桜の記憶

第41話 夜桜の下で

試食会が終わったあとも、美咲の胸は高鳴り続けていた。藤崎の言葉、椿の穏やかな笑み、そして悠人の「信じている」という一言。
すべてが心に
残り、胸の奥を温かく満たしていた。

片付けを終えると、梢が
「今日は特別ね。少し休んできたら?」
と声をかけてくれた。
気がつけば、悠人も同じように厨房を出てきていた。

「少し、歩きませんか」

悠人の誘いに、美咲は自然とうなずいていた。

二人は桜月庵の裏手にある小道を歩き、川沿いに並ぶ桜並木へと向かった。夜の風はまだ冷たさを残していたが、満開の桜が月明かりに照らされ、幻想的に輝いている。

「今日の試食会、よく頑張りましたね」

悠人が静かに言った。その声はいつもより少し柔らかい。

「ありがとうございます。でも、正直まだ夢みたいで…母の記録をたどって作った味を、こうして皆さんに食べてもらえるなんて」

「夢じゃありませんよ。美咲さんがここまで努力した結果です」

美咲は立ち止まり、夜桜を見上げた。花びらがひとひら、風に揺れて肩に落ちる。
その瞬間、不意に幼い記憶がよぎった。桜の下で誰かの大きな手を握っていたような感覚。
だが、すぐに霞のように消えてしまった。

「……私、時々こうして断片的な記憶を思い出すんです。でも、すぐに消えてしまうんです」

「無理に思い出そうとしなくてもいい。必要な時に、きっと自然に戻ってきます」

悠人の言葉は慰めではなく、確信を含んでいた。
美咲は横顔を見つめ、胸の奥に言葉にならない感情が湧き上がるのを感じた。兄としての存在を知った今も、彼の一言ひとことに支えられている自分がいる。

「悠人さん…私は、もっと強くなりたいです。過去を受け止めて、それでも前を向いて生きていけるように」

「その気持ちがある限り、美咲さんはきっと大丈夫です」

二人の間に沈黙が訪れる。しかしそれは気まずさではなく、心地よい静けさだった。
川面に映る桜が揺れ、二人を包み込むように夜風が吹き抜ける。

その時、悠人がふと笑みを見せた。

「実は…さくらの頃のあなたも、よくこうして桜の下で立ち止まっていたんですよ。『きれいだね、ゆうにい』って」

美咲の胸が強く締めつけられた。
記憶の中にぼんやりと、幼い自分の声が重なる。

「…私、やっぱり…」

言葉をつなごうとしたが、涙がこぼれてしまった。悠人は黙ってその肩に手を置き、ただ寄り添った。
美咲はその温もりの中で、失った時間の痛みと、今ここにある絆の確かさを同時に感じていた。

夜桜は静かに散り続けていた。

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