようか。あなたの身体が心配だから……」

そのときの浩司の顔は、忘れられない。
目を丸くして、少し怒ったように、でも何より驚いたように言い返してきた。

「……だめだ。今日子と俺は、絶対に一緒に寝るから」

強い言葉だったけれど、その奥にあったのは“お前と離れたくない”という真っ直ぐな想いだった。
泣きたくなるほど嬉しくて、胸がいっぱいになったことを、今日子は今も覚えている。

それなのに
今の私たちは、こんなにも遠い。

背中越しの静寂に包まれながら、今日子はまぶたを閉じた。
あのときの“ふたりの温度”を、どうして取り戻せないのだろう。


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