あのね、先生
episode26. 届かない想い🥀
——目障りなんだよ。
篠宮さんから言われた言葉が、
耳の奥に、ずっと残っていた。
怒りよりも先に、その言葉が胸の奥に、
驚くほどすんなりと染み込んでいった。
——自分でも、薄々わかっていた。
10年も前から、ずっと引きずっているこの想い。
学生の頃の恋を、大人になった今も、
こんなに大切に抱えたままでいること。
………おかしいよね。
「先生と生徒」
その関係を壊すことなんて できるはずもなくて。
気持ちは、届かなくて当然で。
むしろ、“届いたらいけない”ものだったんじゃないかって。
そんなふうに思えた。
気づけば、道端のベンチに座っている自分がいた。
ただ、ぼんやりと空を見つめながら。
涙は、もう出なかった。
それすらも、疲れ果ててしまったのかもしれない。
冷たい冬空の下で、ただ静かに、
身体も心も、冷め切っていった——。
***
——その頃。
別校舎の応接スペースでは、
佐野と篠宮が向かい合っていた。
「急にこんなところに呼び出すなんて、どうしたの?……そんな暗い顔して、恭介さんらしくないじゃない」
篠宮は何食わぬ顔で微笑んだ。
けれど、佐野の表情は一切笑っていなかった。
「なぜ呼ばれたか、もう分かってるんじゃないか?」
「え?」
「……彼女は今もずっと、恐怖に怯えている。君が送った、あの手紙のせいで」
その言葉に、篠宮の顔から笑顔が消える。
「一体、なんのこと——」
「あの黒い手紙、君がやったんだろ?……俺を装い不気味な言葉を綴ることで、彼女に俺への恐怖心を植え付ける——なんて、少しやり方が汚すぎるんじゃないか?」
言葉を遮るように言った佐野に、
篠宮は表情を固まらせたがすぐににこりと笑った。
「私には何のことかさっぱり。……それに、何か証拠でもあるんですか?」
「証拠なら、3つある」
そう言って佐野は、
表情を変えずに淡々と言葉だけを並べた。
「一つ目。あの雪の夜、大通りに飛び出した彼女を助けた時、路地の奥で、慌てて引き返す君の後ろ姿を見た。……君の履いていた、その特徴的な赤いヒールもね」
篠宮は思わず、自分が履いていた
赤いヒールを隠すように足を後ろに下げる。
佐野はそれを見逃さなかった。
「二つ目。彼女の住所を特定し、ポストに直接手紙を投函できる人物は限られている。『スクール長の娘』という立場を利用して、個人情報を盗み見るなんて大したもんだ」
「ちが……!それはたまたま父の、資料が目に入って……」
「ファイルを閲覧していたという複数のスタッフの証言、そして閲覧ログの記録も確認済みだ。……『たまたま目に入った』で済む話じゃない」
「……っ」
佐野の言葉に、
ひるむように篠宮は唇を噛み締める。
「そして、最後。……手紙の筆跡だ。君が書く文字には特徴的な癖がある。彼女から手紙を見せてもらった時、確信した。
……忘れないでくれ、俺はこれまで君の担当講師だった。君の書くアルファベットの傾き、数字の結び、句読点の打ち方の癖くらい、嫌でも覚えている」
佐野は彼女をまっすぐ見据えると、
落ち着いた、少しだけ下がる声で続けた。
「これ以上、大事な生徒に危害が及ぶのを、俺は見過ごすつもりはない」
篠宮は整然と並べられた事実に、何も言えずただ俯いた。
それから、静かに、閉ざしていた口を開いた。
「“大事な”……? 恭介さんは、どうしてあの三崎という生徒にそこまで固執するの?」
「俺は一言も、“三崎”だと言ってない。なぜ、彼女だとわかる?」
「そ、それは……」
佐野の問いかけに、篠宮の視線が泳ぐ。
けれど次の瞬間、
開き直ったように顔を上げ、表情を歪ませた。
「そうよ、 私がやったの!だってあの子、目障りなんだもの……!!」
「だからって、あんな悪質なことをする必要ないだろ」
「あの手紙を送れば、もうあなたの前には現れないと思った。それなのに、離れるどころか恭介さんに縋りついて……っ。だからっ、一人で勘違いして浮かれてるのも可哀想だと思って、私が直接教えてあげたのよ」
「本人に会ったのか……?」
佐野のわずかに驚くような表情を見て、
彼女は少し満足そうに笑った。
「ええ、会って言ってあげたわ。『あなたなんか恭介さんの”お荷物”でしかない』ってね。……ダメだったかしら?」
佐野は静かに目を細める。
「……勘違いしてるのは君の方だ。彼女は荷物なんかじゃない」
篠宮はムッとするように
眉を寄せると、勢いよく立ち上がった。
「……どうして?どうしてあの子なの!? ただの生徒じゃない……!」
声を上げる彼女に佐野は動じることなく、
冷静に、けれど抑え込むようにして言った。
「……すべて君の手に入るわけじゃない。……『先生と生徒』だったら、何だよ」
その声には、
怒りとも悔しさともつかない感情が滲む。
「え……?」
「君とは違う。俺にとって、彼女は……『特別』なんだ」
呆然と立ち尽くす篠宮に、
佐野ははっきりとした口調で言った。
「ただの、生徒なんかじゃない」
その時、全身の力が抜けるように
篠宮が椅子にへたり込む。
その頬に、悔し混じりの涙がつたった。
「なんで……。“10年前”があるかないかでそんなに違うなんてっ……」
「それは違うよ。君も大事な生徒の一人だ。……だけど」
佐野は、彼女に冷ややかな視線を向けて続けた。
「こんなことをする生徒に、もうこれ以上俺から教えることはない」
篠宮は驚くようにはっと顔を上げる。
「そんな……ひどい……っ」
「ひどいのは、どっちだ。……君のせいで、彼女がどれだけ怖い思いをしたと思う?」
悔しそうに言葉を詰まらせた篠宮に、
佐野はすっと立ち上がり続けた。
「——君の担当を降りさせてもらう。事務局とスクール長にはすでに伝えてある」
そして、トドメを刺すように
冷たい表情を浮かべながら彼は言った。
「今日限りでもう、終わりだ」
佐野は「失礼するよ」とだけ言って、
彼女に背を向けた。
——その背中には、 誰よりも冷たく、
そして静かな優しさが重っていた。
「……っ」
”パタン”と扉が閉められた部屋で、
篠宮は一人、ぎゅっと自分の手を握りしめた。
***
廊下に出た佐野は、
一度だけ深く、重いため息をつく。
ポケットからスマホを取り出すと、
同期の牧村へメッセージを打ち込んだ。
『三崎さんの件、終わった。……後で、少し話せるか』
冷え切った廊下に、
彼の靴音だけが虚しく響いた。
ーーー