桜の記憶

第15話 春の微熱と記憶の輪郭

翌朝、美咲は目覚めた瞬間、夢の中で誰かに「さくら」と呼ばれていた余韻に包まれていた。
それは、決して悪い夢ではなかった。ただ、懐かしくて、切なくて、胸の奥が痛むような感覚。

目を開けて天井を見つめながら、美咲はゆっくりと息を吸い込んだ。
あの電話のあと、彼女は何度も昔の写真を見返した。アルバムの中には、養母・恵子と過ごした幼い日々の写真が整然と並んでいる。けれど、どこかに「その前の時間」がぽっかりと空白になっていることに、初めて気づいた。

「五歳以前の記憶が、ほとんどない…」

誰にでも幼少期の記憶はあいまいだと言うけれど、ここまで何もないのは不自然だ。
それに、京都で悠人と過ごした時間──桜餅の味、あの路地裏の匂い、夕暮れの寺の静けさ──それらがなぜか、「懐かしい」と感じてしまったことも、今なら腑に落ちる。

朝食の席で、恵子は微笑んでいた。

「今朝はよく眠れたようね。顔色がいいわ」

「うん……ありがとう。お母さんも体調、大丈夫?」

「ええ、もう平気よ。美咲の方が心配だったわよ」

恵子の言葉はいつも優しい。でも、今日の美咲には、その優しさが少しだけ重たく感じられた。
ずっと守ってくれた恩人であり、愛情深い母──でも、自分の本当のルーツを知ってしまった今、どこかに罪悪感が芽生えていた。

「ねえ……私のこと、五歳のときに引き取ったって、前に言ってたよね」

スプーンを持つ恵子の手が、わずかに止まった。

「ええ。交通事故で両親を亡くしたって、警察から連絡があったの。美咲ちゃんは記憶をなくしていた。でも、人懐っこくて、すぐに私になついてくれて……それが、すごく嬉しかったのよ」

恵子は少し涙ぐんでいた。
美咲も胸が詰まった。
あの日、自分の運命は大きく変わった。でも、それが悲劇であったと同時に、奇跡でもあったことを今、実感していた。

「お母さん……ありがとう。育ててくれて」

「……何言ってるの。私の方こそ、ありがとうよ。美咲が娘になってくれて、どれだけ救われたか」

二人はしばらく黙って朝の光に包まれていた。


そして、その日の午後。
美咲は再び、京都の桜月庵へ戻る決意を固めた。あの場所こそ、自分が“今”を生きる居場所なのだと確信して。

それは、「真実を確かめに行く」のではなく、「兄と向き合い、自分の足で未来を選ぶ」ための旅だった。

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