桜の記憶

第8話 ふたりの母

東京に戻った美咲は、恵子の出迎えにどこか胸が締め付けられる思いだった。

「おかえり、美咲。どうだった? 京都は」

「……うん、とても大事な旅になったよ」

恵子は微笑んだが、その奥に微かな緊張があることに、美咲は気づいた。

夕食の後、二人は久しぶりにゆっくりとリビングで向かい合った。恵子が手にした湯飲みの縁を指でなぞんでいる。

「お母さん……話したいことがあるの」

「うん、私も聞かなきゃと思ってた」

美咲はゆっくりと口を開いた。

「私、本当の名前は『田中さくら』っていうの。事故で記憶を失って……そして、お母さんに引き取られて、美咲として育った」

恵子は小さく息を呑んだが、取り乱すことはなかった。

「やっぱり、思い出したのね……」

「知ってたの?」

「うん。あなたを引き取る時に、病院の先生から事情は聞いたの。でも、記憶が戻らないなら、無理に追わせるべきじゃないって言われて……それに、何よりあなたが私の娘になってくれたことが嬉しくて。真実よりも、今を大切にしたかったの」

美咲の目に涙がにじんだ。

「お母さん……ありがとう。私、育ててもらったこと、全部感謝してる。今も、お母さんのこと、大好き」

恵子の目にも、静かに涙が浮かんでいた。

「私もよ、美咲。あなたがどこの子でも関係ない。あなたは、私の宝物」

二人は手を取り合い、抱きしめ合った。

その夜、美咲はかつてない安堵に包まれていた。ふたつの家族。ふたりの母。どちらもかけがえのない存在で、どちらの愛も本物だった。

翌朝、美咲はメールを開き、悠人に報告を送った。

『お兄ちゃん。恵子お母さんに話したよ。すごく優しく受け止めてくれた。どちらの家族も私の一部で、大切な人たちだって、やっと思えるようになった』

すぐに返信が来た。

『良かった。本当に……良かった。さくらも、俺も、幸せ者だな』

そのメッセージを見て、美咲は静かに笑った。

その週末、再び京都に行くことを決めた。

自分のルーツを知りたいという気持ち。そして、兄としての悠人と、もう一度きちんと向き合いたいという思いがあった。

桜月庵に着いた美咲を、悠人は穏やかな笑顔で迎えた。

「よく来てくれたな、さくら」

「うん……また会えて嬉しい」

「じゃあ、今日はゆっくり話そう。今度は、兄妹として」

二人は並んで座り、茶を啜った。気まずさは不思議と消えていた。

「美咲……いや、さくら。俺さ、正直に言うと、混乱してた。ずっと、恋をしていたと思ってた相手が妹だったって知って……でもな、思ったんだ。人を大切に思う気持ちは、形を変えても消えないって」

「うん。私もそう思う。最初に悠人さんと出会った時の温かさは、やっぱり、お兄ちゃんだったからなんだと思う」

桜の記憶と、東京での日々と、二人をつなぐ新しい感情が、静かに交わった。

夜、悠人は仏壇の前に美咲を連れて行った。

「ここにいるのが、両親。そして、この位牌が桜子……俺の恋人だった人だ」

美咲は手を合わせ、静かに目を閉じた。

「私を守ってくれた人……ありがとうございます」

その声に、悠人はそっと頷いた。

過去と向き合い、今を受け入れる。

そうしてようやく、止まっていた時間が再び動き出すのだった。
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