桜の記憶

第33話 進化する桜薫

桜月庵の厨房は、春の陽射しが差し込み、ほんのりと桜の香りが漂っていた。
美咲は、春香の手帳をそっと開き、書き込まれた小さな文字をなぞる。

『香りは、記憶を呼び覚ます。桜の香りは、優しく包み込むように』

幾度となく作ってきた桜薫。しかし今回は、母の言葉を胸に、配合を見直すことにした。
桜花の塩漬けはこれまでよりも少し控えめにし、練乳餡には桜の花びらを細かく刻んで練り込む。餡の甘さと塩味が口の中で溶け合い、春の景色が広がるように。

生地は柔らかさを増すため、蒸し時間を数秒短く。最後に桜の花を一輪、そっと天面に置いた。

「できました」
美咲が差し出した皿を、まずは椿が受け取った。年季の入った手が、慎重に菓子を持ち上げ、ゆっくりと口へ運ぶ。

「……ほう。香りがやわらかくなったね。桜が主張しすぎず、餡と一体になっておる」
椿の声は穏やかだったが、その奥に満足の色が見える。

梢も一口食べて微笑む。
「口に入れた瞬間、春の風がふわっと吹いたみたい。お客様もきっと喜びます」

佐々木は腕を組み、職人らしい厳しい目で頷いた。
「練乳餡の練り具合が前よりなめらかだ。温度管理も悪くない」

最後に悠人が手に取り、一口食べる。
視線が美咲に向き、ほんのりと笑みが浮かぶ。
「……美味しい。母さんも、きっと喜ぶと思う」

その言葉に、美咲の胸がじんと熱くなった。
桜薫は、ただの菓子ではない。母から娘へ、そして仲間たちへ、想いをつなぐ橋なのだ。

椿が静かに言う。
「春香はね、この桜薫で多くの人を笑顔にしてきた。あんたも、同じことができる」

美咲は深く頷いた。
これからも桜薫を作り続けよう。季節とともに、少しずつ形を変えながら。
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